婚約破棄を叫ばれた地味女子ですが、裏で証拠を集めて大勝利しました
「おい、アザリー!
おい待て!速度を上げて立ち去ろうとするな、この地味女が!」
昼の休憩も半ばほど、生徒たちが賑やかにしている校舎の間に挟まれた中庭で、そう呼ばれたのは小柄な少女だった。
女性と呼ぶには幾分も若く、そのくせ少女と呼ぶにしてはひどく大人びた顔つきをしている。
まっすぐな黒髪は一つに束ねられて無造作に後ろに流されていた。
結ぶのに使われているのはリボンや髪飾りではなく、紺か黒かもわからない紐だ。
髪と同じ色の瞳は太陽の光を反射するものの、夜空よりも深い色は闇を感じさせる。
この年頃なら興味を示す化粧にも手を出していないようだった。
夜道では見つけるのが難しそうな彼女は、レオネル・アルヴィスティンの婚約者アザリー・ブラインウェルだ。
彼女は足を止めると無表情のままにレオネルを見る。
レオネルの隣には腕を絡めるようにして立つ二人の少女の姿があり、アザリーを小馬鹿にした顔で眺めていたが、それすら気にする様子も無い。
「アルヴィスティンさん、何ですか?
生徒会長に資料を運ぶよう頼まれて忙しいのですが」
抑揚のない、日陰のような声がレオネルに問いかける。
それを聞いたレオネルは隠そうともしない不機嫌さを表情に浮かべ、ライムグリーンの瞳を煌めかせながらアザリーを睨みつけてきた。
自身の薄茶の髪に指を滑り込ませて、後ろへと払うように流す。
「仮にも婚約者に対して、その余所余所しい態度はなんだ。
もしかして婚約者らしくない呼び方をすれば、俺の気を引けるとでも思ったのか?」
「ご冗談を。私がアルヴィスティンさんの名前を呼ばないのは、入学前に婚約者の存在を知られたくないから名前で呼ぶなと貴方に言われたからです。
いつも同じ話を振ってきますが、何回説明すれば思い出せるのでしょうか」
間髪を容れずに返された言葉に、レオネルが苛立ちを隠そうともせずに近くの小石を蹴りつける。
「入学してから既に二年。お前が俺の為に着飾る努力をして、今までの態度を謝罪するならば名前を呼ぶ許可くらいは出してやったのに。
お前が何の努力もしないままなのが原因だろう。
その外見のせいで、昼間に姿を見れば不幸が訪れると噂されているらしいな」
クスクスと笑うのはレオネルの腕に蔦のように絡まる少女達。
どうせレオネルに取り入ろうとする彼女達が流しているだろう噂だが、追及しても倍になって言葉が返ってくるので早々に口を噤むことにしていた。面倒臭いのだ。
一人はふわふわとした赤毛を綺麗に巻いて、光沢のある白いリボンを結んでもらっている。
もう一人は栗色の髪を編み込んで、小さな髪飾りが昼間の陽光を反射している。
共通しているのはどちらも年不相応に化粧をしていることか。
確かに目鼻立ちがはっきりとして、可愛らしい印象を与えている。
「大体、その服装はなんだ」
そう言われて、アザリーは自身を見下ろす。
もう一度顔を上げてから首を傾げた。
「制服ですが?」
「そうじゃない!そうであるけど、そうじゃない!」
人のこと舐めているだろうと言葉を吐き捨てられても、アザリーとしては制服を正しく着用しているだけで、レオネルと一緒にいる二人の少女のようにスカート丈が短くてはしたないと教師に怒られたことだってない。
「その制服も白があったのに、ダサい紺を選ぶから地味なんだ。
ただでさえ髪色も重苦しくて冴えないというのに、お前の見た目が野暮ったすぎるせいで恥ずかしくて連れて歩けないだろう」
途端にレオネルと一緒にいる少女達が、レオネルが可哀そうだと口々に言い始める。
けれど、彼女達の挑発的な態度を目の当たりにしても、アザリーの心が揺れ動くことはない。
「そう言われても。授業によっては倉庫管理や古い帳簿の監査といった実技もあるので、洗えば汚れが目立たない方がいいですし」
そう淡々と返す言葉が気に入らなかったらしく、レオネルから舌打ちをされた。
