美咲の怒り
良樹が渡辺と付き合い始めるまで、約束していたわけではないが屋上で良樹・志保・市原・美咲の4人で弁当を広げるのが昼休みの常だった。だが良樹は今、渡辺と二人きりだ。もちろんそのことに何の不満もない。相変わらず彼は浮かれていた。
そんな良樹の前に、江藤美咲が立ちはだかった。
「川島、ちょっといい? 話があるんだけど」
その表情は、普段の快活な彼女とは程遠い、氷のような冷たさを帯びていた。とてもじゃないが断れないその雰囲気に気圧され、良樹はしぶしぶ美咲についていった。
話があるからと言われて女子と2人きり。普通に考えるとこれは告白パターンなのだが、もちろんそんな漫画の世界のようなことがあるわけない。
(俺がそんなにモテるわきゃないよ。まあ、渡辺にモテてるけどさ)
昼休みの体育館裏。美咲はおもむろに振り返り、良樹と相対した。
「それで、話ってなんだよ」
良樹がそう尋ねると、美咲は遠回しな言い方を一切せず、単刀直入に切り出した。
「ねえ川島、アンタ志保の事どう思ってるの?」
「志保の事? どう思ってるって、前から言ってるだろ。志保は俺の家族だよ」
「それは知ってるけど、そうじゃなくて志保を女の子として見てはいないの?」
「女の子として? うーん……正直アイツをそーゆー目で見たこと無いんだよなぁ。何しろ小学校の頃から一緒に暮らしてるじゃん。姉ちゃんとか妹に恋愛感情抱かないだろ? 志保は俺と双子みたいなもんだしさ」
良樹がそう答えると、美咲はハァと大きくため息をついた。
「アンタさぁ、ずっと一緒にいて一番近くにいたくせにさぁ、あのコの事を何にもわかってないんだね」
美咲は厳しい口調で責めるようにそう言った。
「いや、そりゃそうだろ。俺だって志保だって、お互いの事を全部知ってるわけないじゃん」
何言ってんだコイツ? それが良樹の正直な反応だった。
「じゃあ聞くけどさ、あのコが男子にすっごく人気あるんだって知ってる? アンタが渡辺さんと付き合うようになってから、男子たちは目の色変わってるんだよ? 今まではアンタと付き合ってると思ってたから、みんな遠慮してたんだからね。どうする? これからきっと、志保に付き合ってくれって言うヤツが殺到するよ?」
「えっ、アイツそんなにモテんの?」
「そうだよ。そんなの知らなかったでしょ? 川島が考えている以上に志保はモテるんだからね。知らないよ、他の男子に取られちゃっても。その時になって後悔したって遅いんだからね」
美咲はしきりに煽るようなことを言うが、そう言われても返事に困る良樹だった。
「そんなこと言われても、俺は渡辺と付き合ってるんだし、志保に男と付き合うななんて言えるわけないし言う気もないぜ? 志保は志保で好きな男と付き合えばいいじゃないか」
「はあ!? アンタ、それ本気で言ってんの!?」
「おかしいか?」
美咲の肩が震えていた。
「本当に本気で言ってるの!? 志保が誰を好きで、誰のために毎日傷ついてるか、アンタは本気で知らないって言うの!?」
「はあ? なんだよそれ。志保が俺を好きだとでも言うのか? ないない、そんなことあるわけねーじゃん。アホか。絶対に無いわ!」
「ねえ川島、アンタ、自分が何をしてるかわかってる? 志保をどれだけ泣かせてるか、わかってるの?」
良樹は狼狽した。
「はあ? 志保が泣いてる? なんでだよ。俺が渡辺と付き合い始めたから、拗ねてるだけだろ?」
――拗ねてる。
市原との会話でも出たその致命的な一言が、美咲の理性を焼き切った。
「……っ、あんた、本気でそう思ってるの? あの子が、そんなくだらない理由で泣くようなコだって、本当に本気で思ってるわけ!?」
美咲は、堰を切ったように言葉を叩きつけた。
「あの子がアンタをどれだけ大切に想ってきたか、アンタの隣にいることが、あの子にとってどれだけの意味を持っていたかアンタは何も知らないんだね! 一番近くにいたくせに、なのにアンタは志保のことを知ろうともしないんだね!」
「なんだよ急に! 俺だって、志保のことは大事に思ってるさ。家族だからな。 でも、恋愛は別だろ!」
「……アンタのその無自覚さがねぇ、いちばんあのコを傷つけてるんだよ! いい加減そのことに気づけ、この鈍感バカーッ!!!!!」
その叫び声と同時に、良樹は左の頬に思い切りビンタを喰らった。一瞬意識が飛びそうになるほど強烈なビンタだった。目から火が出るというのを、生まれて初めて経験した。
「……いっ、痛えな! 何すんだよ!!」
「うるさい!」
美咲の一喝に良樹は思わず怯んだ。
