五十嵐浜高7不思議 3
おれだってミステリーは好きだ。
そりゃ、裕美とおれじゃ比べものにならないけど。
裕美の両親も読書とミステリーが好きで、裕美の家には早川書房のクリスティー文庫全巻にホームズも翻訳違いのバージョンが揃っている。おれがポプラ社の二十面相とかルパンを読んでいる横で、裕美は東野圭吾や井上夢人や今野敏を読むような小学生だった。
「最近読んだのは『チョコレートゲーム』っ!! あ、古い本なんだけどはじめて読んだのっ。すっごいよかったっ! 近藤史恵さんの『サクリファイス』とか柴村仁さんの『プシュケの涙』もいいよね。キュンとしちゃうっ! もちろんクリスティーも大好きっ。だけどクリスティーって有名作品よりそうでもないほうになんだか名作が多いよねっ。ねっ、ねっ! だよねっ!!」
そしておれと裕美の前でマシンガントークを披露しているこの少女。同じ中学出身の高橋菜々緖さん。
意外と。
裕美と話があうんじゃないだろうか。
まあ、おれはもっぱらブルーバックスかサイエンス・アイだものな。理系の兄貴の影響で科学実験したり星を眺めたり。
「佐々木さんはこのごろどんな本を読んだっ!? 私はもうちゃんぽん!ちゃんぽん!でなんでも読んじゃう!!」
「裕美さんは、『剣客商売』を読み終えたばかりです」
「おおおおーーちゃんぽんすぐるーー!!!」
よくわからない。
しかし、こいつ。
さっきからなんでおれを無視しているんだろう。たしか突進してきたときにはおれの名前も呼んでいたと思うのだけど。
「陽向ちゃん」
裕美が言った。
「スマイル」
どうやらまた不機嫌な顔になってしまっていたようだ。
ぎぎぎぎ……。
油を差していないアンドロイドのように、陽向はぎこちなく表情筋を動かした。
「やっぱりごめんなさい、陽向ちゃん。高橋さんが不自然に顔をそらして怯えています」
「あのさ」
頬杖をついて陽向が言った。
「たしかに裕美や高橋さんほどじゃないけどさ、おれだってミステリ好きだし、けっこう読んでるんだけどな。『サクリファイス』も読んだよ。面白かった。話を振ってくれれば、それなりに反応できると思うけどなー……?」
陽向は言葉を止めた。
高橋さんがこの世の終わりのような顔をして陽向を見ているのだ。
「……どうしたの?」
「ひあっ!」
今度は一声吠えて椅子の背にしがみつく高橋さんだ。
「……」
「……」
子犬だ、怯える子犬だ……。裕美は思った。
オカメインコだ。賑やかでせわしないオカメインコだ……。陽向は思った。
「無理ですっ!」
高橋さんが叫ぶように言った。
「ヒエラルキーが極端に違う人と話すのは、まだ無理ですっ!」
おまえは何を言っているんだ。
「南野さん、運動部に入るんでしょっ! かっこいいし、モテモテだし、ぜんぜん違うっ! 残酷ですっ! ヒエラルキーど底辺の私とは違いすぎますっ!」
困る。
こういう場合、なんて言っていいのかわからない。それに。
「つまりそれは」
にっこりと裕美が微笑んだ。
「裕美さんはブスでモテないし、ヒエラルキーど底辺で話しかけやすいわけです?」
「わああああっ!?」
今ごろ気づくなよ。
「あれ?」
陽向はなにか違和感を覚えた。
頬杖をついたまま顔を動かさず、ぐるりと視野を確認する。放課後のクラスはもう陽向たちの三人だけだ。いや、もうひとりいる。
涙目で震えている高橋さんのむこうに見えるすらりとした背中。
林原詩織さんが自分の席で本を読んでいる。
林原さんも同じ中学出身。常に成績トップを争っていた秀才だ。
その彼女が県高ではなく五十嵐浜にきたのは不思議ではあるけれど、五十嵐浜も県高には及ばなくても南高と並ぶ進学校ではある。単に選択の問題なのかもしれない。新入生のわりにこの高校の事情に妙に詳しい裕美によると、新入生の春の委員長は暫定で入試の順位で決められるらしい。もちろん、この一年三組の暫定委員長は林原さんだ。