「まあいい、今週末は彼女達に用事があって俺は暇なんだ。
お前が少しでも可愛らしく装うつもりがあるなら、どこかのカフェくらいには連れて行ってやってもいい」
「結構です」
間を空けることなく淡々と吐き出される言葉に、思わずレオネルの顔が引き攣った。
驚きと怒りの入り乱れた感情豊かな顔に相反し、濃い色で統一された少女からは感情が見えも隠れもしない。
「今週末は年に一度ある、アルヴィスティン商会の過去資料の破棄日です。
私がお忙しい商店会長夫人の代わりに破棄分の資料を確認するので、早く行かないと従業員の方達が困りますし、作業が遅れると皆さんが商店会長夫人に叱られてしまいます。
跡取りであるはずのアルヴィスティンさんが、どうしてそんなことも知らないのですか」
そもそも、とアザリーが言葉を続けたところで、近づく人影に気づいて視線を向けた。
「アザリー、生徒会長が呼んでいる。
運んでいる資料に別の資料が交じっている可能性があるらしくて、一度戻って来てほしいって。
道草しているお陰で早々に見つかって良かったよ」
声をかけてきたのは一人の少年だ。
「マリウス」
名前を呼べば、レオネルの機嫌が更に悪くなった理由は横にいる少女達も知っているのだろう。
レオネルとマリウスを見ながら様子を窺っている。
「アザリー、そいつと何でいるんだ」
低くなった声はまるで威嚇するかのよう。
「何でと言われたら、彼も私も生徒会に入っているからとしか」
この会話だって何回しただろうか。
「いいか、そいつの母親はあろうことか俺の親父に対して、誰の子かもわからないそいつの認知を求めてきた詐欺師だぞ。
お前も俺の婚約者でいたいなら、一切近寄るな」
自分勝手な言葉を吐き捨てて、レオネルが睨みつける目が細くなる。
「できないようなら婚約破棄だ!」
「別に構いませんよ。ただ、アルヴィスティンさんが勝手に決められる話でもないと思いますので、破棄したいのでしたらアルヴィスティン商会会長と会長夫人に相談してください」
レオネルが嫌だと言えば、嬉々として会長夫人は婚約破棄の話に乗り出すだろう。
それぐらいに彼女はアザリーのことを嫌っている。
「とりあえず週末は予定があるのでご遠慮します。
今年はようやく15年前の書類を処分できるので、倉庫の空きスペースが増えるだろうと従業員の方々も喜んでいましたし。
どうぞ他の人を誘ってください」
アザリーの言葉にレオネルは憤慨した様子を見せているが、レオネルのオマケみたいに貼り付いていた少女の一人はそうでもないらしい。
「え、15年って、それって」
瞬きを増やしてレオネルを見つめる。
「あ、次の授業の用意をしないと!私はもう行くね」
すぐに殊更明るい声を張り上げると、そそくさとレオネルから離れていくのは赤毛の少女の方。
去年に商業法律の授業が一緒だった。
受ける授業が重なったのは嫌がらせのためかと思っていたが、ちゃんと勉強していたのは意外だ。
もう一人の少女は勘定記録の授業で一緒だったと思うが、途中から姿を見せなくなったので、何を専門に勉強しようとしているのかはよく知らない。
けれど授業の初期で習うような内容でアザリーは忠告した。
国が定める書類の保存期間は種類によって変わるが、半永久的に継続される契約書や顧客簿といったものでなければ基本は五年程度。
商店だとそれに個々のルールで二年程追加したりや、上顧客の購入履歴だけ残して何かあれば調べものができるようにしている。
わかる人にはすぐ察する内容だ。現に赤毛の少女はすぐに気づいた。
後の少女が気づかないのは本人の問題で、これ以上とかく言うつもりもない。
まだ口を動かすレオネルの言葉は既に賑やかな環境音へと変わっている。
とにかく生徒会室に戻ろうと、話を切り上げるために軽く会釈だけしてマリウスと歩き出した。
* * *
面白くない。
レオネルが今の機嫌を聞かれたら、最低だと答えるだろう。
