第六十八話「居場所の代償」
──皆さま、ごきげんよう。リリアナ・フォン・エルフェルトですわ。
「何も起こらなかった」──そんな風に済ませられれば、どれほど楽だったでしょう。
けれど、現実はいつも、思っているよりずっと狭量で、残酷ですのね。
誰も怪我はしていない。誰も命を落とさなかった。
それなのに、たったひとつ“壊れた”だけで、空気は冷たくなる。
私たちは今、その冷たい視線の中心に立っている。
第六十八話《居場所の代償》。どうぞ、静かにお聞きくださいませ。
「──リリアナ様!」
戻ってきた広場に、待っていたのは、真っ先に駆け寄ってきた衛兵たちの声だった。
「ミカ様のお姿が……無事でしたか!?」
「ええ。大丈夫ですわ。今は落ち着いていますの」
私はそう答えた。だけど──
(この空気……)
はっきりと分かる。
そこにあったのは“安堵”ではない。
“恐怖”と“疑念”。
ミカの後ろに回るようにして、衛兵たちが距離を取っているのが分かる。
(たった一回。それも無自覚な暴走……なのに)
いや、“なのに”じゃない。
──これが、普通なのだ。
この世界で“普通”に生きてきた人たちから見れば、
制御できないほどの力を持った存在は、ただの“脅威”。
たとえ、その子がどれだけ笑っていても。
「本当に、怪我人は出ていませんわよね?」
私は念を押した。衛兵のひとりが少し戸惑いながら、うなずいた。
「は、はい。幸い、あの時間は人通りも少なく……被害は、床の破損と、屋台の……」
(……屋台)
なんとも言えない沈黙が私の中を過ぎる。
「復旧には、いくらか資金を回しますわ。国の負担ではなく──個人として、私が支払います」
衛兵が目を見開く。
「リ、リリアナ様、それは──」
「彼女たちは、私が“迎え入れた”存在ですもの」
言い切った。否定はしなかった。
「責任は、私が取りますわ」
(それが──王家の娘としての、義務)
背後で、エルが何も言わずこちらを見ていた。
彼の表情は読めない。けれど、その視線は真っ直ぐだった。
「……すまない」
不意に、彼が言った。
「え?」
「俺がミカを止めきれなかった。……すまない」
その謝罪は、短く、乾いていた。
けれど、その中にあったのは、自分を責める痛みではなかった。
「“居場所”をもらうってのは、こういうことだったな」
(……居場所)
私の胸に、ずしんと響く。
力がある者が、居場所を持つには、“代償”がいる。
信頼を積み上げ、責任を引き受け、それでもなお──見えない線は越えられない。
「今は、これでいいのですわ」
私は小さく、でも確かにそう言った。
「今は?」
「ええ。今はまだ、“異端者”として見られている。でも、いずれ変えてみせますわ。あなたたちが“この国の住民”であるという事実を」
(信じたい。信じさせたい)
ミカが、ゆっくりと顔を上げた。
「妾、また……やってしまったのかの?」
「ミカ様」
衛兵の一人が、一歩後ずさった。
その一歩が、あまりに静かで、あまりに明確だった。
──拒絶。
私は、無意識に一歩、ミカの前に出ていた。
「彼女は、何も悪くありませんわ」
言い切った。強く。誤魔化さずに。
ミカが、ぽかんとした顔で、私の背を見ていた。
「妾……悪くないのか?」
「ええ。だって──“知らなかった”のですもの。それに、今は“後悔している”のでしょう?」
「う、うん……」
ミカが小さくうなずく。
その姿は、まるで叱られた後の子どものようで。
でも同時に──“心”を取り戻しかけている証だった。
だが、果たして彼女の記憶を呼び起こすような真似をして大丈夫なのだろうか。
でも──
(ここで見捨てたら、彼女は本当に壊れてしまう)
だから、私は立った。
──その代償が、どれだけ重くても。
(……でもこの子を守るって──どういうことなんでしょう)
目の前で、ミカがぽつんと立っていた。
まるで、世界から切り離された存在のように。
小さな背中。その手のひらには、もう団子もない。
あの時、確かにこの子は笑っていた。
その笑顔を──今、誰も信じてくれない。
「ミカ様は、その……今後どこに滞在されるおつもりですか?」
衛兵の問いは、あくまで事務的だった。少しの恐怖も感じられた。
でも、その奥にあるものは明らかだった。
“どこかに隔離すべきではないか”、と。
「彼女たちは、私の屋敷に住まわせますわ」
「リリアナ様、それは──」
「王家の監視下という意味では最も安全ですわ。監視の兵も配置すれば、不安も軽減されますでしょう?……それに私、強いので」
そう言って、私は微笑んだ。
(微笑んでなければ、持たない。耐えられない)
私は今、自分の権威を“盾”にしている。
これが王女の立場でなければ、とうに拒絶されていただろう。
「そう言うことであれば……一考の余地はあるかと」
貴族の一人が渋々といった様子でうなずいた。
けれど──一つだけ、はっきりしていた。
“信用”はされていない。
---
「ふぅ……」
私は人目も憚らず、屋敷への帰り道でため息をついた。
「本当に、緊張する立ち話……いえ、会議でしたわ……」
「そうか?」
横を歩くエルが、妙にあっさりとした声を漏らす。
「……あなたたちの立場が、どれだけ危ういか分かってますの?」
「分かってる。だが、今に始まったことでもない」
「それでも……!今回は私も巻き込まれていたんですのよ? もっと危機感を持ってほしいですわ」
つい、声を荒げてしまった。
でも、エルは怒るでも呆れるでもなく、少しだけ目を伏せて呟いた。
「……すまないな」
その一言に、足が止まった。
「え?」
「俺たちが、お前の足を引っ張っている。それは分かってる。……だが、今更引くつもりもない」
「……」
彼の顔は、相変わらず無表情だった。
でも──それでも、その声の奥に、ほんの少しだけ“悔しさ”のようなものが混ざっていた。
「あなたのせいじゃありませんわ。むしろ、私が勝手に首を突っ込んでるだけ」
「なら、なぜそこまでやる」
静かな問い。
私は、迷わず答えた。
「……あの子が、ひとりぼっちで泣く未来を、見たくないからですわ」
(あの笑顔を、“壊れたもの”として終わらせたくない)
「私、昔はずっとひとりだったんですのよ」
「お前が?」
「ええ。誰も“私そのもの”を見てくれませんでしたの」
(今思えば、この体も“異端”だった)
だから、私は思う。
“異端”という言葉は、外見でも力でもなく──“違い”のことを言うのだと。
違う者は、理解されない。
理解されない者は、怖がられる。
怖がられた者は、排除される。
それを止めたくて、私は戦っているのだ。
「……俺は、お前がよく分からない」
「ふふっ。私も、自分でもよく分かってませんわ」
エルが、ほんの少しだけ──本当に少しだけ、口元を緩めた。
それはもしかしたら、彼にとっての“笑み”だったのかもしれない。
その後ろで、ミカが両手を広げながら叫ぶ。
「おかえりなのじゃーー!! 妾、飯を炊いて待っておったぞーー!」
「え、飯って何……?というか先に帰ってましたの……?」
「鍋に水を入れて火をつけたら炊けるじゃろ!! 妾、天才じゃな!?」
「……火はどうやって?」
「そこにあった紙と布をまとめてぽいっと──」
「やめてーー!!!」
私は走り出した。今度は全力で。
──家の火事なんて、冗談じゃありませんわ!
「ふっ」
後ろから微かにエルが笑う声が聞こえた気がした。




