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対峙、再び

 放課後の教室は、生徒たちがみんな去ってがらんとしていた。机と椅子が整然と並ぶその空間に、傾きかけた西日が長い影を落としている。そんな教室で、江藤美咲と渡辺一美は再び対峙していた。

「江藤さん……今度は何の話?」

 その声には、隠そうともしない苛立ちが滲んでいた。

 美咲は何も言わず、ただ真っ直ぐに渡辺を見つめている。その静けさが、かえって不気味な圧力を放っていた。

 美咲の脳裏には、自分の胸で泣きじゃくっていた親友の姿が焼き付いて離れない。腕の中に感じた、あの小さく震える肩の感触。そして耳に残る、声を殺した嗚咽。

「……アンタ、自分が何をしたか、わかってる?」

 ようやく絞り出した美咲の声は、怒りで低く震えていた。

「何の話か、具体的に言ってもらわないとわからないんだけど?」

 渡辺は、わざとらしく小さくため息をついた。その余裕綽々の態度が、なおさらに美咲の神経を逆撫でする。

「とぼけないでよ! アンタ、 川島と付き合ってるんでしょ!  アンタはね、志保の宝物を土足で踏みにじったのよ!」

 宝物という言葉に、渡辺の眉がピクリと動いた。だが、彼女はすぐに嘲るような笑みを浮かべる。

「宝物?  大げさだなぁ。私がしたことなんて、単純なことだよ。好きな人ができたから、正直に気持ちを伝えた。ただそれだけ。ねえ、それって何か悪いこと?」

「悪いことじゃない?  ふざけないで!  あんたのその『単純なこと』で、志保がどれだけ傷ついて、どれだけ泣いたと思ってるのよ!」

 美咲の脳裏に、志保が語ってくれた数々の思い出が蘇る。おんぶ、お粥、逆上がりの練習。そして、幼いヒーローが交わした大切な約束。その全てが今、目の前の女によって無価値なものにされようとしているのだ。

「アタシ、この前アンタに言ったよね!?  志保を振り回すようなことはしないでって!」

「……言ってたけど、でも、本気で好きならともかく、とも言ってたよね」

「っ!」

 渡辺は悪びれる様子もなく、むしろ挑発するように言い返した。

「ごめんね、江藤さん。私、本気で川島くんのこと好きになっちゃったんだ。だから自分から正直に気持ちを伝えたの。ただそれだけだよ?」

「信じらんない……じゃあ志保は、志保の気持ちはどうなるのよ?」

「うーん、それを私に聞かれても……」

 美咲は奥歯をギリリと噛み締めた。目の前の女は悪びれるどころか、まるで勝利宣言でもするかのように微笑んでいる。

「アンタの『本気』ってやつのせいで、志保がどれだけ傷ついてるか、そんなの考えたこともないでしょ!  あの子が今までどれだけ辛い思いをして、どれだけ川島を心の支えにしてきたか……アンタは、アンタは何も知らないくせに!」

「たしかに知らないね。でも、それって知る必要あるの?」

 渡辺の言葉は、突き放すように冷たかった。

「江藤さんが言う、その辛い過去?  それって、今の私と川島くんに何か関係あるの?  昔の思い出がどうとか、そんなの今の恋愛には関係ないでしょ。それに……」

 渡辺は一度言葉を切ると、値踏みするように美咲の瞳を覗き込んだ。その瞳には、憐れみと、ほんの少しの優越感が浮かんでいた。

「それを私に言うのは、お門違いじゃないかな。それを本当に言うべき相手は、私じゃなくて川島くん本人でしょ。だって、私の告白を受け入れたのは川島くんなんだから」

「それは……」

「それに、一番責められるべきは、アナタの親友の槇原さんじゃないの?」

「なんで志保が責められるのよ」

「だって、付き合ってなかったんだよね?  川島くんが誰を好きになろうと、誰と付き合おうと、本来は自由なはずだよね? でも槇原さんは自分の気持ちを伝えなかった。ただ『隣りは自分の場所だ』って思い込んでいただけでしょ? 違う?」

