第六十七話「欠けた記憶、揺れる瞳」
──ごきげんよう。リリアナ・フォン・エルフェルトですわ。
笑って、歩いて、少し冗談を言い合って──そんな普通の時間が、どれほど貴重だったのか。
今になって、それが胸に痛く突き刺さってきますの。
だって、そうでしょう?
たった一瞬、目を離しただけで、大切な誰かがいなくなるなんて……想像すらしていませんでしたもの。
それでは、第六十七話《欠けた記憶、揺れる瞳》。どうぞ。
「……ミカ?」
声をかけても、返事はなかった。
「さっきまで、あの屋台の前に──」
(いない……どこにも)
あんなに元気に走って、団子を食べていたのに。次の瞬間には、影も形も見えなくなっていた。
(どこにいったの……)
「エル。彼女、どこか行くって言ってました?」
「……いや。何も言ってなかった」
エルの眉がわずかに動く。
その顔は冷静に見えるけれど、確実に焦りの色が滲んでいた。
(やっぱり、ただ事じゃない)
「この辺り、人通りは多いですわ。誰かが連れ去るにしても……かなり目立つはず」
「いや、奴なら一人で動ける。誰かが手を出した可能性は低い。……むしろ、危険なのは──」
エルが言葉を切る。
「……ミカ自身だ」
その一言で、心臓が跳ねた。
「まさか……暴走とか?」
「分からない。だが、可能性はある」
エルの言葉は断定ではなかった。
だけど、あの目は確かに……覚悟していた。
「探しましょう。放っておけませんわ!」
「当然だ」
私たちは即座に走り出した。
王都の大通りを抜け、路地へ、そしてまた人混みの中へ──
「ミカーー!!」
「……声は無意味だ。あいつが意図的に気配を消していたら、探知は困難だ」
「でも、探さないわけにはいきませんもの!」
何もできないまま、また“失う”なんて──耐えられない。
(あの子はまだ、笑っていた)
あの団子を握って、目を輝かせて、何度も「うまいのう」って言って──
(あんな無邪気な子が、暴走なんて……そんなの……)
それに私は過去を知ってしまった。あの子がどんな死に方をしたのかはわからない。
でも、きっとそこには触れてはいけない闇がある気がする。
「……エル、あれは?」
私は通りの先に小さな石畳の広場に目を留めた。
その中央に──
「……串?」
団子の串が、ぽつりと地面に落ちていた。
「これは……」
エルが拾い上げる。
その先端が、ほんのわずかに焦げていた。
「スキルによるもので……?」
「いや、これは……」
エルが串を見つめたまま、言葉を飲む。
その時──
──ズズン……
空気が、揺れた。
どこか遠く、でもはっきりと“地響き”が聞こえた。
「今の、何……?」
「……この感覚。……間違いない」
エルが目を見開いた。
「ミカがスキルを使った」
「っ……!」
──街のどこかで、“破壊”が始まっている。
──ズズン……
街のどこかで、何かが崩れたような音。
それは、爆発でも衝撃でもなく、もっと静かで、もっと嫌な“重さ”を持って響いていた。
「こっちですわ!」
私は揺れた方向を見定め、迷わず駆け出す。
靴音が石畳を叩くたびに、胸の奥で不安が大きくなる。
(どうか、無事でいて)
叫ぶように願う。でも、願いは届かない。
「おい、そこの君!立ち入りは禁止──って、リリアナ様!?それに……」
通りかかった衛兵が制止しかけたが、私の顔を見るなり、目を見開いた。
「通してください!急いでいますの!危険かもしれませんの!!!!」
「りょ、了解しましたっ!」
警護を振り切ってさらに進む。
そして──
視界の先、王都の片隅、人気の少ない広場。
その中心に、立っていた。
「……ミカ」
彼女は背を向けていた。
小さな背中が、まるで取り残されたように、風に晒されていた。
だが、その足元には──
(……焦げ跡)
広場の中央が、まるで何かで“押し潰された”かのように、丸く抉れていた。
瓦礫が砕け、土がめくれ上がっている。
「ミカ!」
私の声に、彼女はゆっくりと振り返った。
そして──
その瞳に、私は息を飲んだ。
「……え?」
そこにあったのは、さっきまでの笑顔ではない。
無表情。感情の欠けた、空っぽの顔。
「リリアナ?」
「ミカ、あなた……」
「ここ……どこ?」
その声には、焦りも混乱もなかった。ただ、“心”がなかった。
「っ……」
私が言葉を失っていると、隣のエルが静かに前へ出る。
「……ミカ。お前、また──」
「兄さま?」
その言葉だけで、エルがわずかに身を強張らせた。
「お前、俺のこと……」
「兄さま。妾、団子食べてたはずじゃったのに……気づいたら、ここにおって……床が壊れてて……皆逃げてって……」
その目は、泣いてもいない。怒ってもいない。
ただ、“壊したこと”に自覚がない。完全なる無。
「ミカ、お前……スキルを使ったのか……俺の許可なしに」
「スキル……?」
彼女は、自分の両手を見つめる。
「妾、何かしたのかの?」
その一言に、エルは口を閉ざした。
私は、彼女の手元を見る。
震えていた。ほんのわずかに、かすかに。
「……記憶が飛んでるのね」
「なに?」
「エル。あなた気付かないの?……ここで何かがあったのよ」
私は、ゆっくりと彼女の手に手を添える。
その指先は、まだ微かに熱を帯びていた。
「誰も、傷ついていないわ。……今はね」
ミカの瞳がわずかに揺れる。
「……よかったのう」
その言葉に、ようやく彼女の顔に“感情”が戻った気がした。
だが、その奥には──深く沈んだ、何か黒い影があるように思えた。
(この子のスキルは、“破壊”)
記憶を失い、感情が希薄になったまま、力だけが暴走する。
(これが……“異端者”としての現実)
「……エル」
「分かってる。もう少し、俺が見ておく」
彼の言葉に、私はうなずいた。
ミカはまだ、自分の“輪郭”すら知らない。
けれど、だからこそ──誰かがそばにいなくてはならない。
(私は……この子たちを、“ここ”で守ってみせる)
私の決意が、胸の中で静かに固まった。




