神様の悪戯
夕食と入浴を終えた良樹たち男どもの部屋は、もはや無法地帯だ。菓子袋の山、カードゲームに興じる者たちの熱気、部屋の温度は、明らかに外より何度か上がっているだろう。
良樹はといえば、そんなカオスからは少し離れた場所で、壁の時計と睨めっこしていた。8時。それが渡辺との密会の時間だ。
「川島、そわそわしすぎ。小学生かよ」
クラスメイトの一人が、ポテチをかじりながら呆れたように言う。
「顔がニヤついてるよ」
「いいよなぁ、女の子たちの部屋に呼ばれるとか。うらやましいぜ」
別のクラスメイトたちが、そう言ってからかう。
「うるせえよ」
軽口を叩きながらも心臓は正直で、良樹の心臓はさっきからバクバクと音を立てていた。
「まあ、見つからないようにね。女子の部屋に行ってるのがバレたら、廊下で正座だよ?」
「そんなヘマするかよ」
「消灯時間までには帰ってこいよな。それまで破ると、バレたら正座じゃ済まなくなるからな」
「わかってるって」
はやる気持ちを抑えながら、良樹は時間が来るのをひたすら待ち続けた。
「よし、時間だ。行ってくる」
8時5分前。良樹はそう言って、猫のようにそーっと静かに部屋を滑り出した。
女子部屋がある階は、良樹たちの男子部屋より一階下になる。
誰にも見つからずに渡辺のいる部屋に行く……はずだったのに、階段を降りて渡辺の待つ部屋へと続く廊下に一歩足を踏み入れたその時、彼は人生最大級の障害物に遭遇した。
「あーら、川島じゃない。夜のお散歩かしら?」
腕を組み仁王立ちで良樹の行く手を阻むのは、ラスボス・江藤美咲だった。その隣で志保が「あっ……」と小さく声を漏らした。
「……どけよ、江藤。俺は忙しいんだから」
「あら奇遇ね、あたしたちも忙しいのよ。ちょうどアンタを迎えに行こうとしてたとこ」
美咲はニヤリと笑うと、有無を言わさず良樹の腕を掴んだ。その力は、ゴリラかと思うほど強かった。
「ちょっ、待て! 人違い、いや、人攫いだ! 攫われるぅ! つか痛えし」
「うるさい! いいからちょっとトランプに付き合いなさいよ。人数が足りなくて困ってたの!」
「俺じゃなくてもいいだろ! 他を当たれ! 男ならいくらでもいるだろ!」
「変な言い方しないでよね。他の男の子じゃダメなのよ。アンタがいいの! ね、志保?」
「え、ええっと……」
江藤に話を振られ、志保はオロオロするばかりだった。
「志保がね、アンタと一緒にトランプしたいんだって。アタシはアンタの顔なんて見たくないんだけどさ、可愛い志保がそう言ってるんだから、ちょっとぐらい付き合いなさいよ」
「そうなのか?」
そう問いかけると、志保はちょっと困ったような顔をしながら答えた。
「あの、その、よかったらよしくんも一緒にどうかなって思ったんだけど……でも渡辺さん、待ってるよね」
良樹は、「志保のこの顔、なんか見たことあるぞ」と思った。そして思い出した。
(ああ、そっか。初めて会った頃がこんなだったんだ)
何か言いたいのだけれど我慢してるような、そんな表情。まさにあの頃の志保だった。
(なんだ、結局志保も、俺と遊びたいんじゃねえかよ。心配して損したぜ)
良樹は、自分が美咲の掌の上で完璧に踊らされていることなど、知る由もない。
「トランプ、何やんだ?」
「えっ?」
「だから、トランプやるんだろ? 何をやるのかって聞いてんだよ」
「え、あ、まだ決めてないけど……七並べ、とか?」
「……1回だけだぞ?」
「いいの?」
「そんな顔されたら断れないだろ。だけど1回だけな。1回やったら終わりだからな」
志保の表情がパアッと明るくなった。
(トランプぐらいで何がそんなに嬉しいのかわかんねえけど、まあ悪い気はしないな)
心の中で渡辺に詫びつつ、良樹は美咲の後についていった。
連行されたその部屋には藤原がいた。まるで良樹が来るのを待っていたかのように、静かに微笑んでいた。それがまた彼をイラつかせる。最近良樹はなぜか、藤原の顔を見るとモヤモヤするのだ。
(……なんか、全部仕組まれてる気がするぞ……)
