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夏休み

 夏休みになったからといって、特別何かが変わるわけではない。良樹は休みに入った途端、毎日のように遊びに出かけていた。

 志保はといえば、なんとなく何もする気が起きず、ただダラダラと毎日を過ごしてしまっていた。

「図書館にでも行こうかな……」

 カレンダーはもう8月に変わっていたが、まだ宿題には手を付けていなかった。別にどこでもよかった。別に何でもよかった。図書館じゃなくっても、今のこの気持ちを紛らわすことが出来れば彼女はそれでよかった。

「図書館で宿題しようかな……」

 美咲と遊びに行ってもいいのだが、誘えばきっと付き合ってくれるとは思うのだけれど、それでも何となく遊びに行く気分にもなれず、結局その日は家から歩いて10分ほどのところにある区立図書館へ行くことにした。いずれにしろ宿題はしなくてはならないのだし。



 それは夏休みに入ってしばらく経った、暦が8月に変わった頃だった。藤原肇は、いつものように静寂を求めて区立図書館の閲覧室にいた。

 さんざん読書を楽しんで少し集中力が途切れ、ふと顔を上げたその視線の先に、彼は信じられない人影を見つけた。

(……槇原、さん……だよね?)

 それは花火大会で会って以来の、槇原志保だった。彼女は窓際の席で、開かれた問題集を前にしてボンヤリと窓の外を眺めていた。

(宿題をしてるのかな?)

 しかし彼女は時折シャープペンシルを手に取るものの、すぐに動きを止めてしまう。その横顔は教室でいつも見ていた快活な彼女とは少し違い、どこか儚さを帯びていた。まるで、強い衝撃を与えたら音もなく砕けてしまうガラス細工のような……。自分の心臓が、守ってあげたいという衝動と、触れてはいけないという畏怖で、大きく音を立てたのがわかった。


 藤原が彼女を意識し始めたのは、二年生になって一緒にクラス委員を務めるようになってからだ。誰もが面倒くさがる作業を、彼女はいつも「私がやっておくよ」と微笑んでいた。その笑顔を見るたび、いつも胸の奥がきゅっと締め付けられた。

(でも、槇原さんの隣にはいつも川島くんがいるからな……)

 良樹と話している時の志保は、本当に幸せそうに笑う。それは自分に向けられるものとは全く違う、特別な笑顔だ。それを見るたびに、諦めにも似たため息が彼の心の中で漏れた。

(僕の入る隙間なんて、どこにもないよなぁ)

 だから良樹が渡辺と付き合い始めたと聞いた時、彼は正直ウソだろうと思った。頭が真っ白になった。そしてすぐに志保のことが頭に浮かんだ。

(槇原さん、大丈夫かな……)

 案の定それ以降、彼女の笑顔から光が少し消えたように彼には思えた。


 (声を……かけるべきかな?)

 でも、何と声をかければいいんだろう。勉強してるの? なんて、あまりに平凡だ。それに自分が話しかけることで、彼女を困らせてしまうかもしれないし……。

 そんな逡巡をしているうちには志保は席を立ち、売店の方へと向かった。まるで何かに引き寄せられるように、彼もその後を追って席を立っていた。


 「あれ? 槙原さん? 槙原さんだよね?」

 売店でジュースを買って飲んでいた志保に、藤原は思い切って声をかけた。

「あ、藤原くん」

 もう夏休みなので、藤原が志保に会ったのは花火大会の時以来だ。

「1人?」

 我ながら、なんてつまらない質問だろうと藤原は思ったが、彼の口からはそんなヒネリのない言葉しか出なかった。

「うん。ヒマだったから宿題しようかなって思って。藤原くんは?」

「僕も1人なんだ。僕は本を読みに来たんだけどね」

「そっか。藤原くん、本好きだもんね」

(よかった。嫌そうな顔はしていない)

 藤原は少しホッとした。それどころか、少しだけ微笑んでくれたような気がする。その小さな事実に彼の心は浮き立つようだった。他愛のない話が続くこの時間が、永遠に続けばいいのにと思った。

「そういえば、槙原さんはもうお昼食べた?」

 気づけば、そんな言葉が彼の口をついていた。

(もっと自然に誘うべきだったかな?)

