第三十八話 「血塗られた終焉」
──血の匂いが、室内に充満する。
アルフォードの身体が、力なく崩れ落ちる。
その瞬間、時間が止まったかのような錯覚に陥る。
長年仕えてきた忠実な執事が、冷たい床に沈み込む光景を、アレクシスはただ呆然と見つめていた。
あの、どこまでも冷静で、どこまでも知的で、どこまでも"自分のためだけに"働いてきた執事が。
自分を支えていた存在が。
今、紅い海の中に沈んでいく。
「ば、バカな!?アルフォード!!立て!!お前は僕の駒だろう!!?立て!立てよおおおおおおアルーーーーーッ!!!」
アレクシスの絶叫が、虚しく響く。
だが、倒れた老人は、もう答えない。
その瞳は虚空を見つめ、何かを探すように開かれたまま。
けれど、もう二度と、焦点が合うことはない。
口はわずかに開き、そこから漏れる息は、もう──ない。
その手は、自分の主に向かって伸ばされていた。
まるで最後の最後まで、彼を助けようとしていたかのように。
「う……そだろ……?」
アレクシスの顔が、血の気を失う。
その手が震え、冷たい床に突き立てられる。
鉄の匂いが、鼻腔を焼く。
じわじわと広がる血溜まりが、アレクシスの膝元まで迫る。
──終わった。
リリアナは、膝をついた。
全身が軋むような疲労に襲われる。
気が張っていたせいで気付かなかったが、無意識のうちにずっと身体に力を込め続けていたようだ。
「……終わりよ」
呟く声に、余韻が滲む。
ゆっくりと息を吐き、剣を構えた。
アレクシスの喉元に、鋭い刃を突きつける。
薄い肌に冷たい鋼が触れた瞬間、彼の全身がビクリと震えた。
「くっ…何故だ。何故僕がこんな目に!僕は王太子だ!こんな……こんなことが許される訳が無い!!!」
彼の目は血走り、口元は苦悶に歪んでいる。
あれほど尊大だった態度は見る影もない。
ただの"敗者"が、許しを請うようにわめき散らしていた。
(──情けない)
かつて、彼はリリアナを"弱い"と蔑み、笑った。
しかし、今目の前にいるのは"弱い男"だった。
「僕を殺せば、お前はこの国にはもう居られなくなるぞっ!?それでもいいのか!」
捨て台詞のように吐き捨てた言葉。
しかし、リリアナの心に、一片の揺らぎも生まれなかった。
「……わたし、この国の名前知らないし」
アレクシスの表情が凍りついた。
「……は?」
リリアナは、どこか遠い目をしながら言葉を続ける。
「あなたの言葉で少しリリアナ……彼女の事を理解できた気がする。記憶も少し戻ってきた。その上で彼女から最後に伝言があるそうよ」
「な、何を……っ!?まさか……リ……リアナ?君、なのかい?」
アレクシスの目には二人の影が見えた。
一人は知らない者。
もう一人は──自分が初めて興味を持った少女。
今のリリアナと、かつてのリリアナが重なり合う。
だが、それは"幻"だった。
目の前の彼女は、もう"彼の知るリリアナ"ではない。
「私は貴方に救われると、そう思いました。でも、でも貴方は私を見捨てましたわっ!」
「──っ!?」
アレクシスの顔が驚愕に染まる。
「あの日から私は父様の言いつけ通り剣を振り続けましたわ。どれだけ痣が出来ようと、血が出ようと、お父様は容赦なかったですわ。貴方が助けてくれればこんな人生にはならなかった!」
「ち、違うっ!誤解している!僕は君を──」
「愛していましたか?」
リリアナの瞳が、アレクシスの奥底を覗き込むように問いかける。
「……何?」
「私を愛していたかと聞いているのです、王太子殿下」
アレクシスはその問いに、答えられなかった。
言葉が出ない。
彼は、自分が何を望んでいたのかを考えようとした。
しかし、彼の頭には何も出てこない。
「……そう、それが答えです。貴方は私を愛してなどいないのです。貴方が拒んだ。貴方が私を拒み、この身と心を強くさせたのです」
リリアナは、冷たく言い放つ。
「アレクシス王太子殿下、リリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢が命じます。もうこれ以上、私に関わらないで下さいませ」
その言葉が、アレクシスの胸を抉った。
「……違う、それは偽物の言葉だ!君の言葉じゃないっ!!」
「いいえ、私の……私達の言葉よ」
アレクシスの顔が歪み、叫びが混じる。
彼は狂ったように頭を抱える。
しかし──リリアナは、容赦なく剣を突きつけた。
「これ以上私に関わるのなら、この場で切りますわ」
鋭い冷気を帯びた声。
アレクシスは反射的に身を竦ませる。
「ひっ!!?」
「私、もう既に一人殺めていますのよ?貴方が放った者をね」
「……っ」
「だから、もう一人殺めるくらい変わらないわ。大切な人の為なら殺す選択肢もあると。そう覚悟を決めてここに来たんだから」
リリアナはアレクシスの喉元から頬に向かって、剣先をなぞる。
彼の息が乱れ、汗が頬を流れ落ちる。
「クソッ……僕が……僕がこんなところで……!」
(この女は本気だ。本気で僕を殺そうとしている!!)
アレクシスは、窓の方へと目を向けた。
逃げ道を探るように──。
「死ねないっ!!僕はこんなところで死んではならない!偉大な存在なんだあああああああああああああああああっ!!!」
アレクシスは窓へと向かって全力で駆け出した。
「ちょっとま──」
「ああああああああああああああああああああっ!!!」
絶叫が響き渡る。
彼の身体が、夜の闇へと飛び込んでいった。
そして。
──ドンッ!!
鈍い音が、地面に響き渡る。
内臓が圧し潰され、骨が折れ、筋肉が裂ける音が夜の静寂に溶け込んでいく。
誰もが息を呑む。
リリアナも、思わず剣を下ろした。
窓の外を覗き込むと、そこには地面に横たわるアレクシスの姿があった。
彼の身体はあり得ない方向に折れ曲がり、血の海が地面を染めている。
片腕は原型を留めておらず、地面に叩きつけられた衝撃で 、
目は見開かれたまま、口から血が泡のように溢れ出している。
「…………ようやく終わった」
リリアナは、呟く。
膝が崩れ落ちそうになるのを堪えながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
もう終わったのだ。
アレクシス・フォン・ルクセリアは──"敗北者"となった。
彼がどれだけ王の座に固執しようと、どれだけ"選ばれた存在"であることを喚こうと、
彼は"運命"によって見捨てられたのだ。
否、"彼自身の選択"によって。
王となる資格がない男が、王として在り続けられるはずがない。
「……本当に、終わったのね」
リリアナは剣を鞘に収めた。
冷たい夜風が、髪を揺らす。
戦場の名残を残す宿の一室で、リリアナはしばし、目を閉じた。
静寂の中、遠くで雪が降り始めていた──。




