第四十八話「怒気」
私と父、そして、圧倒的な力を持つ“影の名を冠する者”《影鰐》ダイル。
(……この戦い、勝てる気がしない)
その思考が、頭を過ぎること自体が異常だった。
私は剣を握る。血が滲むほどに握りしめる。
それでも、手の震えは止まらない。
(なんなの、この感覚……?)
目の前の男は、まだ何もしていない。
なのに、私は……ただ彼の存在に、心が折れかけている。
これが“怒気”の力?
ただいるだけで、相手の戦意を喰らい尽くす、そんな化け物じみた能力?
(そんなの……そんなの、ありえない……!)
「さぁ、そろそろ始めようぜ?お二人さん」
ダイルが不敵に笑う。
その赤髪が揺れ、視線が私に突き刺さる。
「なぁ、お嬢ちゃん。お前、強ぇよなぁ?俺を前に立っていられる者はそういる者じゃねぇ。だったら、試してみるか?」
「試す……?」
「どっちが先に、殺されるかっ話に決まってんだろ?」
(っ……!!)
全身の毛が逆立つ。
悪意に満ちた声音が、私の鼓膜を震わせる。
冗談でも、挑発でもない。
この男は、本気で私を"殺す"つもりでいる。
「……ふざけないでくださる?」
私は、相棒を構えた。
体の震えは止まらない。
だけど、ここで怯えるわけにはいかない。
(負けたら、終わる……!)
私は、意識を集中させる。
“怒気”がどういう能力なのか分からない以上、今できることはひとつ。
「スキル──《剣聖》発動」
視界が広がる。
反応速度が加速し、ダイルの動きが“見える”ようになる。
この能力があれば、少なくとも一方的にやられることは──
「なんだそれ、遅ぇ」
「……なっ!?」
瞬間、視界が赤に染まった。
理解する前に、体が宙を舞う。
地面が遠のく。
視界が回転し、次の瞬間──壁に叩きつけられた。
「が……っ!!」
肺が潰れる。
意識が跳ねる。
体が痺れる。
(な……に……?今の……!?)
「おいおい、何してんだよ嬢ちゃん。今なんか使ったんだろ?」
ダイルが目の前に立っていた。
私は何も見えなかった。
反応速度を引き上げたはずなのに、彼の動きが見えなかった。
(そんな……そんなの……!)
「おい、立てよ」
次の瞬間、ダイルの拳が私の髪を掴む。
無理やり持ち上げられ、視線が合う。
男の目には、ただ純粋な"興味"が浮かんでいた。
「お前がどこまで耐えられるか、おらぁはちょっと試してみたいんだよなぁ?」
その言葉とともに、私の腹に拳が叩き込まれた。
「がはっ……!!」
意識が跳ねる。
痛みが遅れて襲う。
私は呻きを漏らしながら、必死に地に足をつける。
(まずい……まずい……!このままじゃ……!)
「リリアナッ!!」
父の叫びが響く。
私は意識を引き戻し、ダイルを睨みつけた。
「……まだ、終わりじゃありませんわ」
私は、剣を握り直す。
この男に、"勝てる道"はあるのか?
そんなの、分からない。
だけど、戦わなければ、本当に終わる。
(……まだ死ぬわけには)
私は、足を踏み込んだ。
私は足を踏み込み、剣を握りしめる。
だが、全身を襲うこの感覚は何だ?
心臓を握り潰されるような圧迫感。
吐き気すら覚えるほどの恐怖。
(……こんなの、今まで感じたことがない)
いくら強敵と戦ったことがあるとはいえ、ここまで"勝ち筋"が見えない戦いは初めてだった。
《剣聖》を発動しても、ダイルの動きが見えない。
反応速度が向上しているはずなのに、彼の拳が"いつの間にか"私に叩き込まれていた。
(……私のスキルが通用してない?)
「……へぇ、まだやるか?」
ダイルがニヤリと笑う。
私の震える手を見て、心底楽しそうに嗤っている。
私がこのまま無様に膝をつくのを待っているかのように。
「うるさいですわ……!」
私は剣を構え直す。
全力でスキルを使って、この男の"隙"を探る。
どこかに、攻略できる糸口があるはず──!
「……いいぜ、お嬢ちゃん。こっちも少し本気を出してやる」
瞬間、空気が歪んだ。
ダイルの周囲が"黒"に塗りつぶされる。
それは影?いや、違う……
まるで、大地そのものが"怒り"によって蝕まれたかのような、禍々しい気配。
「……っ!?」
体が動かない。
いや、動けない──!!
「リリアナ、下がれ!!」
父の叫びが聞こえた瞬間、ダイルが拳を振るった。
その一撃が、"音"を置き去りにしながら私へと迫る。
(避けなきゃ──!!)
私は直感で横へ飛ぶ。
だが、それでも間に合わなかった。
「がぁっ……!!」
衝撃。
殴られた瞬間、全身の骨が軋む音がした。
次の瞬間、私は競技場の端まで吹き飛ばされ、地面を転がった。
(……っ、痛……ッ!)
息が詰まる。
肺に空気が入らない。
全身が焼けるように熱い。
「……おいおい、お嬢ちゃん。もうボロボロじゃねぇか。期待させんじゃねぇよ」
ダイルの声が聞こえる。首を鳴らしながら。
視界がぐらつく中、彼の姿だけがくっきりと映っている。
(……嘘でしょ……?)
私は気づく。
ダイルは、一切ダメージを受けていない。
私の攻撃はまだ何も通っていない。
なのに、私はもう──立ち上がることさえ辛い状態に追い込まれている。
「くっ……!」
それでも、私は剣を杖代わりにしながら立ち上がる。
諦めるわけにはいかない。
ここで倒れたら、"終わる"んだから……!
「……しぶてぇな。まぁ、そっちの方が"楽しめる"がよ」
ダイルが、不気味に笑う。
(まだ……終わらせない……!)
私は、最後の力を振り絞り、剣を構えた──。
──だが、その瞬間、私は見てしまった。
目の前で、父が"膝をつく"のを。




