第七十七話 「神秘の血と誓いの剣」
──静寂が、すべてを包んでいた。
まるでこの空間だけが、世界の“時間”から切り離されたように、誰一人として動かなかった。
そして仮面を被ったアレクシスが、ゆっくりと手を上げる。
その指先が、パチンッと鳴らした瞬間。
──重力が、歪む。
(来る)
私の肌が、確かにそれを感じ取っていた。
空気が重く、全身の骨が痛い。
“圧”そのものが刃になって、身体の芯を押し潰してくるような感覚。
「これは……魔力?」
「違う」
エルがポケットに手を突っ込みながら呟いた。
「こいつの発してるのは、魔力じゃない……魔力以外の何かだ」
「なるほど。さすがだな、守護の者」
アレクシスが言った。
仮面の奥から、声が響く。
その音は、まるで神殿の鐘のように深く、脳髄を直接叩いてくる。
「だが、答えまでは分からないか……残念だ」
次の瞬間──
──空間が反転した。
視界が歪み、床と天井が“ねじれ合う”。
「っ、きゃ──っ!」
ミレーヌが悲鳴を上げ、私は即座に彼女の腕を掴んで支える。
「大丈夫、ミレーヌ。離れないで」
「は、はいっ……!」
(異界への転移──!)
これは──この空間そのものが、“異界”に呑まれつつある。
「この場所は、もう“城”ではない」
アレクシスの言葉が、冥界の風のように流れ込む。
「ここは、“始まりと終わりが交差する祭壇”。
終焉の儀式のために選ばれた、最初の供物が満ちる場所だ」
「供物……って、まさか……!」
私が言いかけた瞬間。
天井が“割れた”。
瓦礫が崩れ落ち、紅蓮の光が差し込む。
だがそれは陽光ではなかった。
──空だった。
血のように赤い、異界の空が、王宮の最上階を侵食していた。
「これは……異界の門……っ!」
ミレーヌが震える声で呟く。
「このままでは、王都全体が……っ!」
(ここで止めなければ)
私は、剣を抜いた。
鞘から響く金属音が、空間を断ち切るように鳴る。
「アレクシス──あなたは、もう戻れないの?」
問いながら、分かっていた。
その仮面の奥に、“かつての彼”はいないことを。
私の知る少年は、もうどこにもいない。
でも。それでも……!
「戻る? ふふ……」
仮面が、笑った。
「リリアナ。僕は、君が“魔王”になった瞬間、
その対となる“仮面の王”として、在るべき運命を選んだんだよ」
「勝手に決めないで。私はあくまで演じていただけ」
私は一歩、踏み込む。
「私の運命も、立場も、強さの意味も──全部、自分で選ぶ」
「ならば、証明しろ。剣で」
アレクシスが、左手を掲げた。
──次の瞬間。
背後の空間から、“剣”が生えた。
異界の空から垂れ下がる鎖に繋がれた、大剣。
それは見るだけで息が詰まるほど、禍々しく、そして美しかった。
「《黒炎の剣》──“彼”から賜った、魂を焼く裁断の刃だ」
「そんなモノまで……!」
(人間じゃない。彼はもう戻れない怪物だ)
エルが即座に前へ出る。
「来るぞ、リリアナ! ミレーヌを守れ!」
「ええっ!」
私はミレーヌを背にかばい、剣を構える。
──始まる。
剣を交える。
(私はもう、過去に引きずられたりしない)
この国を守ると誓ったその日から、
私はもう、“一人じゃない”のだから。
「行くわよ、“仮面の王”」
「望むところだ、“魔王の娘”よ」
──剣が、交差した。
──空が、鳴いた。
一閃。
火花が散るように、世界が“白く”弾けた。
リリアナの剣が、アレクシスの《黒炎の剣》を受け止めたその瞬間、
王宮の最上階は、まるで爆心地のような衝撃波に包まれた。
「っぐ……!」
足が滑る。視界が歪む。
腕の骨が、悲鳴を上げる。
(重い……!)
ただの“質量”ではない。
この剣は、触れただけで“魂を削る”。
防いだだけで、胸の奥がひび割れそうになるほどの──“禍”。
「ほう……受け止めたか」
仮面越しに、声が響く。
「さすがは“選ばれた魔王”だ」
「違うと言っているでしょうがッ!!」
「何が違う?人殺しは立派な魔王の素質を持っている」
「……」
「ふっぐうの音もでんか」
私は踏み込む。力任せではない。研ぎ澄ました、意思の一撃。
剣が唸り、閃く。空間すら切り裂く高速の斬撃。
けれど──
「軽いな」
──アレクシスは、それを“見ていた”。
まるで未来を予見したような動きで、剣を軽く弾き返す。
「君は強い。だが、その強さは“人の域”だ」
「黙りなさい!」
もう一撃。さらにもう一撃。
けれど、アレクシスは一歩も引かない。
むしろ、踏み込んでくる。
──そして。
「“君の中の神秘”に──触れさせてくれ」
黒炎の剣が、私の左肩をかすめた。
その瞬間。
「──ッ、ぁああああああああ!!」
視界が、赤く染まった。
焼けるような痛み。けれど、それ以上に“何か”が揺らぐ。
(これは……)
私の中の何かが、“目を覚ましかけている”。
熱い。熱すぎる。
体の奥底に眠っていた“火”が、呼吸を始めたような──
(やめて……)
それを感じたアレクシスは、嬉しそうに笑った。
「やはり、君の中にあるんだ。“彼”が言った通りの……“火種”が」
「……あ、あ……っ」
「もう少し……あと少しで、君の中のそれは完全に目覚める」
「やめなさい!!」
叫んだのは──ミレーヌだった。
震える手で、短剣を構えた。
「これ以上……お嬢様を“道具”のように扱うことは、私が許しません!」
魔力が、炸裂した。
ミレーヌの魔法《結界陣・双環》がアレクシスの周囲に展開される。
「っ、これは……!」
(ミレーヌ……!魔法を使えたの!?)
「動きを、封じます……!」
ミレーヌが動きを封じている今がチャンス。
(今──!)
私は力の限り、剣を振るった。
紅蓮の剣が、仮面の王を斬り裂く。
──だが。
「ふふ、やはり……」
仮面が、割れた。
その落ちたその断片の奥から、アレクシスの笑みが覗いた。
「痛みも……選ばれた証」
そして。
彼は、空へと後退した。
異界の門が、さらに広がる。
「これで“第一幕”は終わりだ、リリアナ」
「待ちなさい!」
「また会おう。今度は、“君自身”の選択を問うために」
──アレクシスは、闇に溶けるように消えた。
空間の歪みが収束し、王宮の天井が戻ってくる。
静寂が、訪れた。
「お嬢様っ……!」
「……ええ。私は大丈夫」
でも。
──私の中には、まだ燃えている。
“何か”が目覚めかけている気配。
アレクシスが求めた“火種”。
私の“強さ”の根源。
それが、“誰か”に見られている。
(私は、どうなるの……?)
不安が、揺らぐ。
けれど、それでも剣を離さなかった。
ふと見ると焔銀の剣が赤く染まっていた。
(まただ。魔法は使ってないのに……)
誰に何を言われようと──
私は、“私”を貫くために、生きているのだから。
(まだ、負けてない。次で必ず終わらせてみせる)
そしてまた、夜が来る。




