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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

あなたは何度裏切れば気が済むんですか?

作者: 朝野 凛

 彼女は、今日も俺に背を向けたまま髪を梳いていた。

 銀のブラシが金糸のような髪を静かにすべり落ちていく。

 陽の光が絹のカーテンを透かして差し込み、部屋は美しかった。完璧だった。

 ただ、そこに愛だけがなかった。


「おはよう」と声をかけると、少し間を置いて、

「……おはようございます」

 と、儀礼のような返事が返ってくる。

 その声に、もう何も期待してはいけないのだと、今日もまた思い知らされる。


 昔は彼女が選んでくれた紅茶だったのに、今では名前すら知らないものばかり。


 彼女は静かに紅茶を口に運んだ。

 その手元は美しく、所作も完璧だ。まるで“理想の貴婦人”そのものだった。


「今夜の夜会に行くつもりだが――君は?」


 俺が尋ねると、しばらくの間、沈黙が流れる。


 書斎の暖炉が小さく音を立てている。俺たちの会話より、その音の方がよほど温かみがある。


 数秒後、ようやく彼女が答える。


「お一人でどうぞ。体調が優れませんので」


 その言葉に、何も感じないふりをするのはもう慣れた。

 本当は、体調などではなく、俺と一緒にいたくないだけなのだと知っている。

 彼女の視線が俺を通り過ぎていくときの、あの無表情が何よりの証拠だった。


 手を伸ばせば、彼女はそれとなく距離を取る。

 何度目かもわからないその拒絶に、もう驚きすらしない。


 香水の匂いが変わった。

 かつて俺が贈った優しいラベンダーの香りではない。


 形だけで何も残っていない。


 それでも――俺は、彼女を愛していた。

 今も。変わらずに。愚かに。


 それだけが、もう何も残っていないこの関係の中で、

 俺にとって唯一、本物だった。








 ーー



 夜会の会場は、いつも通り光に満ちていた。

 大理石の床、金糸のタペストリー、揺れるシャンデリア。

 笑い声とワルツの旋律が交錯し、貴族たちの社交はいつも通りのものだった。


 退屈だった。

 これなら彼女のことを眺めていた方がよっぽど楽しい。彼女が俺を拒絶する瞬間でさえ、この薄っぺらな会話よりは心を動かされる。


 ふと、部屋の隅の方を向いた。


 すると、カーテンの影に、誰かがうずくまっていた。


 彼は男ということしかわからなかった。

 ドレスか、燕尾服か、それすらも見分けがつかない。

 その人影は、頭を抱えて小さく震えていた。


 誰も気づいていない。

 あるいは、気づいても見て見ぬふりをしているのかもしれない。

 俺は足音を抑えながら、静かにその影へ近づいた。


「……大丈夫か?」


 声をかけると、わずかに肩が揺れた。

 そして、ゆっくりと顔が上がる。


 顔色が異様だった。

 血の気がなく、青白く、目は焦点が合っていない。

 口元が、震えていた。


「……具合が、悪いのか?」


 もう一歩、近づいた。


 その瞬間、鼻を突く異臭に気づく。腐敗臭。まるで肉が腐ったような、吐き気を催す匂い。

 次の瞬間、その男は、跳ねるように立ち上がった。


 まるで獣だった。

 濁った目、剥き出しの歯。

 そしてそのまま、俺の肩口に、喰らいついた。


「……あ゛、ぐッ……!」


 痛みというより、衝撃だった。

 肉が引き裂かれ、熱いものが首筋を伝う。

 背筋が一気に凍り、体が動かなくなる。


「は、なせ……っ、やめろ……!」


 俺は腕で押しのけ、奴は呻きながら床に倒れ込んだ。

 周囲がようやく気づき始める。

 誰かの悲鳴が上がり、音楽が止まる。


 血が、止まらない。

 手で押さえても、隙間から滲み出してくる。

 熱く、粘り気のある血が、指の間を伝ってポタポタと床に滴る。

 それが自分のものだと気づくまで、少し時間がかかった。


「な、なんなんだ……」


 あの男の方を見ると、今度は別の貴婦人に襲いかかっている。彼女の悲鳴が会場に響き渡った。男に噛まれた者は皆、数分後には顔が青白くなり、同じように人を襲うようになった。


