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2 「芋粥」    


 「芋粥」は有名な作品だ。位が低く身なりもみすぼらしい下級侍の「五位」は、普段から周囲に馬鹿にされて生きていた。しかし彼は密かに、芋粥を心ゆくまで食べてみたいという願望を抱いていた。芋粥は当時においてはめったに食べられないご馳走だった。

 

 ある日、高貴な客人を招いての食事会があった。五位も同席するのだが、芋粥を心ゆくまで食べたいという気持ちを、上級武士の利仁に知られてしまう。利仁は笑いながら、今度、五位に芋粥を心ゆくまで食べさせてやろうと約束する。五位は訝しげに思いつつ承諾する。

 

 約束の日が来て、五位は利人に馬で連れられていく。五位はすぐ近くだろうと思っていたが、実際には敦賀までの長旅だった。当時だから野盗などが出て危険である。狼狽する五位を利仁はあざ笑い、「自分がいれば百人力」だと言う。

 

 道中で利仁は狐を使者に見立てて、迎えを用意するよう言付けをする。狐はあたかも使者であるかのように走り去るが、おそらく、利仁の芝居だったのだろう。五位をコケにする為の芝居。しかし、純朴な五位は狐をも使いこなす利仁に感嘆する。

 

 敦賀の屋敷について、利仁は約束通り、大量の芋粥を五位の目の前に出す。「さあ食べろ」と言う利仁を前に、五位は食欲が出ない。少ししか食べない内に「もういらない」と言う。利仁は驚くが、残った芋粥を、それを見ていた狐に食わせてやる。ここにも利仁の五位への軽蔑が見られる。人間にとっての願望の結晶だった芋粥を獣に惜しげもなく食べさせるのである。

 

 五位は以前の自分を思い出す。かつて自分は芋粥を飽くまでも食べたいという願望を抱いて、それを拠り所にして周囲からの軽蔑に耐えていた。しかしそれが現実化として目の前に、しかもあれほど軽蔑的な形で出されては、もう彼の中の拠り所も失われてしまった。そこで五位は冷える朝の中で、銀の器にくしゃみをする事しかできないのである。

 

 芥川はこの作品を読み解くキーとなる言葉もところどころ挿入している。それを引用してみよう。

 

  「人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚をわらふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。」

 

  「出来る事なら、突然何か故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。」

 

  「憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。」


 こうした言葉はキーワードのようにばら撒かれている。ここに芥川の作家としての素顔・技術が覗いている。今、それを考えてみよう。

 

 ※

 

 「舞踏会」の章で言った事と、基本は同じである。本来は特筆すべきでない、普通の人物の中にも非凡なものがあると芥川は見ている。晩年の自伝的作品は、彼が他者の深層に潜ませていた彼自身が表に現れてきたとも考えられる。ここでも五位という人物の中に芥川が、自身の資質や想いを忍び込ませている。

 

 芥川は五位という人物の中の隠されたプライドを注視している。実際には欲望の徒である我々は、欲望の対象を差し出されたら、さっさとそれを手に入れようとするのではないだろうか? しかし、人間は物ではなく精神であるという文学の精髄を、芥川はどこかで学んだ。それを自分の生自体に適用しようとしたのだろう。そういう意味においては、五位は芥川の分身と言える。

 

 五位は、芋粥を拒否する。屈辱を受けたからだ。しかし、それまでだって彼は屈辱を受け続けてきたではないか。それまでと今回はどう違うのか。

 

 それまでの彼は、三つ目の引用文にあるように、芋粥を心ゆくまで食べてみたいという願望を抱いていた。その願望が次第に彼の中で「理想」にまで結晶化されたのだろう。もちろん、そんな彼を嘲笑うのは容易い。芋粥を心ゆくまで食べたいなどとは馬鹿げた欲望だと。利仁は大いに嘲笑っている。物質的利得をありがたがる現代の人々もきっと笑うだろう。彼らには芋粥は単なる物質、食料でしかないからだ。

 

 しかし五位にとってそれはかけがえのない願望だった。彼の生そのものを支えていくあるものだった。ところが、それは利仁によって乱暴な形で目の前に出されてしまう。するとそれはもう、彼の中にあったものとは違うものになってしまう。心の中にあった芋粥は、食物としての芋粥となってしまう。それは意味が代わる事であり、五位は本能的にそれが食べられないのを察する。

 

 二つ目の引用文「出来る事なら~」以下は、そうした五位の精神を示す意味でわかりやすい。一旦、故障が起きて、また飲めるという風になれば、その障害を打ち破るという意味が芋粥という物質にも与えられる。そうすれば、それはただの食物とは違う意味が与えられる。オリンピックの金メダルが、ただの物質でないのは、そこに至るまでの過程があったからだ。過程がはずされてしまえば、ただの物でしかない。物に意味はない、とあさましい人間の五位もよく知っているのである。

 

