様々な想いを乗せて
良樹たちを乗せた新幹線は、滑るように西へと向かっていた。車内は修学旅行の始まりに浮かれた生徒たちの声で、賑やかな喧騒に満ちている。
当初決まっていた席など、もはやあってないようなもので、皆それぞれが気の合う仲間同士で近くの席に集まって話に花を咲かせている。
あちこちでトランプやゲームが始まり、菓子袋を開ける音と、バカ笑いが響き渡る。あんまり騒ぎ過ぎると先生が注意しに来るが、静かになるのはその時だけで、先生がいなくなれば、すぐに元通りだ。もっともこうなるのがわかってるから貸し切り車両なのだが。
そんな中で藤原は、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。隣の席は同じクラスの女子生徒で、通路を挟んで仲良しの女子生徒たちと談笑している。
(……これから、どうなるんだろう)
藤原は頭を痛めていた。理由はもちろん、あの地獄のようなグループ分けだ。
良樹の荒んだ目、美咲の険しい表情、そして、その間で小さくなっている志保の姿。考えるだけで胃が重くなる。
(正直、まとめられる気がしないよ……)
その時、通路の向こうから人混みをすり抜けるようにして、一人の男子生徒が近づいてきた。市原慎司だった。
「……藤原くん。ちょっと、いいかな?」
市原は、周りには聞こえないような低い声でそう言うと、藤原の隣の女子生徒に「ごめん、少しだけ席、代わってくれる?」と、爽やかな笑顔で頼み込んだ。彼女は、顔を赤らめながら、すぐに席を立った。
藤原の隣に、市原が深く腰を下ろした。
(なんで市原くんが?)
藤原は困惑していた。市原は良樹と並ぶ有名人なのでもちろん知ってはいるが、個人的な接点は全くない。おそらくまともに話したこともないはずだ。
「……大変なグループになっちゃったね」
市原はそう言って、修学旅行のグループに触れた。
「……うん。まあね」
「あいつ……川島のこと、どう思う?」
ストレートな問いだった。藤原は、言葉を選びながら正直に答えた。
「少し……危うい感じがする。この前の球技大会だって、春の大会の時とは全然違ったから」
「……だよね」
「なにか、あったの?」
「あったと思うよ。ただ、当の本人は何もわかってないんだろうけどね」
市原はそう言って、通路の向こう側で渡辺と楽しそうに話している良樹の横顔を、一瞬だけ冷たい目で見つめた。
「あいつは今、もう自分も周りも見えてないんだ。だから……」
市原は、再び藤原の方へと向き直った。その瞳は、先ほどまでの冷たさとは違い、真剣で、どこか懇願するような色を帯びていた。
「……槇原さんのこと、頼むな」
あまりにも短い、しかし、あまりにも重いその一言。
藤原は、ゴクリと唾を飲んだ。それは、ただの頼み事ではない。かつて志保の隣にいた男の親友が今、志保の隣に座るかもしれない自分に、彼女の未来を託しているように彼には感じられた。
「……うん。わかってる」
藤原は、そう答えるのが精一杯だった。
「突然話しかけて悪かったね。じゃあ」
市原はそう言って立ち上がると、席を代わってくれた女の子にお礼を言って、小さく一度だけ頷くと、自分の車両へと人混みの中を戻っていった。
その背中が、なぜかひどく孤独に見えたことが、藤原は不思議に思えて仕方がなかった。
席に戻った僕は、外していたイヤホンをまた耳に深く押し込んだ。大音量のロックミュージックが、思考を無理やりかき消そうとする。
(……川島のバカヤロウが)
音楽の洪水の中、僕は心の中でそう毒づいていた。
もちろん槇原さんのことが心配だった。それは本当だ。オマエと一緒に東京駅まで来た槇原さん。なのにオマエがカノジョを見つけたとわかると、スッと自分から離れていった。
(あの時の顔の槇原さんの顔……)
それは全ての感情が抜け落ちてしまったような、ガラス玉みたいな瞳だった。あの顔を見たら、放っておけるわけがないじゃないか。
(なんでそんな無神経な真似ができるんだよ。信じらんねえよ)
今日の僕は、あれからオマエに対して無性にイライラするようになったんだ。
昔から、そうだった。僕は、ああいうタイプの無神経さが、どうしても許せない。
――ふと去年の、ある日の休み時間の光景が、脳裏をよぎった。
クラスの男子たちが、休み時間に一人の女子生徒を囲み、その髪型や持ち物について嘲笑を浮かべながらからかっていた。
女子生徒は俯いて、ただ耐えている。
その光景を少し離れた場所から見ていた僕は、静かにゆっくりと立ち上がって騒ぎの中心へと迷いなく歩いていった。
からかっていた男子生徒の一人が、僕の姿に気づき、「お、市原じゃん。お前もそう思うだろ? こいつのこのカバン、ダサくね?」と、同意を求めてきた。
僕は、その男子生徒に一瞥もくれなかった。
「――ごめん、斎藤さん。この前の図書委員の仕事の件なんだけど、少し話せるかな? 君の意見が、聞きたいんだ」