「アザリーさんの計算はいつも正確で、うちの商会ではなくてはならない人とされていますよ。
こんな優秀なお嬢さんが嫁いでくるのが、今からとても楽しみで」
アルヴィスティン家の二番目に大きな応接室。
そこで向かい合うように座るのは、アザリーとその父親であるブラインウェル海運商会長、そしてレオネルの父親であるアルヴィスティン商店長と彼自身だ。
上機嫌で喋る父親を横目で見ながらアザリーへと視線を向けたが、話をしている相手を見るのがマナーだと言わんばかりに、レオネルに視線を向けることがないのが苛立たしい。
本当はレオネルと会えるのが嬉しい癖に、全く顔に出しやしない。
それに今日も着ている紺のワンピースは首まで詰まった襟付きで、婚約者を喜ばせようという気が全く無いのもどうなのか。
「レオネル一人では商会を背負って立つのに心配だったが、ブラインウェルとの良縁に恵まれてアルヴィスティン商店も安泰ですよ」
「はは、そう言ってもらえると親として娘が誇らしいですね」
たかだか荷を運ぶだけの商会が偉そうに。
アザリーの家、ブラインウェルは海運業を営む商会だ。
つまりはアルヴィスティン商店のように商品を売ることを生業する相手がいないと成り立たない、いわば格下の家でしかない。
母親が付けてくれた家庭教師だって、請け手がへり下るべきなのだと言っていた。
まるで対等だと言わんばかりに堂々としている、アザリーの父親が気に食わない。
そんな態度だから娘までもが不遜な態度なのだ。
レオネルはアザリーが決して嫌いではない。
事務処理の苦手なレオネルの為に選んだという彼女は、金勘定や書類の管理は得意で頼りになる。
地味だと言ってはいるが素顔は整っており、少しばかり細身であるがスタイルだって悪くなく、化粧をして華やかなワンピースでも着れば人から向けられる視線の意味合いが変わっているはずなのに。
それは隣に立つであろうレオネルに付加価値を与えてくれる。
だというのに、婚約者であるレオネルの為に美しくあろうと努力しないのが気に入らないのだ。
レオネルの母親はいつだって綺麗にしている。
愛する人の為だと健気に着飾り、商店会長の妻として流行りだって忘れない。
女性は愛している相手の為なら何でもできるのだと、母親は口癖のように言い、その度にアザリーは我が家に相応しくないと口にする。
だからアザリーに助言をしてやっているのに、それを聞こうとしないから厳しい物言いになってしまうのだ。
これは親切であり、レオネルが悪いのではない。アザリーが悪いのだ。
ここはきちんと言っておく必要があるだろう。
だが、レオネルより先に口火を切ったのはアザリーの父親だった。
「おかしいな、娘は近頃よく婚約破棄だと言われているらしいので、本日はその話で呼んで頂けたのかと思いましたが」
事も無げに日頃の会話で出している言葉を口にされ、息を呑んでアザリーを見る。
いつものように彼女はレオネルを気にした様子は無かったが。
「は?それはどういう。
いや、婚約破棄とは一体?」
隣に座る父親は困惑した様子でレオネルを見てくるが、視線を合わせることなどできない。
まさか親に告げ口しているなんて思わなかった。
アザリーを見て必死に目配せするが、無視を決め込む彼女がレオネルを見ることはないまま。
「いや、まあ、毎日のように婚約破棄を口にしていると娘から聞きましてね。
だったらご縁を結ぶのは難しかろうと思って、今日はその話かと招待に応じた次第ですよ」
人の好い笑みだけは変えないまま、アザリーの父親が言葉を続ける。
「いや、まさか、そんなことはないでしょう。
うちのレオネルはアザリー嬢を気に入っていますから」
他の子に目もくれずにねえ、と笑い声を上げた父親の言葉にレオネルは逃げ出したくなったが、ここで逃げたら後々もっと不都合なことが起きるのだけは理解していた。
「ははは。それこそご冗談でしょう。
