気づいて
気づいてくれますか
もう限界の、平気な顔した誰かを
「君はどうして生きているんだい。」
■は私にそう問うた。しかし私にはそれを答えることはできぬ。どうしたってできぬ理由があった。答えぬ私に構わず、■はまた別のことを問うた。
「どうして皆は平気で人を傷つけるのだ。」
づくり、と胸が痛む感覚がした。ぐっ、と胸を押さえれば、■はその手を包むかのように合わせてくる。ふと目を見れば、黒く光をうつさぬというのに、私の姿はうつしていた。その瞳が不思議と愛おしくて、手を伸ばしてしまう。しかしその手は■にとられてしまい、腕を捲られる。すれば傷ついた腕が露になり、■はそっと頬ずる。
「この傷は、君が頑張った証拠だ。誰にだって否定する権利などない。そうだろう。」
伏せられた黒い眼差しを見つめていれば、投げかけられる。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。そう口籠れば呆れたように■は息を吐く。きっと呆れたのだ。はっきりと物言わぬ自分に。そう思うと自然と身体が鉛のように重くなり、心がふわりと軽くなる。思考が唐突に纏まらなくなる。
「こうなってしまったのは、社会のせいだ。」
きっぱりとそう言う■の眼差しは光をうつさぬ黒の瞳は虚空を睨む。振り向こうとすれば力ずくで止められ、耳をすませば塞がれる。どうしたのだろうと見れば、優しく微笑む■がいる。何かを言っているようだが、■の声が聞こえない。手を伸ばしても■はそれをそっと払い、外へと向かってしまう。いやだ。いやだ。いかないで。口から溢れ出した言葉は止まないことが無い。
しかしそれは■に届くまでもなく、扉は閉められた。
どれだけの時が過ぎたか。暗い部屋の中、ただ一人床に寝そべる。■は帰ってこず、ただ一人部屋に吐瀉物が転がる。汚い部屋の中、ただただ茫然と虚空を見つめるが、外からは怒声が聞こえてくる。あれしろ。こうしろ。どうしろ。その声に応えようと立ち上がるも、数歩歩いただけで玉の汗が噴き出る。鏡に映る自分を見て、失笑する。自分はいつからこうだったか。いつのまにこうなってしまったのか。どうにもわからぬ。
大好きな人は死に、母の不倫相手に怒鳴られ、友人は死に、親友に裏切られ……己の過去を振り返るたびに笑いが込みあがる。いったい何人がこのような経験をしたことがあるのだろうか。くつくつと笑えば、小さく外から声が聞こえる。
「笑うな。笑い事でないぞ。」
強く愛らしい声。しかしそれは部屋に響くことは無い。何せ響くような設計をしていないのだ。その声に「私は大丈夫だよ」と笑いかければ、息をのむ音がする。まるで言葉を飲み込むような、そんな音。けれど気づかぬふりをして、気づいてはいかぬと知らんぷりをする。ふらり、ふらりと出歩くことが嫌いで、けれど心配してもらえると知ってしまったから、ふらりふらりと足が動く。駄目だ、いくな、と誰かが言っている気もするが、聞こえぬ、見えぬ。
暗くてさみしい部屋には届かぬ。
「死なないでね」
不安に揺れた優しい声。しかしそれは小さすぎてもはや聞こえぬ。ゆれて、ゆれて、坂の上に立ってしまえるほどに。水辺に立てば立つほどにひかれる想いを引きずって生きている理由は君たちだというのに。君たちが忘れてくれない限りはまだ死ねぬ。存在ごと消えられればな、となんど思ったことか。そばにいてくれぬのなら、愛してくれぬのなら、見てくれぬのなら、私に価値などない。そうだろう。そうだろう。だって、皆がそう言う。私に価値などない、皆と同じことできぬ私はおかしい、普通ができぬ私は普通ではないと。いつから普通はできたのだろう。友人に問うても哲学的だと返される。にこ、にこ、と笑えば笑うほど、声は不安に揺れる。しかし私には聞こえぬ、見えぬ。
暗くてさみしい部屋には届かぬのだ。
「我慢するな」
強く優しい声。強く響くその音が大きくて、頭が割れそうだ。我慢、我慢?するなと言うか。しなければ異端とはじかれるというのに、我慢せよと抑圧されるというのに、我慢するなと。痛みから漏れる言葉は鋭利で、喉を傷つけながら外へ吐き出され、行き場のない憤りを乗せて足元へと転がり落ちる。嗚呼、苦しい。苦しい。誰も聞き届けぬこの声の行先は何なのだろう。
聞いてくれと呟いても誰もが無視をする。
こうして俯瞰してみると、どうしてかアレが大して可哀想とは思えない。
むしろ、なぜ生きているのかと疑問が湧いてくる。
苦しい?痛い?なぜ死なない。死ねないから、死にたくないから、怖いから。
恐怖に支配され、足がすくんで動かなくなって、死にたい欲に動かされなければ死にに行くことすら叶わぬ。人を恐れ家に籠れど帰る者に怯えてばかり。音に敏感になって、静かな場を好むようになったというのにいざ無音になれば寂しいと音を求める。
きっと人はこのような状態をメンヘラと呼ぶのだろう。
しかしそれがなんだ。それは悪いことなのだろうか。
メンヘラが産まれるということは、メンヘラが産まれるような環境が巣くっているということだというのに誰も気づかぬまま上辺を救って気味悪がる。救ってほしいと望んでも、皆気味悪がって身を引いていく。
それに、なんの生産性があるのだろうか。