 正論。あまりにも完璧な、ぐうの音も出ないほどの正論だった。

 美咲は言葉を失った。そうだ、渡辺の言う通りだ。志保と良樹は付き合っていたわけじゃない。告白したのは渡辺であっても、それを受け入れたのは良樹だ。そこに部外者が口を挟む権利など、本来はどこにもない。感情論では、この冷静な理論を崩すことなどできはしない。

「それは……志保にはそれを言えない事情が……」

「事情があるのはわかったけど、だからって私がそれに遠慮しなくちゃいけないの? どうして?」

 渡辺は、もはや一方的に畳みかける側だった。

「アンタにはわからないでしょ!  あのコが、どれだけ『当たり前』を失うのが怖いかなんて!」

 その瞬間、渡辺の表情が一変した。それまでの余裕綽々だった笑みが消え、まるで氷のように冷たい目になっていた。

「……わかるわけないじゃない。でもね、江藤さん。世の中にはね、『当たり前』なんてものを、最初からひとつも持たずに生まれてくる人間だっているって知ってる?」

「……え?」

「当たり前を失うのが怖い?……羨ましいわね。当たり前が、失うものが、ちゃんとあって」

 渡辺は、そこでふっと唇の端を歪めた。それは自分自身を、そして目の前の少女を心の底から嘲笑うかのような笑みだった。

「過去の思い出?  幼馴染との絆?  そんな綺麗なものにすがって一歩も前に進めない方が、よっぽど不幸じゃないかな。私はそう思うけど」

 ダメだ、と美咲は思った。渡辺の言っていることは、総てド正論だ。自分には反論する術が何もない。自分が言う感情論では、到底彼女を言い負かすことなど出来やしない。

 悔しさで、目の前が赤く染まっていくようだった。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。論理で勝てなくても、それでも。

(アタシは諦めるわけにはいかないの)

 美咲の脳裏に、志保が語った「宝物」が蘇る。

 あの涙を、あの痛みを、このまま見過ごすことなんて、親友として絶対にできない。美咲は怒りに燃える瞳で渡辺を睨み返した。

「……そうかもね。アンタの言うことは、全部正しいのかもしれない」

 敗北を認めるかのような言葉。それに渡辺が少しだけ油断したのがわかった。美咲は、その一瞬の隙を見逃さなかった。

「でも、アンタがいま手にしているものは、志保が何年もかけて大切に大切に育んできたものなんだからね。前にも言ったけど、アンタがどんなに頑張ったって、川島にとっての本当の『特別』には絶対になれないよ」

 美咲は、親友が流した涙の熱を乗せて、最後の言葉を叩きつけた。

「アンタは、絶対に後悔するよ。志保を泣かせたことをね。絶対に!」

 それだけを言い残すと、美咲は渡辺が何かを言い返す前に踵を返し、教室を後にした。一人残された渡辺は、しばらくの間美咲が出て行ったドアをただじっと見つめていた。

「……特別、ね」

 誰に言うでもなく呟いたその声は、夕暮れの教室に虚しく響いた。

「特別なんて……あるわけないじゃない……」

 彼女の表情から先ほどまでの余裕が消え、ほんの少しだけ翳りの色が見えた。


(ゴメン、志保。アタシ、アタシなんの力にもなれなかったよ……)

 逃げるように教室を後にした美咲は、駆け出しながら心の中で何度も謝っていた。自分がどれほど感情的に訴えても、渡辺は全て冷静に受け流して反論してきた。彼女の正論に対して、自分は何ひとつ言い負かすことができなかった。

(悔しいよ……ゴメン、志保……)

 自分の力不足を美咲は痛感していた。親友のためにと行動してみたが、ただ自分の無力さを思い知らされただけの彼女は、悔し涙を流すことしかできなかった。 

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