第七十五話「仮面の王と終焉の儀式」
──夜が明けた。
それは、まるで何事もなかったかのように訪れた“普通の朝”。
けれど、私の中では何一つ“昨日”を終えた実感がなかった。
(夢ではない……)
手の甲に残る感触。アレクシスの体温。
あの目。あの声。あの狂気。
“過去”という名の亡霊は、もはや私の中で“記憶”ではなく“現在”として息をしていた。
(終わらせなければ)
私の王国を壊すと、彼は言った。
ならば、壊される前に“断ち切らなければ”ならない。
けれど、それだけでは終わらない気がしていた。
──嫌な予感。
アレクシスの言葉の奥には、“あの人”の気配がある。
私にはまだ顔も、名前も知らない。
けれど、あの夜の最後。
月の向こうに佇む“何か”の存在を、私は確かに感じていた。
---
「……で? この“仮面の男”ってのは?」
エルが椅子に深く腰かけながら、面倒くさそうに訊ねた。
場所は、王宮内の応接室。
昨夜の舞踏会を経て、私たちはレオンの計らいにより、正式に“王族協力者”として動くことが許された。
……という名目のもと、朝から秘密裏に開かれた作戦会議。
「“仮面の王”と呼ばれる存在が、今王都の地脈を掌握しつつあると、王宮の占星官が口を揃えております」
報告したのは、王宮魔術団の長、ヴェルネ・クローデル。
銀の髪を後ろで束ねた老年の魔術師。
その目は、火を見るように鋭く、知識の炎で煌々と燃えていた。
「地脈……魔力の流れ、ですわね?」
「その通りです、リリアナ嬢。王都は五つの魔力井戸に支えられておりますが、その内の二つが……“穢れて”おります」
「穢れている……とは?」
「瘴気のようなものですわ」
ミレーヌが横からそっと補足した。
「その汚れが広がれば、いずれ王都全体の魔力が乱れ、魔物の発生や災厄が引き起こされる可能性も……」
(まるで、“腐らせる”ような攻撃)
「……それは、仮面の王とどう関係が?」
「この“仮面の王”という存在が、どうやら三日前から王都の塔の一つ──“罪塔”に出入りしているらしいのです」
──罪塔。
かつて反逆者たちを処刑するために築かれた、王家最大の“戒めの地”。
(罪……)
アレクシスが、かつて私を“罪”と断じた日を思い出す。
(まさか、繋がっている?)
「リリアナ様」
ミレーヌが私の名を呼んだ。
「この“仮面の王”は、どうやらアレクシス様とも接触があったようです。記録では、彼が“死んだ”とされていたあの夜──罪塔の周辺で目撃されています」
(……やっぱり)
繋がっている。あの男は、“偶然”で生きていたのではない。
何者かに“拾われ”、そして──“変えられた”。
アレクシスは、生きていたのではない。
生かされたのだ。
そういえば左手があった……なぜ?
無くした腕を治すヒーラー……いえ、まさかそんなはずは。
私は頭に浮かんだ人物を振り、切り替える。
「この塔、私が調査に行きますわ」
「危険すぎます」
ミレーヌが声を上げたが──私は引かなかった。
「もう、舞踏会は終わったのですわ。次は……“戦場。ここからが本番ですもの」
---
──罪塔。
王都の最北、古の森を切り拓いた先。
霧が常に地を這い、昼でも太陽が届かぬという不浄の地。
私たちは王宮の認可を得て、早朝にこの塔へ向かっていた。
同行するのは──
・エル:前線戦闘担当
・ミレーヌ:魔力感知と案内役
・そして私。
ミカは……置いてきた。
妥当な判断だった。あの子がこの空気に触れれば、きっと“壊す”方向に行ってしまう。
(でも、ほんとは……連れてきたかった)
この先に何が待つか分からない。
剣を持つ手よりも、信頼できる手が一つ多い方が、本当はずっと心強い。
「でかいな……」
エルがぽつりと呟く。
見上げた罪塔は、まるで天を突くようにそびえていた。
黒曜石のような光沢を帯びた石壁はどこか異様で、
“塔”というより、“墓標”のように思える。
「中に、いるのかしら……“彼”が」
私がそう言った時──
塔の扉が、音もなく、開いた。
「……ご案内か」
エルが警戒する。
「でも、敵意は感じませんわ」
「だからって、歓迎されてるとは限らない」
「行きましょう」
私たちは、開かれた“口”の中へと足を踏み入れた。
──塔内。
空気が違う。
ひんやりとした温度、響く自分たちの足音、そして……どこか、祈りの残響のような何か。
(空っぽなのに、何かがいる)
そんな感覚だけが、背筋を撫でていく。
「魔力反応、あります。かなり奥の方に……人、です」
ミレーヌが眉を寄せて告げた。
「一人?」
「……いえ、一人以上、けれど“一人にまとまっているように”感じます」
「まとまってる?」
「魂の密度が重なっているような、異常な感覚です」
(魂が……重なっている?)