イヤな予感がした。
「何よ、川島。せっかく修学旅行で同じグループになったんだから、親睦を深めるためにトランプするのもいいじゃない」
「……だから、こうして付き合ってるだろ」
「そういえばさ、川島ってトランプ弱いんだって?」
「はぁ? 誰がそんなこと言ってんだ?」
良樹は志保に視線を向けた。志保は「私は言ってないよ」とばかりに首をブンブン横に振る。
「誰が言ってるのか知らねーけど、別に弱くねーし」
「ふーん。じゃあさ、負けた人は罰ゲームにデコピンってのはどう?」
良樹が断るわけはない。望むところだとばかりに、彼はその申し出を受けた。志保も藤原も、少々戸惑いながら美咲の提案を受け入れた。
そして、良樹のイヤな予感は的中した。
「はい、また川島の負けー。罰ゲームのデコピンね!」
「いってぇ! くそっ、なんで俺ばっかり負けるんだよ!」
「知らないよ。運がないんじゃない? っていうか、やっぱり川島ってトランプ弱いじゃん」
「うるせー!」
「もう1回やる?」
「当たり前だ!」
良樹はもはや、完全に市原と美咲の策にハマっていた。
(市原の言う通りだった。面白いぐらい見事にハマってくれたわ。面白過ぎて笑っちゃうくらい。ホント単純なヤツね)
美咲は内心で、そうほくそ笑んでいた。チラッと部屋の掛け時計に目をやると、もう時間は9時をとっくに過ぎている。
一方の良樹は、焦りと意地がない交ぜになって収拾がつかなくなっていた。早く渡辺のところに行きたいけれど、一度も勝てないままじゃ終われない。そんな精神状態だから、普段なら絶対引っかからないような単純な挑発に、面白いように乗せられてしまう。そしてさらに負ける。もはや時間のことなど、まるで頭になかった。
「ちくしょう! もう1回だ!」
志保はそんな良樹の姿を、ハラハラしながらも、どこか楽しそうに見ていた。そしてそれが良樹の負けず嫌いにさらに火をつける。やっぱり負けたままじゃ終われない、と。
「ヤバイよ! 先生が見回り始めてるよ!」
誰かが部屋に飛び込んできてそう叫んだ。
「えっ! マジか!」
「もうそんな時間!?」
誰もが楽しい時間を過ごすあまり。時間を忘れてしまっていたらしい。すでに消灯時間は過ぎていて、先生たちの見回りが始まっていたのだ。
(いっけない。調子に乗り過ぎて消灯時間過ぎちゃったんだ)
美咲は自分のミスに気づいたが、もう遅かった。
「男子! 早く部屋に戻って! 早く! 急いで!」
いきなり部屋の中がドタバタになって、半ばパニック状態になっていた。
だが、そのパニックの渦の中心でただ一人、藤原だけが冷静だった。
彼は一瞬で状況を判断すると、まだ呆然としている他の男子生徒に「こっちだ!」と、的確に脱出経路を指示した。
そして良樹と彼を捕まえている美咲を一瞥すると、ほんの一瞬だけ、何かを諦めたように静かに目を伏せた。
彼は誰よりも早く、そして誰にも気づかれぬように、そのカオスの中から音もなく消えていた。
(やっべえ。これじゃもう渡辺のとこ行けないじゃん)
ついついトランプにアツくなってしまった。
(渡辺、怒るよなぁ。明日なんて言って謝ろう……)
良樹はそんなことを考えているうちに、逃げるタイミングを完全に逸してしまった。
「ちょっと、川島! 何やってんのよ! 早く逃げなきゃダメじゃん!」
「えっ、いや、どこに逃げれば」
「ダメ! もう間に合わない! 川島! 早く隠れて!」
逃げようとする良樹の腕をつかみ、美咲がそう言った。
「か、隠れるったって、どこに隠れりゃいいんだよ」
「知らないわよ! どこでもいいから早く隠れて! そこの布団の中でいいじゃん!」
「はあ!? なんで布団!?」
「いいから黙って早く入れ!」
文句を言う間もなく美咲は強引に良樹の背中を押し、おかげで彼は文字通り布団へとダイブさせられた。
仕方なく中に潜り込むと、誰かと頭をゴツンとぶつけた。
「いってぇ……」
「痛っ……」
小さな悲鳴。
(えっ!? この声は志保じゃねーか。なんで志保がここにいるんだよ!)