さすがに娘の話だけを鵜呑みにするわけにもいかなくて周囲のお子さんの家にも聞いたのですが、アザリーと交流の無い子でも、レオネル君が幾度となく婚約破棄を口にするのを聞いたことがあると報告してくれる状況でして。
想定以上に証言が集まって、まあ他にも何だっけ、名前を呼ぶことを許さないとか地味だと馬鹿にしているとか散々あるようで。
それに、毎日のように二人の華やかな少女を連れて歩いていたから、誰もが彼女達が新しい婚約者候補であると思っているようですよ」
途端にどういうことだと怒りの形相で聞いてくる父親に、レオネルは壊れた人形のように首を横に振って違うのだとしか言えない。
本当に違うのだ。
あの少女達はアザリーがレオネルの横に立つのに相応しくなるまでの、それこそお飾りでしかない。
ゆくゆくは愛人にでもしてアザリーの管理下で働いてもらう予定だった。アザリーが本妻になるので子どもを作らないという分別だってある。
勿論今ここで本音を晒せば、レオネルの襟元を掴んで怒る父に殴られそうなので、口を噤んでいた方が良いとはわかっている。
「アザリーの服装に関しても、アルヴィスティン商会会長夫人の意向で華美なものを控えていただけですので、どうして娘が責められるのかがわからないのですがね」
次いで告げられた言葉に、レオネルだけではなく父親までもが向かいに座る困り顔の相手を見た。
「初めて商店会長夫人のお手伝いに向かったときに言われたそうですよ。
裏で計算するだけしか能がないのだから、華やかな服装でいるのは論外だと、慎み深く紺の服しか認めないということだとか。
国の祝祭日は良いかと思って一度黄色のワンピースを着たら、扇子で頬を打たれたと顔を腫らして帰ってきたのを私も記憶していますがね」
「そ、そんなこと、私は聞いていない」
途方に暮れた父の言葉もだが、レオネルだって混乱しそうだ。
あれだけ美しくあろうと努力する母親が、レオネルの妻になるアザリーに対してそんなことを言うだろうか。
けれど、いつだってレオネルの母親はアザリーを悪くしか言わないのも事実だ。
縋るようにアザリーに視線を向けれども、感情の一切ない顔で見返してくるばかり。
「まあ、そうではないとき用に妻が服を用立てては連れ出してくれていたから、娘のクローゼットが辛気臭いものにはならずに済んだのですが」
これではどうして華やかな服を着てこないのだとは言えなくなってしまっている。
「その、マルグリットに、妻に確認しないと何とも言いようがないのですが、もし事実ならば一番楽しい時期を台無しにしてしまったことに謝罪をしなければならない」
冷や汗を垂らしながら話す父親にいつもの威厳は無くなっていた。
視線は相手を真っ直ぐ見ることもなく、どこと知れず彷徨ったままで思考を巡らせながら話しているのだとわかる態度。
「今更言ったところでどうにもなりませんので、謝罪は不要ですがね」
そう言って話を流す相手の態度が不安を誘う。
嫌な予感が湧き上がって、蓋をしても溢れてしまいそうだ。
「結論だけ言えば、当家ではレオネル・アルヴィスティン君との婚約を認めないということになりました」
ああ、と思わず大きく溜息をついた父親の片手が、レオネルの襟から離れて力なく下へと落ちる。
怒りは消えたものの、残されたのは疲れにも似た何か違う感情だ。
それを見ながら、また眉尻を少し下げたアザリーの父親が困ったように笑みを浮かべる。
「ああ、でも安心してください。
アルヴィスティン家の血縁者との婚姻を不履行にするつもりはないので。
それなら契約を破ったと言わず、双方で慰謝料も発生しないでしょう?」
懐から取り出したのは婚約に際しての契約書か。
ゆっくりと広げて一文を指し示す。
「なにせ、婚約の際の契約書は別にレオネル君との婚姻とは明記しておらず、アルヴィスティン家の血縁者と縁を結ぶことを約束しているのですから」
相手の笑みに対して、力なく座るだけの父親が怪訝な顔へと変わる。
「どういうことです?
