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3 トロッコ  


 「トロッコ」は少年時の記憶をテーマにしている。これは芥川最良の筆で書かれた、と言っていいだろう。個人的には一番好きな作品だ。

 

 吉本隆明は優れた文学作品は、「これは自分にだけしかわからない」という思いを万人に抱かせると言っていた。「トロッコ」は正にそうした作品であって、誰しもが読むと少年時(少女にも少年の記憶があるだろうか?ーーあると言いたいがーー)にこんな風景があったような気がする。しかし、我々はそれを日常の煩瑣に埋もれさせて忘れてしまう。

 

 風景とは、八才の少年、良平が見たものだ。良平は工事で使うトロッコを押してみたいと思っている。ある時、機を得て、工事現場の二人の青年と共にトロッコを押していく。上りには押し、下りには乗っていく。

 

 我々ーー馬鹿な餓鬼だった我々が過去に埋蔵している記憶が刺激されるかのようだ…。私は少年時、犬に追いかけられて逃げた記憶を思い起こした。近所の公園の犬に追いかけられ、必死に走って家まで逃げた。家までの道は、大人になってから考えればごく短い距離だったが、少年だった私にはとてつもなく長い道だった。家について、母親に泣きながら訴えたが、母親はキョトンとしていた。これは私以外には誰も記憶している事のない事実だろう。それは私の中の風景となって、脳という名の水槽の底に沈殿している…。

 

 良平もまた同じように、トロッコであまりにも遠くへ行き過ぎた為にべそをかいて家まで帰ってくる。私の記憶がそうであるように、大人になって見聞すれば、その距離は案外短いのかもしれない。少年にとっての広い世界は大人になってみると、手のひらに収まるものになっているのはよくある事だ。

 

 良平は喘ぎ喘ぎ家に帰ってくる。それは少年時の冒険であり、良平にとっては大切な記憶である。彼のまわりの人間、工事現場で働く青年や、家族にとっては、良平の帰還はほんの些細なエピソードでしかない。他人から見れば何でもないものだが、本人にとってはあまりにも大切なものである。それが大切なものである為には、他人とおいそれと共有できないものだという秘密を包含している必要がある。

 

 最後の段落では、二十六になった良平に過去の記憶が浮かび上がるシーンが描かれる。ここには芥川の天才が圧縮されているので、全文挙げさせもらおう。ちなみに、他の作家でも、少年時の記憶についてこのように巧みに描けるかもしれないが、最後の転換は芥川以外には不可能であると思う。従ってここに芥川の個性もあるわけだ。

 

  「良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………」


 ここで、細い道が一筋続いているという描写は、形而上的な段階に移行している、という点に注意する必要がある。文学は視覚だけではなく、心の中の像を呼び起こす。そうした描写が、我々の心に深く反響して、それが様々な具体物ーー即ち記憶であるとかエピソード、または目の前にある物象や色調、そうしたものに波が広がっていくように波及していく。そのように、心に影響する像がここでは鮮明に浮かんでいる。

 

 結論から言えば、この最後に一筋続いている道とは、芥川にとっての「希望」だった。五位が抱いていた「芋粥」と同じである。

 

 良平は、校正の筆を握り、過労に疲れ、少年時の記憶を思い出す。そこにおける「道」を思い出す。それは芥川自身にとっての道であり同時に、

 

  「全然何の理由もないのに?」

 

 という自問は芥川自身の問いでもある。この問いは、芥川が文章を書きながらふと心に浮かんできた一文であるように感じる。小説そのものは三人称視点で、良平という一人物に対して作者が視線を注いでいるが、最後の段階においては、その視線は良平の内部に潜り、そういう言い方をすれば、勢いが強すぎて、自分自身に跳ね返ってきて現れたものだ。この問いは芥川龍之介の底にある問いであるが、むしろ良平の方から芥川の問いに達した言葉だ、と言っていいかもしれない。

 

 塵労に疲れた男にも一筋の希望がある、とは芥川自身の姿を映している。しかし、芥川は良平という人物を作り、そこに彼の中にあるものを映し出している。そうする事により、小説という間接表現が現れ、良平は「私達の物」となる。ここに間接表現としての小説フィクションの醍醐味がある。

 

 確かに、良平の希望は芥川自身の希望であったろうが、それが我々の希望になる為には、一度、良平の希望になるという媒介作用が必要だった。良平から見た一本の道は、あくまでも良平のものである。我々はその姿を見て、「トロッコ」という作品を我々の希望とする事が許される。我々は疲労色濃い状況にいて、良平の姿を思い起こす。これは作家の生な言葉という伝達方法、例えばエッセイという形では不可能だろう。良平は、我々の心の中にいる、と我々は主張する事ができる。しかしそれは芥川龍之介が作ったという事を否定するものではない。

 

 私は先に「全然理由もないのに?」という自問は、芥川の問いでもあると言った。これは、芥川の意識の上っ面で所有している問いではない、と言いたいと思っている。彼の心の底にある問いが、良平と「共有された」と言った方がいいかもしれない。それは、我々の問いでもある。「全然理由もないのに?」と我々もふと問う。それは希望が意識より先に現れた事に対する問いである。我々の心の奥から発せられる驚きである。我々が全く希望などないと思っていても、肉体がまだ諦めていない時に意識が発する問いである。これは深い意識の底から出てくるものであり、しかしそれ以上に深く眠っていた記憶が思いがけず目の前に現れた際に発せられる反応である。

 

 そのような意識の情景を芥川はうまく描ききった。「舞踏会」同様、このスタイルは芥川にとって得意なものだったろう。「トロッコ」では心の底に誰もが秘めている風景が見事に描写されている。しかし、見ればわかるように、この作品は周囲が暗い色調で彩られている。だからかえって中央にある情景は薄明かりの中で綺麗に浮かんでくる。これは、我々が過去を思い出す時の一般的感覚かもしれぬが、それが作品に現れている事によって、我々は自分の心と対照させながら、この作品を愛する事ができる。つまる所、この作品には優れた文学作品が往々にしてそうであるように、我々自身の心の深部が薄明かりの中で一つの情景として見事に照らし出されている。

 

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