まさかの状況だった。同じ布団の中に志保がいる。
「おい! 江藤!」
「静かに! 先生来ちゃう! 川島、動くな! 黙れ!」
布団の上から、美咲の声がくぐもって聞こえた。
(まずい。まず過ぎるだろ、これ……)
布団の中は二人分の体温でサウナのように暑く、密着した身体の感触が生々しい。そして、なんだかいい匂いがする。
(なんだ、この匂い)
頭がクラクラするような、甘くて柔らかい匂い。
「……よ、よしくん、重い……」
「わ、悪い……」
志保の訴えに、良樹は慌てて身体をずらそうとするが、狭い布団の中ではどう動いても余計に身体が触れ合ってしまうだけだった。良樹の腕は意図せず志保の腰のあたりに回ってしまい、その細さに彼は内心ギョッとする。
(志保って、こんな細くて華奢なのか? おまけになんかすごく柔らかいぞ)
良樹の頭の中に、今朝電車内であった出来事が思い出された。
(ああダメだ、このままジッとしてるしかない……)
ゆっくりと部屋のドアが開く。懐中電灯の光が、布団の上をなめるように移動する。
良樹は、反射的に志保の頭を自分の胸にぐっと引き寄せていた。息を殺せ、と合図したつもりだったのだが、腕の中で志保の身体がビクッと大きく跳ねたのがわかった。
(……あれ?)
胸に押し付けた志保の頭から、トクン、トクン、トクンとものすごい速さの鼓動が伝わってくる。それは、先生に見つかる恐怖からくるものなのか。
その時、良樹は初めて気づいた。自分の心臓も志保に負けないくらい、無茶苦茶に暴れているという事実に。
先生が去り、美咲が「オールクリアー!」と勝利宣言のように布団を剥がした時、良樹と志保はまるで茹でダコみたいに真っ赤になっていた。
「……ぷっ、あははは! 何よ二人して、そんな真っ赤な顔して!」
美咲の爆笑する声が、やけに遠くに聞こえる。
「お、おまえ、絶対ワザとやったろ!」
「あーら、なんのことかしら? 不可抗力でしょ」
良樹は志保と一秒も目を合わせられないまま、脱兎のごとくその部屋から逃げ出した。
……ダメだ、全然眠れねぇ。自分の部屋の布団に潜り込んでも、心臓のバクバクが一向に収まらない。渡辺のことも、約束をすっぽかした罪悪感も、全部どこかに吹っ飛んじまった。
腕の中に残る志保の髪の感触とシャンプーの香り。パジャマ越しの、細くて華奢なのに柔らかい身体。そして胸に直接響いてきた、あの速すぎる鼓動。
(……なんだよ、あれ。なんなんだよ、いったい)
今まで、何千回、何万回と顔を合わせてきたはずの、ただの家族だった志保。そのはずのアイツのことが、なぜか今は頭から離れない。俺は枕に顔を埋めて、意味もなく叫びだしたい衝動に駆られていた。
……ダメ。全然眠れないよ。まだ顔が火照って熱い。さっき美咲ちゃんたちに「青春だねえ!」なんてからかわれた時のことを思い出して、ますます顔から火が出そう。
私はわがままだ。
渡辺さんの待つ部屋へ行こうとするよしくんの背中を見ていたら、胸がチクッてして、行かないで欲しいって思ったこと。
美咲ちゃんが「アンタがいいの!」って言ってくれた時、心の中で「そうなの!」って叫んでいたこと。
全部、私のわがまま。
でも、まさかあんなことになるなんて思わなかった。
あの時、布団の中は息ができないくらいに、よしくんの匂いでいっぱいだった。
いつも隣にいたのに全然知らなかった。石鹸の匂いの奥にある男の子の匂いも。私を覆う体の熱も。先生から隠すために、ぐっと引き寄せられた時の強くて優しい腕の力も。
そして、私を抱きしめるその胸から聞こえたの。私と同じくらい、ううん、もしかしたら私より速いんじゃないかっていうくらい、めちゃくちゃに鳴り響く心臓の音が。
あのドキドキは先生に見つかるかもしれないっていう恐怖から? それとも……。
目をつぶっても、さっきの出来事が何度も何度も頭の中で繰り返されちゃう。
腕の中に閉じ込められた時のこと。耳元で聞こえたよしくんの息遣い。私の腰に回された腕の感触。よしくんの戸惑う気配。
「重い」って言った私に、「悪い」って返してくれた声が、すぐ近くで震えてたなぁ。もう全部が生々しくて、恥ずかしくて、消えてなくなりたいくらい。
渡辺さんのところへ行かせたくなくて、少しだけ意地悪な気持ちがあったのは本当。でも、その罰がこれなんて、ひどいよ神様。あんな風に抱きしめられたら、期待しちゃうじゃない。
でもそれは……期待しちゃいけないの。わかってる。だって私はよしくんのカノジョじゃないんだもん。
でももしかしたら、よしくんも今頃、私と同じ気持ちで眠れない夜を過ごしているのかな。そうだったら、いいのにな……。