 これは、物語に出てくる、あの──ゾンビだ。


 煌びやかだった夜会は、一瞬で悲鳴と血が飛び交う、地獄に変わった。


 こんなこと、現実じゃない。


 それでも、肩の痛みは現実だった。

 喉が焼けつくように乾く。

 吐き気と眩暈が襲い、視界がかすむ。


 次の瞬間、視界が暗転した。








 ーー



 気がつくと、俺は外を歩いていた。


 意識が途切れ途切れで、全身の関節が焼けるように痛い。

 だが、歩みは止めなかった。


 なんだ、俺は、どこに向かっているのだ。

 自分でもわからない。


 夜会の喧騒が、遠ざかっていく。

 火の手が上がっていた。

 悲鳴が、爆発音にかき消された。


 俺の意識は、すでに霞の中だった。

 体は熱を持ちすぎていて、なのに指先だけが異様に冷たい。

 視界の端が黒く染まり、音も遠くなる。


 喉が、渇く。

 心臓が、重い。

 皮膚の内側で何かが蠢いている感覚がする。


「っ……は……」


 どこに向かっているのかわからない。でも、足は確実にどこかを目指している。


 足音が石畳に響く。

 自分の足音なのに、まるで他人のもののように聞こえる。

 道を覚えていた。心が忘れても、骨が覚えていた。


 何度も歩いた道。

 並木道を抜け、街の外れへと向かう。

 門番の姿はなかった。


 そこでやっと気がついた。


 俺の──俺たちの家だ。


 俺はこんなことになっても彼女の安否の確認が第一優先だった。


 彼女への心配が、俺の意識を保たせてくれた。


 黒鉄の門が、音もなく開いた。

 俺の帰りを待っていたように。

 屋敷の灯りは、まだ消えていなかった。


 俺は扉に手をかけた。

 冷たい金の取っ手。昔、彼女がここにリボンを巻いたことを思い出した。

 些細な記憶が、なぜか胸を締めつける。


 扉が、ゆっくりと開いた。


 誰もいない玄関。

 脱ぎ捨てられた靴。

 香水の匂い。

 彼女のものではない、香りが、した。


 暗い廊下を、ふらふらと進む。

 脳の奥で何かが疼く。

 骨が軋む音がする。


 それでも、俺は“その部屋”の前まで来てしまった。


 あの寝室の扉。

 何度も一緒に朝を迎えた部屋。

 今では彼女が鍵をかけて、俺を入れない部屋。


 けれど今日は、鍵が開いていた。

 扉の隙間から、声が漏れていた。


 中から声が聞こえる。


「もう大丈夫です、あの人は夜会ですので」


 彼女の声だった。でも、誰かと話している。


「本当にいいのか?」


 男の声。聞き覚えがある。隣国の第二王子だ。


 俺は居間の扉の隙間から中を覗いた。


 ベッドの上に二人がいた。彼女は第二王子の胸に寄りかかり、彼は彼女の髪を撫でている。


「あの方への想いは、とうに冷めておりました。政略結婚でしたから」


 彼女の声は、今まで聞いたことがないほど甘かった。


「これで私たちは自由になれる」


 彼女は第二王子の頬にキスをした。


 俺の中で何かが燃え上がった。胸の奥から湧き上がる、黒い感情。


 扉を蹴破って、俺は居間に入った。


「きゃっ!」


 彼女が悲鳴を上げた。


「だ、誰だ!」


 第二王子が剣に手をかけたが、もう遅い。


 俺は彼に飛びかかった。









 ーー



 血の匂いが部屋に充満している。


 第二王子はもう動かない。俺は彼を見下ろしながら、口の端についた血を拭った。


 彼女は壁に背を向けて震えている。

 俺は彼女に向かって歩いた。その美しい首筋が、すぐそこにある。

 彼女は必死に物を投げて俺を止めようとした。

 

