東京駅へ
夕食を終えた川島家では、家族それぞれがリビングで思い思いの時間を過ごしていた。
ソファでは樹が新聞を広げ、薫子がその隣で編み物をしている。床では瑞樹が志保の膝を枕にして、少女漫画を読んでいる。高校生の竜樹はテレビのスポーツニュースをぼんやりと眺め、良樹と志保も何の気なしにテレビを眺めている。
「そういえば良樹と志保ちゃんは、修学旅行の当日は東京駅まで誰と行くか決まってるの?」
ふいに薫子が手を止めてそう言った。
「いや、俺はまだ決めてないけど……」
良樹はもちろん渡辺と行くつもりだったが、残念ながら彼女はすでに他の友達と約束をしていたらしく、ひどく謝りながら断られていた。
「志保ちゃんは?」
「私も……まだ決めてないです」
志保もまた、藤原と約束をするには至っていない。彼から誘われてはいるのだが、志保はまだ明確な返事をしていなかった。
「そうか。なら良樹、オマエは志保ちゃんと一緒に行きなさい」
話を聞いていた樹が、新聞から目を離してそう言った。
「えっ! なんで俺が!?」
反射的に良樹は声を荒らげた。その反応に、横で聞いていた竜樹は「やれやれ」とでも言うように小さく首を振った。
「なんでも何も、志保ちゃんを守るのは、お前の役目だろう?」
樹の、静かだが重い一言がリビングに響き渡る。竜樹が少し驚いた顔で父を見つめている。
父のその言葉に、良樹はハッとした。
それは、幼い頃から何度も何度も言われ続けてきた言葉だ。
(でも、今は渡辺が俺のカノジョで……志保は藤原と仲良くしてて……。俺たちは、もう昔みたいにいつも一緒にいるわけじゃないのに。それでも俺が、あいつを守るのか? 渡辺じゃなく?)
混乱する良樹の心を見透かすように、樹は言葉を続けた。
「いいか、良樹。オマエと志保ちゃんが誰と付き合おうと、将来誰と結婚しようと、それは関係ないんだぞ。お前が志保ちゃんをを守り続ける。それは、俺がオマエの父親であるのと同じで、変わることのない事実なんだ。わかるか?」
瑞樹がハラハラしながら志保の顔を窺っている。
「わからないか? 俺は父親としてオマエたち4人を守り続ける。そしてそれはオマエたちが何歳になろうが、俺が死ぬまで変わらないことなんだよ。そういうことだ」
竜樹はその言葉に驚き目を見張り、瑞樹は志保の膝枕から起き上がって父親の顔を見つめた。
良樹は何も言い返せなかった。兄と妹とは違う、頭を金槌で殴られたような衝撃が彼を襲っていた。
(そっか……そう、なのか……)
恋愛と、志保を守るということは、全く別のものだったのか。たとえ自分たちがそれぞれ全く別の人生を歩むことになったとしても。自分が志保の一番近くにいる守護者であるという事実は決して変わらないんだ。志保が結婚したら一番が二番になるだけのことで、志保を守ることに何にも変わりはないんだ。そうか、そうだったのか……。
「……わかったよ。俺が、ちゃんと連れて行くから」
良樹は、父の目を真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと、そう答えた。その声には、もう先ほどまでの不貞腐れた響きはなかった。
それは自らが背負うべきものの重さを初めて自覚した、一人の男の声だった。
修学旅行の朝は驚くほど早くやってきた。まだ薄暗い中、良樹はほとんど条件反射のようにベッドから這い出し、顔を洗ってリビングへと向かう。そこにはもう、食卓に2人分の朝食を並べている母さんと、すでに出発の準備を終えた志保の姿があった。
「おはよう、良樹。ちゃんと起きられたのね」
「おはよう、よしくん!」
「……お、おう。おはよう」
薫子の明るい声に続いて聞こえた志保の声は、いつもよりだいぶ弾んでいるように聞こえた。修学旅行が楽しみで仕方ないのか? 良樹はテーブルを挟んで志保と向かい合わせに座った。
「楽しみだね、修学旅行!」
「……まあな」
「京都の紅葉、テレビで見たけど、すっごく綺麗なんだって!」
「……ふーん」