そのあまりにも場違いで、あまりにも丁寧な言葉に 嘲笑していた男子生徒たちが、一瞬きょとんとしてたっけ。
驚いて顔を上げた斎藤さんの瞳が不安げに揺れていた。
「ここで話すのも、なんだし。……行こうか」
僕はそう言って、彼女が廊下へと歩き出すための道を自分の身で開けた。モーゼの十戒のように、男子生徒たちの輪が自然と割れた。
(伝わったかな。自分たちがどれほどくだらないことをしているか、わかってくれたかな)
女の子を泣かすような真似をして何が楽しいのか、僕には全く理解ができない。
(僕は……絶対父さんのようにはならない……)
市原は、母親が父親の心ない一言に傷つき、キッチンで一人涙を流しているのを何度も見てきた。そのたびに胸を痛めてきた。
(女の子の心は、ガラス細工よりも繊細で尊いものだ。それを土足で踏みにじる権利なんて、誰にもないんだ)
なのに川島は、あろうことか自分のカノジョと幼馴染という、二人のかけがえのない女の子の心を、同時に無自覚に踏みにじり続けている。
(……許せるわけが、ないだろうが)
彼の怒りは、もはや個人的な嫉妬心だけではなかった。
それは、世界中の全ての心ない男たちに対する、静かで、しかしどうしようもなく激しい憤りだった。
――川島、お前は知らないだろう。
オマエが渡辺さんと付き合い始めてから、槇原さんが昼飯をどこで、どんな顔で食べているのか。オマエが渡辺さんと楽しそうに話している時、少し離れた場所で、どんな思いで彼女がお前たちのことを見ているのか。
僕はね、ずっと見ていたんだよ。親友のオマエが、彼女の一番近くにいながら何ひとつ気づいていないその全部を、僕はすぐ近くで見ていたんだ。
でもね、川島。本当はそれだけじゃないんだよ。僕がオマエにイラついているのは、それだけが理由じゃないんだ。それはただのキッカケなんだから。
僕が抱えている、この腹の底で渦巻く黒くて重たい感情は、オマエとの友情や槇原さんへの同情だけじゃないんだよ。
僕が本当に腹を立てているのはさ、お前がいま楽しそうに話しているその幸せが、僕がずっと喉から手が出るほど欲しかったものだからなんだよ。
渡辺一美さん。
僕が彼女を好きになったのは、いつからだったか。一年で同じクラスだった時、いつも窓際で窓の外を眺めていた彼女の横顔を、僕は何度も盗み見ていたんだ。
少しキツそうな目つきとは裏腹に、時折見せる笑顔の落差がたまらなく可愛くて、ちゃんと話してみたいとずっと思っていたんだ。でも、不良っぽいという噂や彼女が持つ独特の空気に気圧されて、結局僕は一度もまともに話しかけることすらできなかった。
二年になって、クラスが別々になって。それでも、廊下ですれ違うたびに目で追っていたよ。いつか、きっかけさえあればって、そんな淡い期待を抱いていたんだ。
そんな時だ。オマエが渡辺さんと親しげに話しているのを見かけたのは。席が隣になったからだと、最初はそう思っていた。でも日に日に楽しそうになっていく様子を見るたびに、胸の奥が軋むような痛みに襲われたんだ。
そしてあの日「渡辺と付き合うことになった」と川島から報告された時、僕は笑って「よかったな」と言うことしかできなかった。親友の幸せを祝福するフリをすることしか。
そうだよ、僕はあの時、心から祝福なんてしてなかった。祝福したフリをしていただけなんだ。
(なんで、オマエなんだよ……)
イヤホンから流れるギターの音が、頭蓋骨に直接響く。
オマエには槇原さんという、あんなにも一途に想ってくれる可愛い女の子がすぐそばにいるじゃないか。なのにその存在に気づきもせず、気づこうともせず、あろうことか僕がずっと恋焦がれていた女の子まで手に入れてしまった。
神様がいるなら教えてほしい。どうしてこんなにも、人の気持ちは上手くいかないようにできているんだろう。どうしてそうしたんですか。
――いや違う。神様のせいじゃない。
だって僕は何も行動できなかった、僕は渡辺さんに話しかける勇気さえなかったじゃないか。なのに今さら何を言っているんだ。
それに、僕は親友に対して最低なことを考えている。僕は川島の幸せを願えないのか? そんなに心の狭い人間だったのか? でもその幸せの相手は僕の好きな女の子なわけだし……。
僕は再びイヤホンを耳の奥にねじ込んだ。自分自身に対しても無性に腹が立って、耳から流れ込んできた激しい音楽に身を任せ、ゆっくりと目を閉じた。
これから始まる3日間。僕は親友のカノジョであり僕の好きな人がオマエと楽しそうに笑っているのを、ただ見ていることしかできないんだろうか。そして親友の笑顔を心痛めながら黙って見つめている女の子を見守ることしかできないんだろうか。
新幹線の規則正しい振動は、そんな僕の苛立ちを乗せて何事もなかったかのように西へと向かっていた。