 ちなみに五位が位の低い、あさましい人間だという点が強調されているのは、その反対物である所の彼の中の理想を際立たせる為だろう。芥川は他の作品でもこういう手法を使っている。「蜜柑」においては、語り手の絶望が強調される事により、その反対のオレンジ色の蜜柑が明るい意味を纏って鮮やかに現れた。こういう対比的な方法において、芥川は明と暗を使って何かを伝えようとしている。

 

 五位は芋粥を拒否し、狐が平らげる。狐が芋粥を食べるというのは五位への軽蔑の表現であるが、五位はそれに対して反応しない。利仁もまた決定的に五位を馬鹿にするが、それに対してもぼんやりとしている。

 

 しかし五位は今や、軽蔑されても、拠り所がなくなった存在だ。彼にとっての芋粥を食べたいという夢は具現化されて、目の前にある。それは現実になってしまい、その為に夢としての価値はなくなった。理想は現実に犯されたのである。五位にはもはや何もない。彼は寒空の中でくしゃみをするだけだ。

 

 …芥川龍之介にとっての芸術は、五位にとっての芋粥だったのだろう。他人からはつまらないと思われるものの中に価値を見出す事。それは果たしてくだらない事だろうか? 当時は「文学は男子一生の事業か」という疑問が本気で提出されていた。文学をやってもたいして金など得られない。漱石と鴎外は、文学と国家の間で揺れ、それぞれ違う道を選んだ。文学を捨てた方がよっぽど「真っ当」だったろう。文学は社会的な栄達に道を通じていなかった。(芥川の名を冠する賞が『純文学』を志す人間にとっての唯一の栄達の道となったのは皮肉な事である)

 

 芥川は当時の常識に則って、結婚し、子供も作った。夢多き詩人が結婚して子供を持ち、絶えず生活について思いを巡らせねばならなかったのはさぞ辛かっただろう。彼の苦悩は生活と夢との間に揺れ動いた。

 

 文学を捨てきれなかった芥川は自分の理想を他者の姿の中に埋め込む術を見つけた。五位の中にある欲望は他人から見れば馬鹿馬鹿しいものだが、本人にとっては何よりも大切なものだ。しかしそれもやがて奪われる夢だと芥川は知っていた。…私は、芸術家のインスピレーションというのは、時間と空間を脳髄に圧縮したものだと考えている。普通人にとっては絶えず意識は外界に開かれ、現在だけを生き、時間も空間も前後に拡散される為に、それらを総合的に捉える事はできない。芸術家のインスピレーションは、時間と空間を圧縮し、一つの像へと結合させる。それが彼らの作品を、普遍的な価値を持つものにする。

 

 芥川が自身の運命を早い段階から予知していたとしても驚く事はない。インスピレーションは時間と空間を圧縮する、と言ったが、それは己の運命の先を見据えているという事だ。自身の破滅が自分の作品に描き出されるとは、優れた作家にとっては普通の事柄だ。それは時間の「先取り」と言える。今だけを生きている人間に文学がわからぬのは当然だろう。彼らには時間と空間が圧縮された「表現」は彼方にある。彼らは断片であるが故に総合を理解できない。

 

 五位の希望は芥川の希望でもある。他人から見れば些細なものかもしれないが、本人にとっては大切な「理想」に殉じて死なねばならぬ事もある。芥川はそれをよくわかっていた。芥川という人は優しく、気遣いの出来る男だったが、彼が時折吐く、鋭い気性の言葉は、彼の内奥の理想に他人の手が触れたと感じられた時に発せられたものだった。

 

 最初の引用文「人間は、時として~」はそうした言葉だ。芥川の評論で、ジュール・ヴェルヌが短編など二、三日で書き飛ばしてしまうと言っているのを説明した後、「従って彼はろくな短編を書かない」と抗弁している箇所がある。ここで芥川が見ているのはヴェルヌではなく、自分自身の手なのである。芥川は大切に、刻苦勉励して短編を仕上げていた。芸術家としての苦心を彼は、「二、三日で書き飛ば」すヴェルヌに笑われたような気がした。だから思わず鋭い言葉を吐いたのだ。

 

 「人間は、時として~」も同じ趣旨、同じ魂の傾向を持った文章だ。優しい芥川が思わず吐いた本音。ここで芥川は五位に同情的である。五位が持っていた「欲望」は芥川の中にあった理想の変形だった。芥川は他者の中に自分を見出していた。それは「芋粥」という作品に結実した。

 

 フローベールは「ボヴァリー夫人は私である」と言ったが、これは優れた作家がみんな心中で持っている言葉ではないのか。…しかし、作品という形で客観化された魂のパターンは、もう作者だけのものではない。登場人物だけのものでもない。それはもっと客観的な、自然に生えている花が誰のものでもなく一つの美としての形象を持っているように、万人に開かれた『私』であるように思われる。批評家らが作品の背後に見つけた「私」から、実は作家は出発した。だから我々が見るのはやはり芥川ではなく五位なのである。そこに小説というものの形象フォルムがある。

 


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