 花瓶、本、燭台。でも、どれも僕を止めることはできない。

 そして、彼女が投げたものの中に、小さく光るものがあった。


 それは指輪だった。


 俺たちの婚約の証。彼女はそれを、まるでゴミのように俺に投げつけた。


 その瞬間、何かが崩れ落ちる音がした。


 俺は彼女を押し倒した。白い首筋が目の前にある。


「た……助けて……」


 彼女の声は震えていた。


 彼女はじたばたと暴れて抵抗をした。

 だが、俺の力には到底及ばなかった。


 彼女の首に歯を突き立てようとしたその時だった。


 ポロポロと雫が彼女の頬をつたった。

 誰でもない、俺の涙だった。


 一噛みだ、一噛みで全てを終わらせられる。

 なのに、口は動かない。


 俺は、愚かだった。


 とんでもない、愚か者だった。


 俺は彼女を愛している、今も、変わらずに。


 その時、屋敷の外から新しい足音が聞こえてきた。

 ゾンビの群れが、この屋敷にも押し寄せてきたのだ。

 俺は立ち上がった。


 玄関から次々とゾンビが入ってくる。


 農民、商人、騎士、貴族。生前の身分など関係ない。みな等しく醜く襲いかかってくる。


 俺は、彼女の前に立ちはだかった。


 そして、襲いかかってくるゾンビどもを次々と噛み殺して行った。


 俺は振り返らない。ただ、彼女を守ることだけを考えた。


 居間が血と肉片で汚れていく。美しい調度品が次々と壊れていく。


 俺は彼女を愛し続けることを選んだ。








 ーー



 迫り来る全てのゾンビを倒した時、僕は膝をついた。不死の体でも、さすがに疲れる。


 俺は安堵の息をついた。彼女を守り抜いた。


 やった……やったんだ……!


 喜びのあまり、笑顔が漏れた。


 俺は彼女に抱きつこうと、振り返ろうとした。


 また、愛してくれますか、と。


 その瞬間、鋭い痛みが背中を貫いた。


「え…?」


 振り返ると、彼女が立っていた。その手には、血のついた短剣。


 彼女はもう一度、短剣を俺の胸に突き刺した。


 俺は床に倒れた。血が流れ出していく。


 そして、そしてまた、俺の体に刃を立てた。


 ぶしゅっ、ぶしゅっ、と何度も鈍い音があたりに響いた。


 何度も何度も、俺を短剣で刺した。


 しばらく、刺し続けた後、彼女は短剣から手を離した。


 ふと、我に帰ったような表情になった。

 手で口元を抑えて、自分でも驚いているようだった。


 首を激しく動かして辺りを見回していた。


「私は悪くない悪くない悪くない……」と何度も呟いて、そのまま走って逃げて行ってしまった。


 何度でも言おう、俺は愚かだった。


 だが、不思議と後悔はなかった。


 何度裏切られようと、俺はあなたを愛するだろう。


 暖炉の火がパチパチと音を立てている。


 俺たちが一緒に過ごした、この部屋で。


 最後に見えたのは、彼女が第二王子にかけていた毛布だった。


 それは、俺が彼女に贈った、初めての贈り物だった。

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― 新着の感想 ―
コレ読んだだけだと嫁クソだな 結婚前にここで語られてないなんかあったのかもしれないけどさ
 妻の「これで私たちは自由になれる」というセリフで、隣国の第二王子がゾンビパニックを起こしたのかと思ったら、王子の慌てぶりにゾンビの出現は想定外だったのだろう。彼が黒幕ならすぐに妻を連れて隣国へ逃げる…
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