五十嵐浜高7不思議 2
「今、なんて言いましたか、陽向ちゃん」
プリントから顔をあげ、裕美が言った。
入学してまだ二日目なのに、なんだかもうずっと同じ教室で過ごしてきているような気がする。そんな感覚に戸惑う朝。朝のホームルームで配られたのは、部活動を紹介するプリントだ。次の月曜の一時間目に、大体育館で各部のデモンストレーションもあるらしい。
「部活動」
自分の手のプリントに目を落としたまま陽向が言った。
「その前です」
「おはよう」
「前に戻りすぎです。しかもそれからもう一時間以上経ってます。あ、ごまかしてますね。陽向ちゃんはごまかしてますね」
「……」
顔をそらしているが陽向の耳は真っ赤だ。
プリントを持つ手もぷるぷると震えている。
「なんでもいいじゃないか。裕美はなにか部活動やるつもりなのか? それなら――おれ――もそこに入るから……」
陽向が言った。
「『おれ』!」
「……」
「『ぼく』を素通りして、『おれ』!」
「……」
実際に裕美を驚かせた言葉は「おれさー」だった。
ホームルームを終えた藤森先生がヘラヘラと教室から出て行くと、自分の席から立ち上がり妙にふてぶてしく近づいてきて裕美の机にどかっともたれ、わざとらしくプリントを見ながら「おれさー」だ。ちなみに今日の藤森先生は酒臭くもクールミント臭くもなかったようだ。
「おれさー、裕美は部活動どうするのー」
脈絡もなければ、次の言葉にも繋がってない。
そういえば朝からおかしかったのだ。
電車の中でもなんだかそわそわしていて、話しかけてこようとしては目を逸らしていた。ずっと「おれ」と口にする機会を窺っていたのだろう。
「陽向ちゃん、高校デビューですか! それも『おれ』デビューですか! おばさんが聞いたらなんて言うか!」
「ゲラゲラ笑ってた……」
「あ、もう南野家で『おれ』デビューしてましたか……」
「親父は怒り出すし、兄貴は『ぼく』にしろとうるさいし……」
「『親父』! 『親父』デビューまでしちゃいましたか! この間まで『お父さん』でしたよね!」
「……」
「太陽ちゃんは相変わらずオタクさんですね!」
南野太陽。
陽向の兄だ。
「あいつ、『おれ』じゃいやだと泣きやがった……」
「おれッ子じゃ萌えませんからね!」
「だから!」
陽向は涙目だ。
「裕美はどこの部活動に入るんだよ!」
「陽向ちゃんは剣道部に入るんでしょう。どうして裕美さんの希望を聞くのです」
「おれ」
と陽向が言った。
あ――と、裕美は思った。
馴染んだ。なにがスイッチだったのだろう。今の一瞬で、陽向ちゃんはこの一人称に馴染んでしまった。
「剣道部には入らない。やめたんだ」
「段がとれそうだったのでしょう」
「だからやめたんだ」
陽向は机から腰を上げた。
「決めといてよ。裕美が入る部におれも入るから」
そう言った陽向ちゃんの横顔は、今まで見たこともない大人の顔で。
始まりの月は1月。
でもそれはただ、1年が始まるだけの月で。
自分や自分を取り巻くものたちが駆け出すのは4月。特に私たちは進学したのだから、今年の4月はこれからの三年間が始まる特別な4月。
身体は大きかったけど泣き虫で臆病で。
甘いものやかわいいものが大好きで。
自分をおれと呼ぶ陽向ちゃんの向こう。昔の陽向ちゃんはもういないんだ。
「それにしても」
と、裕美は腕を組んで考え込んだ。
「おれ、ですかー」
「ねえ、佐々木さんっ! どこにも入らないなら、ミステリ研究部に入らないっ!」
そして、ここにも高校デビューを試みる少女がひとり。
「あっ、私、高橋菜々緖ですっ! 同じ中学だったの、よろしくねっ! たぶん私の事なんて知らないって思うけどっ! 私、おとなしくて控えめな子だからっ! あはは、自分で言うなーっ!的なっ!?」
だれですか、あなた。
いや、高橋菜々緖さんであるのは存じあげておりますけども。
「でもねっ、でもねっ、プリント見たらミステリ研究部がないんだよっ。うわ、がーんだなあ。おかしいよね、悲しいよねっ! そうだ、それなら自分で作っちゃえーっみたいなっ!?」
中学生時代の高橋菜々緖さんの印象と言えば。