「もう、アンタと志保のことに口出しするのはやめる。でも、ひとつだけ覚えといて。アタシは、アンタを絶対に許さない。志保を泣かせた『ただのクラスメイト』として、アンタのことを見てるから!」
美咲は良樹の瞳を真っ直ぐに見つめてそう言った。
ただのクラスメイト——その言葉は良樹の胸に深く突き刺さった。それは今まで仲間意識の中にいたはずの美咲からの、明確な「決別宣言」だったからだ。
「俺はただ、渡辺のこともちゃんと見てやりてえんだけだよ。あいつだって、色々言われて傷ついてるかもしんねえ。志保の時みてえに、見て見ぬふりだけはしたくねえんだよ!」
良樹の言葉は、彼の中では100%の善意だ。だが、その善意が志保を傷つけているという事実に、彼は全く思い至らない。
「……そう。わかったよ。もう、いい」
その声は、驚くほど静かだった。
「アンタの正義は、アンタだけのものなんだね。その正義のために、一番近くにいる人間が血を流していても、気づかないんだ」
「なんだよそれ。何が言いてえんだよ」
美咲はもう答えなかった。怒りを露にしたまま良樹を睨みつけ、そのまま振り返り駆けだして行った。
「あー、ちくしょう。あの野郎、思い切りひっぱたきやがって」
ひっぱたかれた頬は、ヒリヒリを通り越してジンジン痛む。きっとクッキリ手形が残っているだろう。
「それにしても……」
美咲が言ってた事はホントなのだろうか。
「アイツ、志保が男に凄く人気があるって言ってたよな」
たしかに客観的に見れば可愛いのかもしれないけれど、いまさら志保を客観的に見ることも良樹には難しい。あぁでも……。
「アイツ、付き合ってくれって男から言われたらどんな顔するんだろ……」
そういえばそんな想像などしたことがなかった。自分以外の誰かが志保と一緒にいるなんて考えたこともなかった。
「でも俺は渡辺と付き合ってるんだから、志保が他の男と付き合ってもおかしくないよな」
そう、おかしくない。本来は何もおかしくないはずなのだ。だが……。
「あれ、でも、なんかヘンな感じするぞ」
志保が他の男といる想像をしただけで、なぜか胸の奥がザワザワと不快な音を立てた気がした。なんだろう、この気持ち。良樹は最近、自分でもよくわからない感情がどんどん生まれている。
「どうしたのそのほっぺた。赤くなってるじゃない!?」
教室に戻って席に着いたら渡辺がそう話しかけてきた。左隣りだから良樹の左頬が丸見えだ。手で隠していたのだが、アッサリとバレてしまった。
「ねえ、それ手形になってるよ? 誰かに叩かれたの?」
美咲にひっぱたかれたとはさすがに言えない。チラっと美咲の方を見ると、彼女はまだ怒りが収まらないって顔をしてる。
「あ、いや、ちょっと友達とふざけてたら横っ面張られちゃってさ。はは、痛えの何のって、あはは」
自分でも下手な言い訳だなと思った、渡辺は一瞬だけ良樹の目を見つめた後、ふいと視線を逸らして、『そっか。あんまり無茶しないでね』とだけ言った。
だがその声はいつもの声とは違って、なぜか少しだけ冷たく聞こえた。
良樹が学校から帰ると、リビングのローテーブルの上に古いアルバムが数冊広げられていた。母の薫子が、コーヒーを飲みながらページをめくっている。
「ただいま。母さん、何してんの?」
「あら、良樹おかえりなさい」
「何それ。アルバム?」
「そうよ。この前お父さんと昔の話をしてたら、なんだか懐かしくなっちゃってアルバムを引っ張り出して眺めてたの。それで、せっかくだから少し整理しようかと思ってね」
良樹は、特に興味もなさそうに「ふーん」と相槌を打ち、その場に座り込んだ。彼は目の前のアルバムのうち一冊を手に取り、何の気なしに1ページ、また1ページとめくっていった。
(……これ、いつのだっけ)
あるページが、ふと彼の目を引いた。それは見覚えのある写真だった。
ハチマキを締めた、日焼けした自分。そしてその隣りで、肩を組んで満面の笑みを浮かべてピースサインをしている志保。
――運動会の写真か。
写真の中の志保は、心の底から楽しそうで、幸せそうで、輝いて見えた。写真の中の自分も、そんな彼女の隣りで誇らしげに胸を張っている。
美咲にひっぱたかれた頬が、まだ痛む。
――アンタの隣にいることが、あの子にとってどれだけの意味を持っていたか、アンタは何も知らないんだね!
市原の、冷たい声が蘇る。
――その『当たり前』が、どれだけ貴重なもんだったか、オマエは一生わかんないんだろうな。
良樹は、写真の中の二人の笑顔を、指でそっと撫でた。
(志保のこんな顔……最後に見たのはいつだっけ……)
その時彼の胸の中で、何かが小さな音を立てて崩れ落ち始めた。




