揺らぐ気持ち
夏休みが終わりに近づいた、ある夜のこと。珍しく穏やかな表情で新聞を読んでいた樹に、薫子が嬉しそうに話しかけた。
「あなた、志保ちゃんのことだけど……どうやら、私の考えすぎだったみたいね」
「ん? 何がだ?」
樹は新聞に目を通しながら、そう尋ねた。
「良樹への気持ちよ。ほら、私、あのコが良樹のことを恋愛的に好きなんじゃないかって言ったでしょう?」
「ああ、そんなことを言ってたな。で、違ったのか?」
「ええ。最近、図書館で一緒に勉強している男の子がいるみたいなの。クラス委員の、藤原くんっていう子なんだけど」
「へぇ、そうなのか」
樹は、新聞から顔を上げて、少しだけ驚いた顔をした。
「あのコと話しているとね、時々藤原くんの名前が出てくるのよ。『藤原くんがお勧めしてくれた本が、すごく面白いの』とかって。映画を見に行ったりもしたみたい。あのコ、最近顔つきが変わってきたわ。少しずつだけど、また前みたいに笑うようになってきたの」
薫子の声は、本当に嬉しそうに弾んでいた。樹も、その報告に、目尻の皺を深くした。
「そうか。……まあ、良かったじゃないか。あのコが自分で前に進めるなら、それが一番だよ。俺たちが心配することじゃなかったんだな」
だが樹の表情には、ほんの少し落胆の色が見えた。
「本当は良樹の奴が、もっとしっかりしてくれれば一番なんだがな」
「……そうね。でも、志保ちゃんが自分の力で幸せを見つけられるなら、私たちはそれを見守ってあげるしかないのかもしれないわね。たとえその相手が良樹ではなかったとしても」
「……そうだな」
なにはともあれ、ようやく家にいつもの平穏が戻ってきた。樹も薫子も、心からそう信じていた。夏の終わりの、静かな夜だった。
薫子の言葉は、ある意味で正しかった。
あの日以来、志保は、藤原と何度か会っていた。それは、ぎこちなく始まった夏休みだけの秘密の時間だった。
映画館デートの数日後、 駅裏の少し埃っぽい匂いのする古本屋で、ふたりは高い棚の前に並んで互いにお勧めの本を探していた。
「これ、僕が一番好きなミステリーなんだ」
そう言って藤原が差し出した文庫本の表紙を、志保は指でそっと撫でた。彼の好きなものに少しだけ触れた気がして、胸が小さく温かくなる。
「じゃあ、私はこれにしようかな」
志保が選んだのは、挿絵の美しい古い童話の本だった。藤原は、ミステリー好きの彼女からは想像もつかない選択に、少し驚いて目を見開いた。
「……意外だな。槇原さん、こういう本も読むんだ」
「ううん、普段はあまり。でも、なんだか、この絵を見てたら懐かしい気持ちになっちゃって。子供の頃、お母さんがよく読んでくれたのと、似てる気がして」
そう言って、少しだけ寂しそうに、でも愛おしそうに本の背を撫でる彼女の横顔に、藤原は何も言えなくなった。彼女の心の柔らかな部分に、ほんの少しだけ触れてしまったような気がしたからだ。
「……そっか。いいね。僕も、今度読んでみるよ」
彼は、努めて優しい声で、そう微笑んだ。
それからまた一週間ほどが経った、うだるように暑い日の午後は、公園で待ち合わせた。
ふたりで買ったアイスクリームが、夏の暑さでみるみるうちに溶けていく。
「あ、藤原くん、口の横についてるよ」
志保がくすくすと笑いながら指差すと、藤原は顔を真っ赤にして、慌てて手の甲で口元を拭った。
「え、と、取れたかな?」
「ううん、まだついてるよ。逆、逆」
「こ、こっち?」
あたふたする藤原の姿がなんだかおかしくて、志保は久しぶりに、我慢できずに声を立てて笑ってしまった。良樹をからかう時とは違う、もっと穏やかで、優しい響きの笑い声だった。
(あ……私、今、笑ってる)
自分の笑い声に、志保自身が少し驚いていた。長い間忘れていた感覚だったから。
(槇原さん、笑ってくれてる……)
悲しそうな顔や切なそうな顔より、志保には笑顔が一番似合っている。藤原はその笑い声が途切れないようにと願いながら、少しだけ頬を染めて、黙って溶けていくアイスを見つめていた。
8月の終わりが近づいた、ある日の帰り道。突然の夕立に降られた二人は、古い神社の小さな軒下へと駆け込んだ。
叩きつけるような雨の音と湿った土の匂いが、二人だけの世界を作る。
「すごい雨だね」
「うん……」
隣に立つ藤原の肩が、触れそうで触れない。その数センチの距離が、今の二人の心地よくて、そして少しだけもどかしい関係そのもののように思えた。
志保は雨で濡れたワンピースの裾を気にしながら、ふと隣りに立つ彼の白いシャツの袖だけが、自分よりもずっと濡れていることに気づいた。
(……もしかして、私を庇ってくれたのかな)
そのさりげない優しさに気づいた瞬間、心臓が、とくん、と温かい音を立てた。
「……あの、藤原くん」
「ん?」
「……ううん、なんでもない」
「ありがとう」の一言が、喉まで出かかって、消えた。
(どうして言えないんだろう……)
良樹相手なら、きっと何も考えずに言えたはずだ。なのに藤原相手だと、たった一言がすごく重たくて、特別な意味を持ってしまうような気がする。
そんな志保の葛藤を知る由もなく、藤原は、ただ遠くで鳴り響く雷の音に耳を澄ませていた。
確かに、志保は笑うようになった。
夏休みが終わる頃には藤原の隣りに、穏やかに、静かに、良樹の隣にいた時とは違う種類の、けれど紛れもない笑顔で彼女はそこにいた。
その笑顔を、樹と薫子は、我が子の再生の証だと信じて疑わなかった。
その笑顔を、藤原は、自らの手で守り抜きたい宝物だと、日に日に強く思うようになっていた。
しかしその笑顔が、良樹の影に怯える彼女が必死の思いで身につけた精巧な仮面であることには、まだ誰も気づいてはいなかった。そして本人さえも。