アルヴィスティンにはアザリーさんと年の合った者など、レオネル以外にいませんが」
そう聞き返すレオネルの父親の声が僅かにだが震えていた。
対面している方は少し困ったように笑ったまま。
「いやだなあ、人の悪い。
もう一人、お子さんがいらっしゃるのを隠さなくてもいいじゃないですか」
額の汗を拭いながら、本日何度目かとなる言葉の凶器が差し出された。
「ほら、この度はアルヴィエール商店会のところのマリウス君を認知されたのでしょう?
今更ではありますが、その英断を隠さなくても」
え、という言葉はレオネルと父親のどちらの口から出たものか、それとも二人から出たものかはわからない。
ただ、間抜けな声が空間を一時的に占拠して消えていくだけだ。
「今までお認めにならなかったのに、さぞ奥様の説得は大変だったでしょう」
呆然とした父親の様子を見れば、全く知らないのだということがわかる。
まさか書類の偽造だろうかと思ったが、レオネルの襟を掴んだままの片手が震えていた。
父親は本当にマリウスの父親なのか。母親と自分に隠し事をしていたのか。
そう聞きたいのに言葉が出ない。
「マリウス君の母君であるアルヴィエール商店会長が、最近ようやく認知届を手に入れたのだと提出されて筆跡鑑定は済んだ状態だとか。
間もなくアルヴィスティン商店会長の手元に確認の書類が届くでしょうが、確認など必要ないくらいにマリウス君はアルヴィスティン家の血筋らしい顔をしている。
年はマリウス君がアザリーより二つ下だが、困る程でもないでしょう」
こちらの返事を待たずに続く会話は一方的だ。
もはや悪夢でしかないというのに、目覚めることを許してくれない。
「け、けれど、我が家にはレオネルがいる!」
半ば悲鳴にも似た声を上げた父親に、レオネルは大きく頷く。
手元にどんな書類が届くのかはわからないが、あの生意気な奴がアルヴィスティン商店を継ぐことはできない。
ここにレオネルがいる限りは。
アザリーとその父親には誰が後継者であるのかはっきり伝えて、これがレオネルとの婚約であると確約させなければならない。
そんなレオネルを冷めた目で見ているのはアザリーだ。
ここまで一切喋ることのなかった彼女が口を開く。
「失礼を承知で質問するのですが、本当にそちらの彼はアルヴィスティン家のご子息なのですか?」
一瞬に呆気に取られ、次にレオネルの顔に熱が集まった。
何が言いたいのだという困惑よりも、自分よりも格下に馬鹿にされた怒りの方が上回る。
けれどアザリーは怯えることなく、怒りに立ち上がったレオネルを路傍の石かのように見上げ、それから自身の父親へ言葉の続きを促した。
すっかり汗だくになっているアザリーの父親は、吹き出す汗を拭いながら忌々しい口を開く。
「アルヴィスティン商店会長はそちらのレオネル君を後継ぎだと声高に主張されていますが、奥様が少女の頃にご実家で家庭教師をしていた男性のことを?
いや、当然ご存知でしょうとも。一度は貴方との婚姻を嫌がる余りに手を取り合って逃げ出したのは恋愛小説のようだと、当時はこの街まで噂が広がる前に揉み消していましたが、さすがにご本人が知らないはずがない。
お相手は薄茶の髪とライムの瞳の、貴族かと思うような顔の良さだったとか」
アルヴィスティン商店会長の首が不自然な程にぎこちなく、そしてゆっくりと動き、レオネルを視界に入れた。
薄茶とライムという呟きに、レオネルの肌が粟立った。
疑われている。
確かにレオネルは両親と同じ髪や瞳をしていない。顔立ちも父親には似ていないと言われたこともある。
けれど母親は常日頃からレオネルは母方の祖父に似たのだと言っていたし、実際祖父の色味とはよく似ていた。
レオネルの髪と瞳はこの国でよくある色だし、とんだ言いがかりだ。
それを父親が信じるかどうかになるが。
「これは参った。まさかご存知なかったとは。
そんな若気の至りすらも包み込む寛容さで、奥様を迎えられたかと思ったのですが、どうやら違ったようで」
あれほど力の無かったはずの手は強く握りしめる余りにブルブルと震え、そうしてからレオネルを突き飛ばしつつ彼の父親であるはずの男が立ち上がる。その顔は仮面を被ったようにあらゆる表情が抜け落ちていた。
「申し訳ないが聞いた話を確認する必要があり、そして妻と少しばかり話し合いの必要もあるので本日はお引き取り頂きたい。
誰か、客人を玄関まで」
無機質なまでに温もりの無くなった声が二人の暇を告げ、客人は聞き分けよく席を立つ。
彼らが帰った後は地獄となるだろう。
主人の変貌に気づかない使用人が現れ、二人を誘導するように歩き出す。
彼らが家を出るのが少しでもゆっくりあるようにと、信じてもいない神に祈りながらレオネルはソファへと沈み込んだ。
* * *
「アルヴィスティン会長に対して、少しやり過ぎた気がするよ」
先日のことを思い出してか、アザリーの父親が額の汗を拭う。
「何を言うのですか、旦那様。
私の親友が酷い目に遭わされたのですよ?
