第七十一話「舞踏会への招待」
──やあ、俺だ。レオン・フォン・エルフェルトだ。
どうやら、俺の娘がまた面倒なことに巻き込まれているらしい。しかも、死んだと思っていた男からの“招待状”付きときた。
親としては心中穏やかじゃないが──あいつはもう、俺の背を追うだけの娘じゃない。
だから、黙って見ていよう。だがアレクシス、覚えておけよ。娘に指一本触れてみろ。国ごと消し飛ばす。
では──始めるぞ。
──手紙を燃やした手は、まだ震えていた。
“読んだ”というより、“飲み込まれた”といった方が正しい。
文字の一つ一つが皮膚に刻まれるようで、まるで毒をそのまま心に流し込まれるようだった。
(あの人が、生きている──)
焼け落ちる羊皮紙。黒く崩れ落ちる火の粉。
それでも、文字の残像が瞼の裏から消えてくれない。
「リリアナ……大丈夫か?」
静かな声。エルの声音は、誰よりも冷静だった。
けれど、その瞳には明確な“警戒”があった。
「……ええ。大丈夫ですわ」
「嘘だな」
「……」
「お前の強さは俺が身をもって知っている。その男はそんなお前をそこまで震え上がらせるやつなのか?」
私は言葉を返せなかった。
心臓の鼓動がまだ早い。喉が乾いて、唇が割れて、手は汗ばんでいる。
けれど、それでも──震えながらも私は立っている。
「ミカ、悪いけど……少し席を外してくれるかしら?」
「え、え? 妾は別に気にしておらんが……」
「お願い」
私の声はきっと、“いつもの私”ではなかった。
それに気づいたのか、ミカは素直にうなずいて部屋を出ていった。
戸が静かに閉まる音。
部屋には、私とエル、二人きり。
「……言いたくなければ言わなくてもいい。だが」
エルの視線が、私の手の焦げ跡に落ちる。
「──お前が泣く理由。俺にはそれを聞く権利があると思っている」
「泣いてなどいないわ」
「目が赤い」
「目が疲れているだけ」
「手紙の男、“アレクシス”……だったか。あれがお前にとって何者なのか、聞いていいか?」
私は一度だけ深く息を吸い込んで──吐いた。
(語らなければ、前には進めない)
「……かつての、婚約者よ」
エルの表情が変わることはなかった。けれど、空気が変わった気がした。
「貴族社会ではよくある婚約の話よ。……彼は、“まともな”人だった。少なくとも、最初はね」
「最初は、か」
「私に夢を語った。“王妃として共に生きてほしい”と。……でも」
──剣を握った私を、“王妃の器ではない”と罵ったのも彼だった。
「自分の理想に合わないと知った瞬間、彼は……私を切り捨てた。いいえ、切り捨てたのは……私の方かもね」
(けれど)
「それでも──あの文面は、あまりに異常すぎる」
「明らかに、精神を病んでいるな」
「ええ。でも、問題はそこではないの」
私は、わずかに声を低くした。
「“生きていた”ということが、何よりも問題。お父様は彼の死を公表した。……それなのに、生きていた。なぜ?」
「隠蔽か、あるいは──」
「操られている可能性も」
その言葉に、エルの表情がわずかに強張った。
「お前、行く気か?」
「ええ。……もちろん。決戦という舞踏会にね」
私はまっすぐ彼を見た。
「私が行かなければ、また誰かが壊される。あの人は、そういう人だから」
「だが、危険すぎる」
「それでも。──誰かが止めなければならない」
私の中で、何かが決まった。
覚悟ではない。
むしろ、宿命。
彼と向き合わなければ、私はきっと前に進めない。
──あの日、剣を振るった私が。
あの日、“普通”を選ばなかった私が。
王妃にもなれず、ただ強くなることを選んだ私が。
この国で、ようやく“生きている”と言えるようになった今──
もう一度、過去に踏み込むことが、どうしても必要だった。
「エル」
「……何だ」
「護衛に、あなたがいてくれると、心強い……かも」
「……はぁ。素直に言え。助けてくれと。……仕方ない。お前は俺たちに居場所をくれた。何よりミカを助けてくれたしな」
私たちは、小さく笑った。
けれど、この戦いは──笑って済むようなものではないことを私は知っている。
だがその直後──
「妾も行く!」
ミカは、私の説明が終わるや否や、机に手をついて叫んだ。
「ミカ!?聞いていましたの!??……ダメですわ」
「なぜじゃー!? 妾も強いぞ! 何かあっても一撃でぶっ飛ばしてやるのじゃ!」
「だからダメなの。舞踏会は戦場ではありませんもの。……少なくとも、表向きはね」
「……表向きは、か」
エルが静かに口を挟む。
その目は既に“警戒”で満ちていた。
「なら俺たちは、周囲の監視を。……中はお前に任せる」
「お願いするわ」
私は少しだけ微笑んだ。
(けれど……中が一番危険なのよ)
アレクシスの狂気は、刃のように鋭いものだ。
触れた者は、気づかぬうちに切られ、血を流してしまう。
あの目で見つめられることが、どれほど精神をすり減らすか──
私は、知っている。
「……では、支度を始めますわね」
そう言って私は自室へ向かう。
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鏡の前で、ドレスを選ぶ指先が震えていた。
(なぜ……今さら、こんなにも)
怖い。やっと終わったと思った。
それがまた憎しみを抱いて、さらには舞踏会に招待された。
(タダでは終わらない。まず罠に違いない)
「リリアナ様、こちらのドレスはいかがでしょうか?」
ミレーヌが控えめに差し出してきたのは、深紅のドレスだった。
「紅……?」
「ええ。あのお方は、きっと令嬢らしい純白や淡い色を望まれるでしょう。ですが──
“拒絶”の色を纏うことで、相手に一線を示すことができます。もうこれを最後にしましょう、と」
私は少し驚いてミレーヌを見た。
「あなた、案外策士なのね?」
「……私はただ、貴女様の勝利を願っているだけです、お嬢様」
(ミレーヌ……)
静かに微笑む彼女の目に、ほんの僅かだが“敵意”が滲んでいる気がした。
彼女なりに、怒っているのだろう。
狂気を向けられた私にではなく──
それを許すような世の中と、過去のアレクシスに。
「ありがとう。では、そのドレスを」
ミレーヌが深く頭を下げ、支度に取り掛かる。
私は再び鏡を見つめる。
赤。
血のように深い赤。
かつての私なら選ばなかった色だ。
(でも今は──これしかない)
私の生き様を、ありのままに見せつける色。
綺麗なだけの“人形”ではないという証。
「舞踏会まで、あと二日……」
(あの手紙が届いた瞬間から、私の“過去”は終わっている)
ならば、次に進まなくてはならない。
そのための舞台。
そのための装い。
そのための、刃。
私は、二日後──舞踏会という名の“戦場”に立つ。
始まりはまだ終わってはいない。




