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変わっていく日常

「ねえ、志保ねえ。最近の良にい、ヘンじゃない?」

 朝食を食べていると、向かいに座った良樹の妹、瑞樹が志保にそう尋ねた。

「なんか最近の良にい、絶対ヘンだよ。志保ねえといつも一緒だったのに、最近は全然そうじゃないんだもん。あんなにねぼすけだったのに、朝も早く起きてくるし、一人でさっさと学校行っちゃうしさ」

 良樹は渡辺と付き合うようになってから、毎朝自分でちゃんと起きて今までよりも早く学校に行くようになっていた。もちろんそれは、途中で待ち合わせて渡辺と一緒に登校するためだ。

「そうよねぇ……毎日志保ちゃんに起こしてもらってたあの子が、最近は自分で起きてきて1人で学校に行くんだもの。ねえ志保ちゃん、もしかして良樹とケンカでもしたの?」

 洗い物をしていた薫子が、心配そうな顔で振り返りながらそう言った。

(そうだよね。そりゃあそうだよね。今まで毎日ずっと一緒に学校へ行って一緒に帰ってきたんだもん。それが急にそうじゃなくなったら誰だってヘンに思うよね)

 けれど渡辺と付き合うようになったことを良樹は誰にも話していないようで、それを自分が喋ってしまっていいのかなと思って志保も黙っていた。それで良樹を怒らせてしまうのもイヤだった。

「別にケンカなんてしてないですよ。何ででしょうね、よくわからないですけど、私にも理由を言ってくれないんです」

 味噌汁のお椀を持つ手にキュッと力が入るのを隠しながら、志保は精一杯の笑顔を作ってそう誤魔化した。声が少しでも震えなかったことにホッとした。

「そう? ケンカをしてるんじゃないならいいけど……でも1人で学校へ行くようになっちゃって、志保ちゃん寂しくない?」

「大丈夫ですよ。もう子供じゃないですから。学校くらい1人で行けます」

 薫子の優しい言葉が、かえって胸に刺さった。そう強がって言ってはみたけれど、そんなのウソに決まっている。1人での登下校は寂しい。悲しい。そしてつまらなかった。

 良樹が毎朝座っていた席が空いているだけで、朝ごはんの味もよくわからない。そして1人で歩く通学路は、以前よりもずっと長く感じる。今まで気にもしなかったのに、楽しそうに並んで歩く他の生徒たちの姿が、やけに目に付くのだ。

 でも、そんなこと言えるわけがない。

(よしくんともみんなとも。これからも一緒に生活していかなきゃいけないんだもん。私が家の中の雰囲気を悪くするようなことはできないから)

 だから志保は我慢する。何事もなかったみたいに、いつも通りに過ごすのだ。彼女の胸の中にできた良樹の形をした大きな空洞に気づかれないよう、今まで通り普通に過ごしていかなければいけない。

(そう、私はそうしなくちゃいけないの……)


 渡辺と付き合うようになってから、良樹の朝は大きく変わった。もちろんそれは、志保とではなく渡辺と登校することにしたからだ。

 途中で待ち合わせてそこから一緒に学校へ行くのだが、そうするには今までより10分ばかり早く家を出なければならなかった。毎朝志保に叩き起こされていた彼が、今までよりも10分早く起きなければならない……?

(でも、自分でも不思議だけど、 なんか毎朝起きられるんだよな)

 何のことはない。種明かしをすれば、ゲームをしたり漫画を読んだりしていた夜更かしをしなくなっただけなのだが。

 彼が自分で起きた時、最初はみんなビックリしていた。

「今日から少し早く家を出るから」

 そう言ったら、もっとビックリしていた。母親の薫子は「熱でもあるの?」と本気で心配するし、妹の瑞樹は「槍でも降ってくるんじゃない?」などと言ってからかう。

(俺が自分で起きるようになるのって、そんなにおかしなことか?)

 だが、一番驚いていたのは、やはり志保だった。

 いつもなら良樹の部屋のドアを遠慮がちにノックする音が一日の始まりだった。だが、それがなくなったのだ。志保は彼の顔を見て、何か言いたそうに口をもごもごさせて、結局何も言わずに俯いていた。

(あ、もしかして俺に頼られなくなって、ちょっと寂しいのかな?)

 良樹は一瞬そう思ったが、すぐにそれを打ち消した。

(いやいや、もう中学生なんだしさ、いつまでも俺がついててやる必要もねえだろ。頼られなくて寂しいとか、そんなわけねーよ。ねえよな?)


「今日からちょっと早く学校に行くから」

 良樹がそう言うと薫子は「あら、じゃあ志保ちゃんと一緒に行かないの?」と言った。

「もう中学生なんだしさ、暗くなる帰りとかならともかく朝は1人で行けるだろ?」

 渡辺と待ち合わせることを良樹は言わなかった。そもそも付き合うようになったことも志保以外には言っていない。理由を察しているからなのかわからないが、志保は別に何も言わなかった。「別にそれでいいだろ?」と良樹が聞いたら「わかった」とだけ答えて、それ以外は特に何も言わなかった。

 その日から、良樹の隣りを歩くのは、志保から渡辺に変わった。

 志保との登下校は、正直何を話すでもなかった。とりとめのない話、他愛のない話、そんなことを笑いながらしていただけだ。隣りにいるのが当たり前で、話している時は楽しいけれど、かといって沈黙が続いても別に苦ではなかった。