「荷造り、ちゃんと終わってる? 忘れ物はない?」
「大丈夫だって。リスト見ながら全部入れたよ」
「お財布も、忘れちゃダメだよ」
「……オマエは俺の母親か!」
やっぱりはしゃいでるよな、と良樹は思う。そして、こんなに話したのはいつ以来だろうかと考えた。
「それじゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい。二人とも、気をつけてね。……志保ちゃん、良かったわね、良樹と一緒で」
「……はい!」
薫子の言葉に、志保は満面の笑顔で答えた。
「ねえ、よしくん。渡辺さんと一緒に行かなくて、ホントによかったの?」
駅まで向かう道すがら、志保はそう尋ねた。彼女はただ純粋な疑問として尋ねているように見えた。その瞳には何の棘もない。
「……別に、いいんだよ。向こうも別の友達グループと一緒に行くって言ってたし」
それはウソではない。
「それに、まあ……お互い他の友達との付き合いだってあるしな」
良樹は誰にともなく言い訳するように、そう付け加えた。
「……そっか」
ただそれだけを呟くと、志保は少しだけ、本当に少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
ガタン、ゴトン、と規則正しいリズムを刻んで、電車は都心へと向かっていく。ラッシュアワーには早いけれど、修学旅行に行く同じ学校の生徒たちも結構いるので、車内はそれなりに混み合っていた。電車は都心のビル群へと差し掛かり、大きくカーブを描いた。
その、瞬間だった。
つり革を掴んでいなかった志保の身体が、ぐらりと大きく傾いた。
「きゃっ……!」
「おっと……!」
良樹は、ほとんど反射的に腕を伸ばしていた。倒れそうになる志保のその肩をグッと強く引き寄せて支える。彼の腕の中に、すっぽりと収まった志保の身体。
「……あっ」
触れた肩は、驚くほど華奢だった。制服の生地越しに志保の体温と、そしてドクンと跳ねた心臓の音が直接伝わってくるような気がした。いつも嗅いでいるはずのシャンプーの香りが、なぜか今日はひどく甘く感じる。あれ、コイツ、こんなだったっけ……?
「……ごめんね、ありがとう」
志保は、弾かれたように良樹からぱっと身を離すと、顔を真っ赤にして、小さな声でそう言った。
『まもなくー、東京ー、東京ー』
アナウンスが流れ、ふたりは無言でドアの前に並んだ。志保は、まだうつむきがちだ。そしてなぜか良樹も。
(なんだろう。なんか、志保の顔をまともに見れないぞ。なんだこれ)
反射的に志保を守ったあの瞬間。あの瞬間から良樹の中で何かが変わったようだった。
ざわめく東京駅のホーム。集合場所には、すでに多くの生徒が集まっていた。良樹はその人混みの中、すぐに渡辺の姿を見つけた。
「おー、渡辺! 待たせたな!」
良樹は努めて明るい声を出し、彼女のもとへ駆け寄った。心の中の動揺を、振り払うように。
「ううん、私も今来たとこ。……あれ、川島くん、顔、赤くない?」
「え!? そ、そうか? 電車の中、暑かったからかな」
他愛のない会話。カノジョとの、いつもの時間のはずだった。
しかし良樹の目は、ごく自然と渡辺の肩越しに人混みの中を彷徨っていた。さきほどまで一緒だった志保が、いつの間にかいなくなっていたからだ。
(……あいつ、どこ行ったんだろ)
無意識のうちに志保の姿を探している、その事実に良樹自身は気づいていない。
しかし、渡辺は気づいていた。彼の瞳が、自分ではない誰かの姿を必死で探していることに。そして、その「誰か」が誰であるのかも。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、にっこりと、完璧な笑顔のまま、良樹の腕に、そっと自分の腕を絡ませた。
「川島くん、楽しい修学旅行にしようね」
その声は甘く、そしてどこか有無を言わせぬ強さを持っていた。まるで鎖のように絡みつくその腕の感触に、良樹は何とも言いようのない息苦しさをなぜか感じていた。