休み時間はいつもひとりで本を読んでいた地味でおとなしい人、だ。それがいったいなにがあなたに起きたというのですか。そのテンションは、その言葉遣いは。
お昼休み。
「おれ、パン買ってくるから! すぐ戻ってくるから! だから裕美も頑張ってね!」
なんだかよくわからない宣言とともに陽向は教室を飛び出していった。
裕美はバッグからお弁当を取り出した。
中学の頃は給食だったから、なんだか嬉しい。でも陽向ちゃんが戻るまで我慢ですね。
にこにこと裕美が顔を上げると、高橋菜々緖さんと目が合った。
というか、裕美が顔を上げるのを待っていたのかもしれない。目が合った瞬間、がばっ!と自分のお弁当箱を両手で持って立ち上がり、裕美へと突進してきたのだ。そして裕美の隣の席の椅子を引っぱってきて座りマシンガントークの開幕である。
「佐々木さんも読書好きだよねっ! 読書してるのよく見たもんっ! あの赤いカバーはハヤカワさんのクリスティー文庫だよねっ!」
陽向ちゃんは「おれ」といい出しますし。
この娘さんはテンションフルスロットルしちゃいますし。
裕美さんのまわりは多士済々でございますよ。そもそもつまり、このテンション娘は、朝の裕美さんと陽向ちゃんの会話を耳ダンボにして聞いていたのですねえ。
その高橋さんが、びくっとすくみ上がった。
裕美の背後、購買で買ってきたコロッケパンと牛乳パックを手に、なんなら地響きのような効果音が聞こえてきそうな雰囲気で陽向がそびえ立ったのである。早い。
「陽向ちゃん」
「なに」
「顔をもとに。高橋さんが子犬のように震えています」
陽向の顔に困惑が浮かんだ。
どうやら、その不動明王のような顔は無意識だったらしい。
「陽向ちゃん」
「なに」
「スマイル」
ぐぐっと陽向の口角が上がり、ぐぐっと眼が細められた。しかしその形の良い眉はつり上がり、眉間には皺。側頭部に青筋。目に殺意。
「陽向ちゃん」
「なに」
「無理を言ってごめんなさい」
がたっ!
真っ青な顔で高橋さんが立ち上がり、お弁当箱を手にくるっと背を向けた。
「どわっ!?」
「うわああああっ!」
「だあああ!!」
だがしかし、その場から逃げようと試みた少女はいきなり一歩目で躓き、いくつかの机を巻き込み、なにをどうしたらそうすることが出来るのだという形で激しく転がってしまったのだった。
派手だ。裕美と陽向は思った。
なんらかの神が舞い降りている少女だ。クラスメイトたちは思った。
床に両手をつき呆然としていた高橋さんだったが、すっくと立ち上がり無言のまま机と椅子を元に戻し、涙目で裕美と陽向をキッと睨んだ。
「出直してきますっ!」
死守したらしいお弁当箱を手に、高橋さんは教室を飛び出していった。
直後にまた「どあああっ!!!」という声が聞こえてきたような気がするが、聞こえなかったことにしておいてあげようと全員が思った。
今のは高橋菜々緖。
牛乳パックのストローを食いちぎるように引き離し、片手でビニールからストローを出してパックに差し、陽向は思った。
おとなしい子の筈だから大丈夫だと思ったのにな。
いきなり一日目から、あ、二日目か。二日目から裕美に絡んでくるなんて。
高橋さんがマシンガントークを繰り広げていた椅子に座る動作の中で陽向はもうひとりの同じ中学出身の生徒を確認した。
林原詩織さん。
ひとりで静かにお弁当を食べている。
彼女も秀才でクールだからこちらも大丈夫だと思っていたけど、油断しちゃいけないのかもしれない。陽向はどかっと椅子に横に座り、スラックスの長い足を投げ出した。
裕美は嬉しそうにお弁当箱のハンカチをほどいている。
「負けないぞ!」
一年棟のトイレの個室で半泣きでお弁当を食べているのは高橋菜々緖さんだ。
「栄光の高校生活3年間のために!」
「あきらめない!」
「あきらめないぞっ!」
そして放課後。
裕美の机で帰りの相談をしていた陽向と裕美のもとに、またしても高橋さんが突進してきたのだった。
「佐々木さんっ! 南野さんっ! ミステリ研究会つくらないっ!」
高橋菜々緖はへこたれない。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。