 でも、渡辺は違う。

「ねえ川島くん、昨日のテレビ見た? あの芸人さん、超ウケるよね!」

「あ、この曲知ってる? 今めっちゃハマってるんだー」

 学校のこと、テレビのこと、友達の噂話。コロコロと変わる話題と楽しそうな渡辺の笑顔を見ているだけで、あっという間に学校に着いてしまう。会話が途切れない。もっともっと話していたい。別れ際にはもう、翌朝が待ち遠しくて仕方なかった。

 今まで見ていたはずの通学路の景色が、全部キラキラして見える。

(俺、完全に浮かれてるな……)

 けれど良樹は、それが最高に楽しかった。



 ある日の放課後。志保は誰もいなくなった教室で、美咲が用事から戻ってくるのを待っていた。

 良樹と渡辺が付き合うようになってから、美咲は志保が一人きりにならないようにずっと気を遣っていて、登下校も一緒にするようになっていた。

 自分の席に座ったまま窓の外を眺めながら、志保はただ時間が過ぎていくのをぼんやりと感じていた。

(家に帰っても、よしくんいないしなぁ……)

 彼女の日常はあっという間に変わってしまったが、その変化に彼女の心が全く追いついていない。静かな部屋で良樹の帰りを待っているのは……つらい。

 

 ――その時だった。


 教室の後ろのドアが開き、誰かが入ってくる気配がした。志保が視線を向けると、そこにいたのは志保と同じクラスの藤原肇だった。

 藤原と志保はクラス委員同士なので、一緒に委員の仕事をしたりすることも多く、もしかしたら彼女にとっては良樹と市原の次くらいに話す機会の多い男の子だ。

(……藤原くん? 忘れ物かな?)

 だが彼は、何かを探すでもなく、ただまっすぐに志保の方へと歩いてくる。一歩、また一歩と近づいてくる足音に、志保の心臓はなぜか少しだけ速くなった。

 そして藤原は、志保の机の横でぴたりと足を止めた。彼のその手には小さなビニール袋が、大事そうに握られていた。

「……あの、槇原さん」

「……う、うん。なに?」

「これ、よかったら……」

 そう言って、彼は少しだけ震える手でその袋を、志保の机の上にそっと置いた。袋の中には少しだけ不格好な、星の形をしたクッキーが数枚入っている。

「これは?」

「えっと、僕の姉さんが家庭科の授業で作ったらしいんだけど、作り過ぎたからって無理やり押し付けられたんだ」

「お姉さんが?」

「うん、ただ僕、甘いのあんまり好きじゃないから食べきれなくて……」

 藤原は顔をほんのり赤くしながら、少し早口でそう言った。

 机の上に置かれた、小さな贈り物。手のひらに乗せると、まだほんのりと彼の体温が残っているような気がした。

「……どうして、これを私に?」

「あのさ。なんだか最近……槇原さん、元気ないように見えたから……」

「えっ?」

「だから、その……甘いものでも食べれば……少しは元気出るかなって思って……さ」

 それだけを言うと、彼は「じゃあ!」と、逃げるように教室を出て走り去ってしまった。

 一人残された志保は、もう一度手のひらの上のクッキーを見つめた。

(藤原くん……見てて、くれたんだ)

 じわり、と目の奥が、熱くなるのを感じた。その、あまりにも唐突で不器用な優しさは、冷え切っていた志保の心の一番深いところに、小さな温かい灯りをポッと灯したのだった。



 「ごめん、志保!  今日ちょっと用事があるから、先に帰ってて!」

 その日、美咲が手を合わせながら申し訳なさそうにそう言った。

「ううん、気にしないで。大丈夫だよ」

 笑顔で手を振って一人になった帰り道。以前なら当たり前のように自分を待っていてくれた人の姿は、もちろんもうない。

 帰り道に商店街を通りかかると、クレープ屋の前に見慣れた2つの影があった。楽しそうに笑いながら、1つのクレープを分け合っている良樹と渡辺。

「あっ……」

 息が止まりそうだった。胸が痛くて、苦しくて、志保は慌てて二人に気づかれないよう、反対側の道へ逃げるように駆け出していた。もうあの帰り道は、彼女の知らない景色になってしまっていた。


「はい、川島くん、あーん」

「ちょ、よせよ! 周りに見られたら恥ずかしいだろ!」

 渡辺と2人、クレープを食べながら帰るのが良樹の最近の定番になっていた。人前でイチャつくのはちょっと照れるけれど、それ以上に渡辺といるのが楽しいから、まあいいか、なんて思う。

「あ、そうだ。明日の小テストの範囲、ちゃんと聞いた?」

「やべ、聞いてねえや……」

 浮かれすぎているからか、良樹は先生の話など全然聞いていなかった。

 (家に帰ったら、志保に聞かねえと……)

 そう思ったが、すぐにその考えを打ち消した。今さら志保の部屋に行って顔を合わせて話すのは、なんだかひどく気まずい。最近、家でもまともに口を利いていないのだ。

「どうしたの?」

 良樹が黙り込んだのを、渡辺が不思議そうに見つめてくる。

「あ、いや、なんでもねえ。悪い渡辺、明日のテスト範囲教えてくんない? 渡辺はちゃんと聞いてたんだろ?」

 今までこういう連絡事項とかは、家に帰ればすぐに志保と確認するのが当たり前だったのだけれど。

(あいつ、今頃なにやってるんだろう……まあ、どうせ江藤と一緒だろうし、別にいいか)

 そんなことを考えているなんて、隣りでクレープを頬張る渡辺はもちろん知らない。

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