 でも、言ってしまったからには、もう後には引けない。

「ううん。まだだけど」

「そっか……槇原さん、あのさ……よかったら一緒に昼ごはん食べない?  その、せっかくここで会ったんだし、さ。どう?」

 顔が熱い。きっと自分は真っ赤になっているだろう。断られても仕方ない。いや、断られるのが普通だ。藤原は、そう自分に言い聞かせた。

「うん、そうだね……いいよ。ちょうどお昼だし、もう食べに行く?」

「え……」

 予想外の返事に一瞬思考が停止した。彼女は、少し迷う素振りを見せた後、はっきりと頷いてくれた。その瞬間、夏休みの図書館が、彼にとって世界で一番輝いている場所に変わった。

 

 藤原から一緒にお昼ご飯を食べないかと誘われて、志保は少し迷ったけれど一緒にお昼ごはんを食べに行くことにした。行き先は図書館から歩いて5分くらいのところにある、駅前の森永ラブ。ハンバーガーのお店だ。

 良樹以外の男の子と2人きりでご飯を食べるのは初めてなので、志保は少しドキドキしながらストローでソーダをかき混ぜる。

「宿題やってたんだよね? 進んだ?」

 沈黙を破ったのは、藤原の方からだった。

「うーん、まだちょっとしか進んでないかな。実は今日からやり始めたの」

「えっ、そうなの?」

 藤原は、ハンバーガーを口に運びかけたまま、心底意外だという顔で目を見開いた。

 「槙原さんのことだから、もう半分くらいは終わらせてるかと思ってたよ」

 その反応に、志保は思わず小さく笑ってしまった。

「……意外?」

 志保がそう言うと藤原は頷いた。

「意外って言うか……うーん……あの、槙原さんって要領が良いって言うか、無駄が無いって言うか……なんかそんな感じが僕はしてたからさ」

「私って、そんな風に見えるんだ」

「だってクラス委員の仕事とか、いつも完璧にこなしてるじゃない?  だから、てっきり私生活でも、何でもきっちり計画通りに進めるタイプなのかなって」

「そんなことないよ。全然。夏休みの宿題は、毎年ギリギリになるタイプだもん」

「そっか……」

 藤原は、なんだか嬉しそうに、はにかんだ。

「なんだか、安心した。僕も、読書感想文がいつも最後まで残っちゃうんだ」

「ふふ、一緒だね」

 共通点を見つけたことで、ふたりの間の空気が、ふっと和らいだ。

 藤原は、彼女が笑ってくれたことが嬉しくて、少しだけ饒舌になった。

「でも、やっぱりすごいよ、槇原さんは。僕だったら、あんなにたくさんの仕事を、あんなに手際よく片付けられない。いつも、無駄がないっていうか……尊敬してるんだ」

 真っ直ぐな瞳でそう言われて、今度は志保の方が、顔が熱くなるのを感じた。良樹や市原からは、絶対に言われない種類の褒め言葉だったから。

(そっか……私、そんな風に見えてたんだ……)

 それは、彼女自身も知らなかった新しい自分の一面を発見したような、不思議で、そして少しだけ誇らしい気持ちだった。


 それから志保と藤原は、毎日のように図書館で会うようになった。宿題をしたり、藤原にお勧めの本を教えてもらってそれを読んだり。今まであまり読書をしなかった志保だが、藤原が勧めてくれる本はどれも彼女好みのもので読んでいて楽しいものばかりで、それを借りて家で読んでいると、その間だけ志保は少しだけ気を紛らわせることが出来た。


 志保と図書館で会うのが、藤原の夏休みの日課になった。彼が勧めた本を、志保は本当に楽しそうに読んでくれる。

「この主人公の気持ち、わかる気がする」

「次はどうなるんだろう……読むのが楽しみ」

「まさか、こんな展開になるなんて思わなかったよ」

 会うたび無邪気に話す志保を見ているだけで、藤原は満たされた気持ちになった。もちろん、彼女が時折ふっと遠くを見るような、寂しげな表情をすることにも気づいている。

(きっと、川島くんのことを考えているんだろうな……)

 そのたびに彼の胸は痛んだけれど、同時に強く思った。

(僕が、彼女を笑顔にしたい)

 そんな想いが日に日に募っていくのを感じていた。そして、映画の無料招待券が手に入った時、これは神様がくれたチャンスなんじゃないかと彼は本気で思った。

 もちろん志保がOKしてくれるかわからないし、映画が彼女の好みじゃないかもしれない。でも、そんなこと関係なしに誘わなきゃ、彼女と一緒に映画を見に行きたい、と彼は強く思ったのだ。


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