卒業
オリヴ山記念魔法高等学校の卒業生は、わたしで最後のひとり。数多くの偉大な魔法使いを輩出してきたこのまなびやも、寄せる少子化の波には抗えず、わたしの卒業を以って廃校となる。この古びた校舎とも、もうさよなら。
全国でも最後に残った魔法科高校だったのだそうだ。どうしてこんな山梨の辺境の学校が最後まで残っていたのかはわからないけれど(どうやらとってもエライ魔法使いに由緒があるらしいとかいう話を、とっくに卒業してしまった二年上の先輩に聞いたことがある)、とにかくわたしはこの高校にとってというだけでなく、この国で最後の正規な魔法教育を受けた高校生ということになるらしかった。
だからって感傷に浸るタイプでもないのだけれど、それでも卒業式でちょっと涙ぐんでしまったのは、やっぱりすこしだけ罪悪感を感じていたからなんだろうと思う。
先生は咎めるようなことは何も言わなかったし、わたしの決断を心から応援してくれたけれど、わたしが一人前の魔女として自分の工房を開くんじゃなくて東京の大学に進学したいと言い出したときは、本当はやっぱり残念に思ったんじゃないだろうか。
魔法が嫌いなわけじゃない。むしろ大好きだった。先生が見せてくれるたくさんの驚くべき魔法の数々に、わたしは心の底から憧れた。
先生は偉大な魔女で、どんなに複雑な式の魔法でも簡単にやってみせた。魔法のことならなんだって知っているのだ。それに先生はいつだって、なによりも楽しそうに魔法を使った。おもちゃ箱をひっくり返して遊ぶ子供みたいに、先生ははしゃぎながら大鍋をかき混ぜ杖を振るって、イタズラをこっそり打ち明けるように秘密の呪文をささやいた。
そんな魔法を目の当たりにして、最初のうち、わたしはただただ驚くばかりだった。でも、教わっていくにつれて、次第に先生のやっていることがなんとなくわかるようになってきたのだ。
言ってしまうと、わたしはなかなか優秀な生徒だったと思う。知識を知りたいままに学び、見よう見まねで杖を振ったりまじないをかけたりしているうちに、だんだん自分でも先生と同じように魔法が使えるようになっていくのが嬉しかった。魔法の勉強を、それはもう夢中になって楽しんだ。
本当に、心の底から楽しかったのだ。
でも、しょうがない。
いざ現実を直視してみたときにわかるのは、どんなに勉強するのが楽しくたって、きょうび魔法は流行らないということ。どんなにごまかしてみたって、悲しいくらいにはっきりしてることだ。現代ではもう誰も、魔法の奇跡に頼ったりなんてしない。このまま魔女なんてやったって、きっと誰にも相手にされないんだろう。
今どき魔法の薬とか幸運のおまじない、空飛ぶホウキで生活できる? そんなわけない。手間ひまかけて調合した魔法薬は脱法ドラッグだなんて勘違いされて警察に睨まれるし、夜空をホウキで飛ぶのはほとんどの街の条例違反。まじないが使えるなんて知られたら気味悪がられてイジメにあうので軽々と人に言ってはいけません、なんていうのは呪術Aの教科書の最初のコラムに書いてあることだ。
もう昔ながらの伝統的なウィッチクラフトでは、現代社会でのびのび暮らしていくことなんて、とてもじゃないけどできないことなのだ。
それに、なにも人生は魔法だけじゃない。おもしろいことなんて他にもたくさんあるし、普通の大学でだって熱中できそうなことは学べる。誰にも必要とされない魔法なんかをひとりで黙々と続けるよりも、もっと楽しくお気楽に人生を謳歌できそうな道なんて、他にいくらでも、それこそ星の数ほど拓けている………気がした。
だから、しょうがないのだ。
わたしは魔女をやめて、東京の大学に行きます。つまらない考えに聞こえるかもしれないけれど、わたしなりに真剣に、進路についてちゃんと悩んだ結果だった。
小さな体育館の真ん中にひとつだけ置かれたパイプ椅子に座って、カセットテープの『仰げば尊し』を聴きながら、そんなことばっかりぐるぐると考えていた。もう決めたこと、今さら悩んでみたってなんにもならないのに。
先生は舞台の上で演台のそばに姿勢良く立って、いつもみたいににこにこと微笑んでいた。広くもない体育館が、いつもよりさみしく感じる。
卒業式の式場には、わたしと先生の二人だけだった。
壇上から名前が呼ばれると、わたしが急に立ち上がったから、椅子が音を立ててずれた。ハイと返事をしてから、制服を直して一歩を踏み出す。歩いて壇上まで登ると、先生が卒業証書を大事そうに両手で持って、わたしを待っていた。
舞台の上に敷かれた式典用の古い赤絨毯を踏むと、昨日の放課後に先生と一緒におしゃべりしながら、杖を振るってこの絨毯を敷いたことを思い出した。わたしにも、それくらいのことなら呪文を唱えずにできるようになったのだ。卒業式と大きく書かれた垂れ幕だって、先生とわたし、二人の魔法で飾り付けたのだった。
それだけじゃない。この学校のぜんぶ、廊下の雑巾掛けや、教室の黒板消しだって、わたしにとってはすべてが魔法の授業だった。わたしが空飛ぶバケツで窓を割っても、先生はいつもたまらずに笑って、わたしを叱りきれずに腹を抱えながら、杖の一振りで直してしまうのだ。
ああ、そうか。
思い返してみると、先生とわたしの二人だけの高校生活は、そんなたくさんの魔法と笑い声であふれていた。
眩しくってあたたかな毎日の中で巻き起こる、奇跡のような出来事のひとつひとつ。そういうことのすべてが、もう過去の思い出になってしまうのだと、わたしは今になってようやく気がついた。
すべてはもう戻らない、過ぎ去りし日々。
「卒業おめでとう」
おだやかでやさしい、聴き慣れた先生の声。
「先生は、知世ちゃんの先生になれて本当によかった…」
卒業証書を受け取ると、堪えきれなくて涙が溢れた。
先生の顔も、とっくに涙でぐしゃぐしゃだった。