1 「舞踏会」
芥川に「舞踏会」という短編がある。名作だと思う。構造的には、「トロッコ」と同じだ。「トロッコ」も名作なので、このスタイルは芥川の魂の座にぴったり合うのだろう。
どちらも同じ構造だというのは、最初にあるエピソードが紹介され、そのエピソードが、後年の主人物によって振り返られるという所だ。過去が、懐かしく振り返られる。過去は、未来と同じく「今」ではないものである。現在に耽溺している人にはわからぬであろうが、過去を思い出すというのは一つの希望であり、「今ここ」とは違う場所へ行きたいという願望の表明でもある。
「舞踏会」のあらすじを言うと、令嬢の明子が鹿鳴館に舞踏会に出る。西洋かぶれの時代でもあったから、自分達に美はないと思い込み、西洋の方に美はあると思いこむ。そんな様子も描かれているが、それは本質ではない。
明子はフランスの海軍将校と出会い、踊り、会話を交わす。それは人工的に作られた、刹那的な美の形象であり、新参者の日本人にはまばゆいばかりの時間だが、その背後を知っている海軍将校にはそうではない。「パリの舞踏会に行ってみたい」と言う明子に、次のように言う。
「巴里ばかりではありません。舞踏会は何処でも同じ事です。」
海軍将校の顔には皮肉な微笑が浮かんでいる。明子はその意味に気づかない。
その後、二人は花火を見る。夜空に目をやると消えそうな花火が浮かんでいた。ここで芥川は唐突な一行を挿入する。
明子には何故かその花火が、ほとんど悲しい気を起させるほどそれほど美しく思われた。
私はこの箇所は、芥川本人の心性を、登場人物の明子に託した場面だと考えている。だからこそ、不意の感情の闖入は明子の視点からは「何故か」と感じられる。明子が普通の令嬢ならば感じなくて良い悲しみを、芥川は自身の創作した人物の内面に彫り込んだ。ここに芥川の個性がある。
…こんな風に言うと、それは不自然な作家技巧だと人は言うかもしれない。だが、ここに天才と凡人の心理の交錯する刹那がある。凡人ーー我々がモーツァルトを聴き、ベートーヴェンを聴いて、理解したり感動できたりするのは、凡人と天才との間に分有されたものがあるからだ。しかし凡人はそれを意識して取り出し、形にする事はできない。天才はその奥深くまで、即ち自己の深い部分まで入っていき、形にして我々の目の前に提示する。その時、我々はそれが我々の中にもあったとやっと気づくのだ。
したがって、明子の奥底に、芥川が彼の深い感情を差し入れたとしても、明子という普通の人物の奥底に深い感性の流れがあり、それを掘り起こしたという風に見る事ができるだろう。この深い川の流れの箇所において、作者と登場人物は、魂という抽象物を媒介にしつつ握手しているのである。
美しく夢のように消える花火は、生の喜ばしさ、華やかさ、またすぐに消えてしまうという事で無常さを表している。明子はそれと知らずに人生を知っていた。それと意識せずに、人生とは悲しい花火であると知っていた。だが、彼女はそれを意識できるような人物ではない。そこで悲しみはふいに、彼女の外部からやってくるのだ。彼女は悲しくなる。そこに、時宜を得て、海軍将校が言う。
「私は花火の事を考えていたのです。我々の生のような花火の事を。」
まさに人生とは「生のような花火」であろう。芥川龍之介という人は一生涯、それを追い求めた。そうして彼自身花火のように散ったが、その散る様は、様々な文学作品という形象として現れた。彼は自身が一個の悲しい花火だと知っていた。彼の行く手に現れた理想は、彼の破滅をも同時に物語っていたはずだ。
芥川龍之介は自分というものをよく知っていた人である。しかし、それは暗示的にしか語れないという表現の本質もよくわかっていた。そこで彼は様々な断片を世界に撒き散らしたが、その断片から我々は芥川龍之介の魂を再構成する事ができるだろう。それは例えば「生のような花火」という一語に集約できるが、その一語の意味を深く理解するには、我々は各々、自分の魂の暗部に入っていかなければならない。