これぐらいでは生温いくらいですわ」
扇子を力任せに折りそうな勢いで力の入ったアザリーの母親を見て、父親は再び吹き出す汗を拭うのに必死だった。
今いるのはアルヴィエールの一番広い応接間。
ここにアザリーとマリウスの家族が全員揃っていた。
使用人である老夫婦は矍鑠とした動きで近くのワゴンにお茶とお菓子のお代わりを準備したら部屋を辞し、後は各々で淹れるようにしているのはいつものことだ。
「大体、あの屑が全ての元凶なんだから」
本人よりも怨嗟の止まらぬ母親を視界の隅に置きながら、アザリーは手近なクッキーを取って二つに割り、半分をマリウスに差し出した。
事の発端はマリウスの生まれる前のことだ。
この頃にはまだ、マリウスの母親が始めたアルヴィエール商店は、人が三人入れば一杯になる小さな石鹸の専門店だった。
そんな若くて美しい女が一人で切り盛りする小さな店に目をつけたのが、今のアルヴィスティン商店会長だ。
彼は休憩時間になるのを待って裏口から侵入し、マリウスの母親を襲ったのだ。
刃物を突き付けられての欲望の嵐に叩きつけられる苦痛に襲われ、意識が朦朧として倒れている彼女を発見したのは学生時代の親友であるアザリーの母親で。
小さな物置の床に散らばっていたのは手間賃といわんばかりの小銭と、自身の汚れを拭いて捨てただろう手拭いだった。
すぐさま訴えようにも、マリウスの母親は襲われたショックから見知った男性に会うことすら怯え、そして当時のアルヴィスティン商店の名は小さな街ではそれなりに威光のあるもので、人の良いご主人だという評判が回っていた。
結局誰もが襲われたという話を信じず、アザリーの母親が認知届を手にアルヴィスティン商店に物申そうと訪れては、店番によって店から叩き出される日々だったらしい。
そうこうする内にマリウスをお腹に宿した母親は身重で動けなくなり、代わりにアザリーの母親が石鹸屋の商売を引き継ぐことになる。
この頃には既にブラインウェル海運商会へと嫁入りしていたアザリーの母親は義母に心配され、あれよという間に店は少し大きな場所に移動し、ブラインウェルから荷運びと店番用にと男性の従業員を手配もしてくれて今は盗人が忍び込むようなこともない。
ただブラインウェルとしても顧客であるアルヴィスティン商店とは揉めたくないことから、顔を知られているアザリーの母親は完全に海運商会の裏方ということで表に出さず、いつも家の裏口から出て店へと向かっていた。
だからか、古い顔馴染みは誰が店主か知っていたが、店が移動してからはアザリーの母親が立ち上げた店だと思っている者も今なお多い。
こうして一人でマリウスを産んだ彼女を訪れたのは、かつてはアルヴィスティン家で働いていたという初老といった風情の夫婦だった。
聞けば、アルヴィスティン商店の跡取りであるレオネルの成長に伴い、乳母よりもねえやの方が体力もあるし給金も少なくて済むという理由から、家の采配をしていた夫と揃って解雇されたのだという。
それだけならば彼らは無関係な赤の他人であるが、産まれたばかりのマリウスの乳母を探していたのと、彼らが悔恨の謝罪とともに思いがけない情報を持ってきたのだ。
一時の気まぐれかはわからないが、アルヴィスティン商店会長は一度認知届の書類を取り寄せて署名はしたものの、どうしても会長夫人への言い訳が思いつかずに老夫婦の片割れに絶対誰の目にもつかない方法で処分するよう申し付けたのだという。
渡された側はどう処分したものかと困惑し、そして主人が思い直すかもしれないと考えて暫くどこかに保存しておこうと手近にあったファイルへと挟んだのだったが、それが商会の方へと運ばれて気づかぬままに処分予定の書類として保管されてしまった。