そんな時──視界の奥、祭壇のような場所に、何かが現れた。
一人の男。
仮面をつけた男。
白磁のような仮面に、目の部分だけ黒く塗られている。
その仮面が、こちらを向いた。
「来たか」
ただ、それだけを口にした。
声は若くも老いてもいない。
男とも女ともつかない、どこか“作られた”ような声。
「あなたが──“仮面の王”?」
私が問うと、男は仮面を僅かに傾けた。
「いや。私は“彼の代行者”だ。仮面を預かる者。彼の意志を伝える、器に過ぎない」
「……彼?」
「仮面の王は、“まだ目覚めていない”。けれど、すぐだ。
君たちが“儀式”を終わらせてくれるのなら、彼は目覚め、君の前に現れるだろう」
「儀式……?」
「終焉の儀式だ。この国の歴史を終わらせ、新たな王が歩みを始めるための、“命の焚き火”だよ」
「何を、する気なの……」
「君がその鍵だ、リリアナ=フォン=エルフェルト。
君の“選び取った強さ”こそが、王国を滅ぼすための最後の火種なのだ」
その言葉は、まるで“定め”を語るようだった。
私が望んだ未来ではなく、
私が逃げた過去でもなく、
私がようやく掴んだ“今”さえも、他人の手で“意味”を与えられる。
(ふざけないで)
「……あなたは、私を知っているの?」
「知っているとも。リリアナ=フォン=エルフェルト。
剣を持つ深紅のドレスで舞踏会に立った“魔王を名乗る令嬢”──」
「だから?」
「いや。君が君を選んだ、その瞬間に、君は“魔王”になった。
この国を壊す者として、神話に刻まれる運命を歩み始めたんだよ」
「運命なんて、選ばれるものじゃない。私が選ぶものですわ。何を言っているのかは分かりませんが、敵なら切りますわよ」
「ふふ……だから君は危うい。だからこそ、“彼”が興味を持ったのだよ」
「“彼”とは誰なの?」
「仮面の王。この国がまだ“神の血”を引いていた時代、もう一つの王家を継ぐべきだった“者”。だが歴史から消された、正統と呼ばれなかった血筋の王」
「……もう一つの、王家?」
「今や君が知る“王”は、剣と名誉によって作られた貴族。代替に過ぎない。
だが、もう一つの“神秘”を継ぐ血があった。
それを、“今の王家”が葬ったのだ。君の父、レオンもまた──その罪を背負う」
「……っ」
(お父様が……?)
「君が持つ“強さ”は、偶然ではない。“神秘の血”が、君の中に微かに混ざっている。
それは、リリアナ、お前が“生きて選ばれた存在”であることの証だ」
「何を言って……!」
「君はすでに、彼の世界に足を踏み入れている。剣を手に取った時から、君はただの令嬢ではない」
「それでも、私は私ですわ。
誰が決めようと、どんな血を持とうと、私の意思は“誰にも壊せない”」
仮面の男は、静かに仮面に手を当てた。
「……ならば、試すがいい。
君が本当にこの国の“未来”を望むなら──“彼”を目覚めさせてみせろ。
そして、その“瞳”を覗くのだ」
「彼って?何が……何が起きるの?」
「終焉が始まる。
だが、それは“壊す者”にとっての始まりであり、
“守る者”にとっての終わりでもある」
──仮面の男の姿が、霧のように消えていく。
「待ちなさい! 話はまだ──!」
けれど、追いつくことはできなかった。
塔の奥に広がっていた祭壇の光も、もう消えていた。
そこに残されたのは、一枚の古びた紙片だけ。
「これは……」
私はその紙を手に取る。
触れた瞬間、掌がじんわりと熱を持った。
(これは……何かを、開かせようとしている)
「お嬢様っ!」
後方からミレーヌが駆け寄る。
「お怪我は!?」
「……ええ。大丈夫。だけど──何か、始まってしまったかもしれないわ」
「始まった、とは?」
「“仮面の王”の物語が。
この国の、もう一つの真実が──開かれようとしている」
---
──夜、王宮・最上階。
「……やはり来たか、“魔王の娘”よ」
椅子に腰掛け、仮面を付けた男が静かに呟いた。
だがその仮面は、先ほどリリアナが見た“使者”とは異なるものだった。
より重く、より鋭く、より深い“王の呪い”が宿った仮面。
その口元だけが、かすかに、笑った。
「ようこそ、我が“儀式”へ。
リリアナ=フォン=エルフェルト。君の運命は、すでに“始まり”の中にある」