さすがに雰囲気が違う。
陽向は林原さんへの畏敬を少なからず抱いている。
後からなので確かじゃないが、林原さんが読んでいるのはブルーバックスぽい。そういえばさっきブルーバックスを頭に浮かべてしまったのは、彼女の姿を無意識に見ていたからだろう。
「私、春休みに急に思ったんです……」
ぽつり、高橋さんが言った。
陽向は高橋さんに視線を戻した。
さっきまでのハイテンションはどうしたのか、高橋さんはシュンと背中を丸めてうつむいている。
「中学のことを思い出そうとしたら、ほとんど思い出すことがないんですよ……。本読んでたってだけで……。小学校の思い出も同じようなものなんですけど……」
「はあ……」
「はあ……」
「それで、なんだか怖くなって……」
怖くなったんかい。
寂しくなったとか悲しくなったとかじゃなくて。
「私、ダメなんですかね……。今までサボってきたから。友達作るとか、仲間作るとか、思い出作るとか、もう遅いんですかね……」
えっ!
えっ!
陽向と裕美はぎょっとしてしまった。
高橋さんが泣いている。うつむいた顔から、涙がポタポタと落ちている。
「私だって友達と楽しい高校生活を送りたいですよ……。今まで経験ないからわからないけど、そんなことしてみたいですよおぉ……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待った!」
こうなっては、いくら身長を伸ばしても、ふてぶてしい表情を作れるようになってもなんの役にも立たない。
裕美がすうっと高橋さんに寄りそい、震える肩に手を添えた。
陽向はさすがに裕美だと思い、裕美がいてくれて助かったと思い、そして陽向もまた泣きたくなった。
裕美は優しい。
裕美には共感力がある。
それは――裕美も悲しみを知っているから。
そして陽向は気づいた。本を読んでいた林原さんの姿がない。
高橋さんが泣き出したのに気付いて遠慮したのだろうか。彼女も意外と気を使う。というか、きっと自分だけががさつなのだろう。そしてもうひとつ、ああと思った。さっきの違和感の正体だ。
そうだ。
なぜ彼女は、わざわざ放課後の教室に残って本を読んでいたんだろう。
高橋さんに自分のカバンと中身を確認してもらい、そのカバンは陽向が持ち、裕美が高橋さんの手を引いて三人で教室を出た。同じ中学出身だ。家も近所だろう。
高橋さんはまだときどき目をこすっている。
すでに薄暗くなり始めている廊下の向こうから、同じ一年生が歩いてきた。
長身というわけでもないのにきれいな立ち姿。
ウェーブのかかったふわりと長い髪。
派手なわりに成績もけっこういいのは知っていた。苦々しく陽向は思った。それでもなんで五十嵐浜に来るかな。進学校を選ぶにしても県高や南高に行けばちやほやしてもらえただろうに。中学時代を知っていれば、たったひとりで廊下を歩いているあんたなんて想像もできなかったよ。そうだ。ヒエラルキーというならそのヒエラルキーのトップに君臨した女王さま。
笈川真咲。
陽向は裕美の手の握り、ふたりを庇うように前に出た。
「――」
ぎくりとしてしまった。
裕美の手が冷たい。
くそ、陽向は歯を食いしばった。
すれ違うときに笈川真咲の視線がちらりと動いた。形のいい口元がにこりと笑ったようにも見えた。陽向は目を逸らし、彼女のすべてを無視しようとした。
おっつかない。
まだぜんぜんおっつかない。おれとアイツじゃ、まだこんなにも貫目が違う。陽向は裕美の冷たい手をさらに強く握り締めた。
裕美は優しい。
裕美には共感力がある。
それは――裕美にはいじめられていた悲しい経験があるから。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。