そして同時期にアルヴィスティン商店で起きたのが脱税だ。
これは商店会長夫人の書類不備だったのだが、金額の記入を間違えただけ支払うつもりはあったのだという言い分が通るはずもなく、商店が設立されてから初めて国からの監視が付くことになった。
こうなった商会は過去15年の帳簿や他の些細な書類まで、全て保管して、いつでも税務官による監査を受けられるようにしていなければならない。
紛れ込んだ署名された認知届が破棄されるまでに猶予はあるが、手に入れる手段がない。
まさか忍び込むわけにも行かず頭を悩ませていたところに、レオネルとの婚約話が転がり込んできたのだ。
当初アザリーの父親は娘に何かされるのではないかと断るつもりだったが、逆に女性達は皆乗り気だった。
幼いマリウスもアザリーを心配した一人であったが、こうと決めた彼女を止めることなどできやしない。
こうしてとんとん拍子に話は進み、つまらない婚約者の相手と早い内から姑として嫁イビリを始めた商店会長夫人から押し付けられる雑務をこなしながら、ずっと認知届を探す機会を待っていた。
婚約して三年の間はずっと真面目に商店の手伝いをしていたからか、従業員の誰もがアザリーを疑うことをせず、彼女が引き抜いた書類は商店会長に確認が必要なものだと説明すれば信じてくれるくらいにチョロくて、後でこっそり笑ってしまったのは内緒だ。
そして書類の未記入部分をマリウスの母親が改めて埋めて提出し、今に至る。
「結果的にはアルヴィスティン家の乗っ取りをギリギリで止められたのだから、お父さんが恨まれることはないと思うのだけど」
呑気にお茶を飲む娘の姿と対照的に、図太い心臓を持ち合わせていない父親は溜息しか出てこない。
どうせ一体誰に似たのだかと思っているだろう。
「それだって可能性であって、もしかしたら本当に会長と血が繋がっているかもしれないからなあ」
現在、アルヴィスティン商店は内外問わず大変なことになっている。
既に夫婦喧嘩が起きたことや、夫人がレオネルを連れて家を出たこと、その時にレオネルの家庭教師をしていた男を見て商店会長が殴りかかったことなどが、口さがない従業員の内緒話として回り始めている。
周囲に他の噂話を囀る小鳥を散らばす気力もないのか、噂は大きくなるばかりだ。
正直なところ、アザリーとしてはレオネルが誰の子であろうとどうでもいい。
あれと結婚する気も無ければ、アルヴィスティン家に嫁ぐ気もなかったのだから。
目的は大切なマリウスと彼の母親の尊厳を取り戻すためだけ。
今のところ婚約をどうするかという話はあちらから出てこないが、商店会長夫人とレオネルが出ていったとなれば婚約自体が成立しない。
もう少ししたら解消するよう手紙を送ってもらうつもりである。
時間はかかったが、終わり良ければ総て良しだ。
あのアルヴィスティン家での出来事が終わってから、アザリーは紺のワンピースを全て捨てていた。
今やクローゼットの中は春のよう。
その中でも、お礼の一つだとしてマリウスが選んでくれたワンピースは、アザリーにとって一番の宝物として仕舞われている。
半袖なので夏が訪れたらこれを着て、一緒に出掛ける予定だ。
夏が訪れる前だって出掛けたい先は沢山ある。
少しだけ先のことを考えて、あまり表情の変わらないアザリーの唇が少しだけ上がった。
いつもながらの誤字脱字。
いつもながらの誤字報告職人による素早い対応。
いつもありがとうございます。