第5話:「王子と将校、二つの顔」
ゼノン先生との学習時間は、俺にとって貴重な情報収集の機会となった。病弱な王子という設定は、書庫にこもったり、勉学に熱心なふりをして情報を引き出すには都合が良かった。しかし、同時に、この幼い体と、王子としての振る舞いは、俺の行動を大きく制限した。
(くそ、この体じゃ、まともに訓練もできねぇ。体力もなければ、いざという時に動けない)
俺は、自室で密かに腕立て伏せを試みたが、数回で息が上がった。陸上自衛隊情報部員として鍛え上げた肉体は、今は見る影もない。このままでは、未来の自衛隊と戦うどころか、自分の身一つ守ることすら覚束ないだろう。
「殿下、本日は薬湯の時間でございます」
メイドが部屋に入ってきた。俺は慌てて腕立て伏せをやめ、ベッドに横たわった。
「ああ、ありがとう」
差し出された薬湯は、独特の苦味があったが、俺は顔色一つ変えずに飲み干した。病弱な王子を演じるには、これも必要なことだ。
夜、誰もいない書庫に忍び込んだ。懐中電灯代わりの魔導具の光を頼りに、俺は帝国の軍事論文や技術書を読み漁る。
(この時代の魔力増幅炉の理論は、まだ基礎段階か……)
エミリオ・ヴァイスハルト。彼が開発する「魔力増幅炉」が、未来のグレイル帝国の軍事力を飛躍的に向上させる。その技術の核心を、今のうちに理解しておく必要がある。
俺は、情報部員時代に得た知識と、この世界の技術情報を照らし合わせ、頭の中でシミュレーションを繰り返した。
(魔力結晶の安定供給、出力の安定化……これらを解決するには、特定の魔導回路の設計と、希少な触媒が必要になるはずだ)
俺は、紙に複雑な数式と図形を書き殴った。それは、未来の自衛隊が苦しめられた技術の、基礎理論だった。
もし、この知識を帝国に提供すれば、彼らの技術発展はさらに加速するだろう。それは、未来の自衛隊にとって、より強大な敵となることを意味する。
だが、もし俺がこの国を救うと決めたのなら、この技術は不可欠だ。
(俺は、この国を救うのか? それとも、滅ぼすのか?)
自問自答が、俺の頭の中で渦巻く。
如月マサルとして、俺は日本を守るためにグレイル帝国を滅ぼした。
だが、アルフレート王子として、俺は今、この帝国の未来を背負っている。
この矛盾を抱えながら、俺はどちらの道を選ぶべきなのか。
その時、書庫の奥から、微かな物音が聞こえた。
俺は反射的にペンを握りしめ、身構えた。情報部員としての危機察知能力が、警鐘を鳴らす。
(誰だ? この時間に書庫にいるのは……)
音のする方へ、ゆっくりと足音を忍ばせて近づく。
書棚の陰から覗き込むと、そこにいたのは、一人の少年だった。
俺と同じくらいの年齢だろうか。金色の髪に、鋭い青い瞳。彼の顔には、どこか高慢な雰囲気が漂っていた。
そして、その少年は、俺が探していた「魔力増幅炉」に関する極秘資料を手にしていた。
「……誰だ、お前は」
俺は思わず声を漏らした。
少年は、驚いたように振り返った。その手から、資料がはらりと床に落ちる。
「貴様……アルフレートか」
少年は、俺の顔を見て、嘲るような笑みを浮かべた。
「こんな夜更けに書庫で何をしている? 病弱な王子が、勉学に励むとは感心だな」
その声には、明らかに敵意が込められていた。
俺は、アルフレート王子の記憶を辿った。この少年は、第一王子『レオンハルト・グレイル』。皇帝の正室の子であり、次期皇帝の座を狙う、俺の兄にあたる人物だ。
レオンハルト王子は、病弱なアルフレート王子を軽蔑しており、常に冷たい態度を取っていた。
そして、彼は、この魔力増幅炉の資料に、なぜ興味を持っている?
「レオンハルト兄上……」
俺は、アルフレート王子として、たどたどしく答えた。
「貴様には関係ない。それより、このことを陛下に告げ口するつもりか?」
レオンハルト王子は、俺を睨みつけた。その瞳には、警戒と、そしてわずかな焦りが宿っていた。
「いいえ……わたくしは、ただ、書物を探しに……」
俺は、とっさに言葉を濁した。ここで刺激するのは得策ではない。
レオンハルト王子は、俺の言葉に疑いの目を向けたが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「くだらん。病弱な貴様が、こんな夜更けに書物を探すなど、笑わせる。さっさと部屋に戻れ」
彼はそう言って、床に落ちた資料を乱暴に拾い上げ、俺の横を通り過ぎていった。
その背中を見送りながら、俺は内心で舌打ちした。
(レオンハルト王子……彼もまた、この魔力増幅炉に興味を持っているのか)
それは、帝国の未来を巡る、新たな火種になるかもしれない。
そして、俺の潜伏生活は、思った以上に複雑なものになりそうだ。
情報将校としての嗅覚が、新たな危険を察知する。
俺は、王子と将校、二つの顔を使い分けながら、この帝国で生き残らなければならない。
そして、未来の因果を、この手で書き換えるために。