4 歯車
「歯車」は芥川が死ぬ前に書いた作品である。この作品に関してはもうそれほど言いたい事もない。
「トロッコ」においては、良平の目の前に微かに道が見えていた。細々と断続する道があった。しかし、その道は閉ざされた。芥川は死の世界に入り込んだ。
「しかし光のない暗もあるでしょう。」
「光のない暗とは?」
僕は黙るよりほかはなかつた。
「トロッコ」では見えていた道がもはや消えているのが、こうした箇所に明瞭になっている。「河童」においても同じだ。「河童」では倒錯した世界が現れている。語り手は狂人であり、河童の世界について語る。彼は既に死の世界、狂気の世界に入り込んでいる。
だが、ここで注釈が必要となるだろう。芥川が気が狂った、といえば、人にはそれは芥川が正常の世界から離脱した、としか見えぬであろうが、実際には、芥川には正常の世界が気の狂った人々の世界に見えた。そこまで自分自身を押して進んで行った。そうでなければ「河童」のような作品は出てこない。
「歯車」においては、作者とほとんどイコールの「僕」が様々な事物に死の予感を読み取っていく。それだけが作品の構成になっている。「だれか僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」という悲痛な叫び声で作品は締められる。
私は、文学的価値という意味だけならば、「歯車」が芥川作品中一番だと思う。そこでは作者は、「僕」という主体をはっきり掴んでいるからだが、この「僕」を押して進んでいく事は芥川にはもはや不可能だった。それでこの作品が絶筆という事になる。
そもそも、芥川が掴んだ「僕」を押して、広げていけるような土壌が日本にあるのか、そのような精神的態度が果たしてこの国で許されているのか…そんな不吉な予感も起こらない事はない(私は今自分自身を見ている)。そうした事が不可能だったからこそ、芥川は自死したのではないか。「歯車」が巨大な知性人の作品ではなく、神経質な、線の細い男の独白にしかなりえなかったのは、作者の才能に帰せられるのかどうか。私にはそれが疑問だ。最も、こうした事は文芸批評の範疇を超えるだろう…。
作中、「僕」が「暗夜行路」を読んで涙を流す場面がある。芥川は志賀直哉を尊敬していた。この事実は、芥川が自身を痩せた、骨格だけの知的形骸だと感じていた証左になるのではないか。日本的土壌において、志賀直哉は「理想」として現れる。なぜなら、日本における理想とは自然的なものだからだ。
しかし自然から離反した知的構築…その伝統がか弱い社会において、芥川が自分の文学を進めていくのは辛い事だったに違いない。彼の辛さの裏側には志賀直哉の自然があった。しかし、志賀直哉が一体なんであろうか。我々が普遍的な文学を夢見るにあたって、志賀直哉に対しては一顧だにしないだろう。だが、この国で知性を押していこうとする人間は、自分が寒空の中で裸で立っているのに気づく。その時、振り返れば志賀直哉的存在が懐かしくも、暖かい自然物として見えてくる。芥川は自分はそうなれない事、また真にはそれを望んでいないのを知っていながらも、それを望んでいるような心の態勢を取った。そうする事によって、地獄の業火に突っ込んでいく自分の心を少しでも安心させようとしていたのだ。
「歯車」に現れているのは、肉の削げ落ちた、知的骨格だけの、風前の灯の男である。しかし、何が彼をここまで思いつめたのかという事に思い当たる時、一体、我々の近代は何をしたのかという疑問に思い当たるだろう。芥川がバルザック的な豊穣さから全く見放されているとは、彼がこの国の土壌にない豊穣さを自ら望んだからではないのか。知的構築はこの世界において全く疎外されているが、それを進んでいく先には彼のような神経質な、痩せ細っていく死以外は待っていない。
栄養が取れなければ動物は死ぬが、精神もまた栄養を摂取できなければ死ぬに違いない。丸善から取り寄せた洋書だけを頼りに歩くのは、貧しい食料でどこまでも歩き通そうという覚悟を決めるようなものだ。私は芥川が演じた悲劇は未だに解決されていないと思う。大衆と物質主義が日本的自然と融合する時、この社会が殺すのはまず、芥川のような人物だろう。芥川賞は芥川龍之介のような人物を殺すにあたって「役には立つ」だろう。私は芥川の最後は、昔の文豪の演じたドラマとだけには思えない。それは現在形の問題だ。
そうした中でも、新たな芥川は痩せ細った体で歩いていくだろう。「トロッコ」では見えていた道が「歯車」で閉ざされていく、それがわかっていても彼は歩いていくだろう。芥川龍之介はそういう意味で現在的でありうるだろう。…あるいは私は芥川をあまりにも今に引きつけて読んだのかもしれないが、どうも他人事には思われない。しかし芥川の「ぼんやりした不安」が推理小説の動機を探るような興味で詮議されているのを見る時、この社会における知性の演じる劇は昔と大して変わっていないと思わざるを得ない。