第六十九話「誰でもない場所」
──ごきげんよう、リリアナ・フォン・エルフェルトですわ。
剣を振るうのは、勇気がいること。
でも、誰かと一緒に“ご飯を食べる”って、案外それ以上に難しいのかもしれませんわね。
私たちは今、小さな食卓を囲んでいます。
肩を並べて、箸を持ち、笑ったり怒ったり──そんな普通のことを、“必死に”やっているのです。
「──焦げてますわね」
私が蓋を開けた瞬間、立ち上る黒煙とともに広がったのは……炭の匂い。
「うわー!炊けておらん!」
ミカが鍋を覗き込み、口をぱくぱくとさせる。
「“炊けておらん”、どころじゃありませんわ!これは炊くというより……いっそ焼き尽くしたという表現の方が近いですわ!」
「でも見た目は……焦げたお菓子みたいで美味そうなのじゃ」
「それは視力の問題ですわ!」
「俺は最初から火を使わせるなと言った」
エルの冷静なツッコミが静かに刺さる。
私は深くため息をついて、鍋を横へ寄せた。
(はぁ……このままじゃ本当に屋敷が丸ごと消し炭になってしまう……)
「……私が作りますわ」
「ええー、妾の出番がなくなるではないか」
「何もかも燃やしてしまう方の出番は少ない方が平和ですの」
「むぅ〜……」
ミカがしゅんと肩を落とす姿は、年相応の少女にしか見えなかった。
(でも、あの力を持っている……)
ほんの数日前まで、彼女が“地面を抉り、空気を裂く力”の持ち主だったとは思えない。
けれど──私は知っている。
“彼女は、力を持っている”だけで、“それに振り回されている”のだと。
「では、あなたたちはテーブルを拭いてくださいまし」
「拭く?どうやって?」
「雑巾ですわ。濡らして、絞って、拭く。ただそれだけです」
「それだけって言われてものう……」
ミカがバケツに顔を突っ込みながら、変なところから布を出してきた。
「それ、風呂敷ですわよ!!」
「なぬ!?」
もう、ダメですわこの子。
でも──
「ふふっ」
不意に、笑っていた。
自分でも驚くくらい、自然に。
「あー!リリアナが笑ったのじゃ!」
「笑ってはいけませんの?」
「いや、ええことじゃ!」
ミカがぴょんぴょん跳ねる。
エルはそれを見ながら、少しだけ目を細めていた。
(……これが、“誰でもない場所”)
王でも、兵でも、転生者でも、破壊神でもない。
ただ三人で、“少し不器用な日常”を生きている。
「じゃあ、晩ご飯はちゃんと作りますわね」
「妾、味見係じゃな!」
「俺は……食べるだけでいい」
「協力してくださいまし!!」
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「……できましたわよ」
大皿に盛られたスープと、湯気を立てるパン。
そしてシンプルな野菜の炒め物。
特別ではない。でも、暖かい。
それだけで、心のどこかが少しだけ満たされる。
「ほーっ、うまそうじゃ!」
ミカが早速手を伸ばそうとして──
「こら、手を合わせてからですわ!」
「えー? 合わせてから食うと味が変わるのか?」
「味は変わりませんけど、気持ちが変わるのです!」
「むぅ……じゃあ、妾も気持ちを変えてみるかの」
エルは何も言わず、すっと手を合わせた。
(律儀ですわね、こういうところだけは)
年相応というか。
「──いただきます」
三人の声が重なる。
それは、この屋敷で初めての“食卓の合図”だった。
スプーンの音、パンをちぎる音、ミカの「うまい!」という叫び。
静かなはずの夜が、にぎやかに染まっていく。
「リリアナ、これ、本当にお前が作ったのか?」
「ええ。料理くらいは人並みに──あっ、エルが褒めようとしている顔ですわね」
「してない」
「その目が“おいしかった”と言ってますわ。ほら、認めなさい」
「……味は、悪くない」
「それは最上級の褒め言葉と受け取っておきますわ!」
エルが顔を逸らす。
ミカはパンを頬張りながら、口の端にクリームをつけたまま喋っている。
「妾、こんなに落ち着いて食事できるの、初めてかもしれんのう」
「そうなの?」
「うむ。昔のことはよく覚えておらんが……こんな風に誰かと食べて、笑って、怒られて……そういうの、初めてな気がするのじゃ」
「……」
ミカの言葉に、一瞬だけ空気が揺れる。
私はふと、自分の皿に目を落とした。
(……私も、最初はそうだった)
この世界で目覚めて、家族がいて、屋敷があって、しきたりがあって。
でも、誰かと本音を言い合ったことなんて、なかった。
「ねえ、エル」
「なんだ」
「……こうしてると、何だか、自分が“普通”の人間になれた気がしますの」
「お前が普通?」
「そう。“剣聖”でも、“令嬢”でもなくて……ただの、私」
食卓の明かりが、静かに揺れていた。
パンの温もりと、スープの香り。
そして、誰かがそばにいてくれるということ。
それだけで、心が落ち着いていく。
「俺も、たまには悪くないと思ってる」
「ふふっ、素直じゃないですわね」
「うるさい」
短いやり取り。
けれど、その中に──少しずつ、確かに芽吹く“信頼”があった。
「……妾も」
ミカが小さな声で呟いた。
「妾も、こういうの好きじゃ。こういうの……守りたいって、思うのう」
その言葉に、私も、エルも──一瞬、返す言葉を失った。
破壊神と呼ばれた少女の、素朴な願い。
それが、どれだけの重みを持っていたかを、私たちは知っていた。
「……じゃあ、焦がさない練習から始めましょうか」
「おおっ!? 妾、明日から全力じゃ!」
(お願いだからゆっくりでお願い……)
壊れたものは、すぐには直らない。
でも、こうして少しずつ──“始めていける”のかもしれない。
私たち三人は、まだ未完成のまま、静かな夜を過ごしていた。




