五十嵐浜高7不思議 1
春、4月10日。
朝7時。
鳴りかけた目覚まし時計を長い腕を伸ばして止め、南野陽向はベッドの上に体を起こした。
今日から高校生だ。
目覚めたばかりなのに、その眼はすでに意志的に輝いている。
「あんた、高校もそのかっこで通うつもりなの」
台所に下りてきた制服姿の陽向に、母親が溜息をついた。
「どこもおかしくない。校則通りの制服だ」
「せっかく高校生になるのにねえ」
陽向が冷蔵庫から取り出したのは牛乳の一リットルパックだ。パックの注ぎ口を開け、直接口をつけてごくごくと飲んでいく。
「銭湯のオヤジか」
腰に手を当てて牛乳を飲んでいる姿はその通りだが、さすがにそれが一リットルパックで、しかもそれを一気に飲み干すオヤジはそういないだろう。これがこの数ヶ月の陽向の朝食なのだ。
「毎日、牛乳をきらさないでいてくれるのには感謝してる」
「まえは背が高いのを嫌がってたのにな」
納豆を練っていた兄の太陽はニヤニヤ笑っている。
陽向はジロリと太陽を睨んだ。
「ひーなーたーちゃーーん」
そんな南野家の朝の食卓に聞こえてきたのは佐々木裕美の声だ。
そしてその声は、春の朝から、高校の入学式というワクワクの朝から、なにが君をそのように不機嫌にさせるのだという表情を崩さなかった南野陽向からとろけるような笑顔を引き出したのである。
「はーあーいーー」
母親はまた溜息をついた。
「その図体のどこからそんな声を出してんのよ、まったく」
真っ赤になってしまう陽向である。
今日は入学式だけなので、五十嵐浜高校前駅から出てくるのは制服も初々しい新入生ばかりだ。
この時期、この北の町では桜はまだ早い。駅の前には大きくて古そうな桜があるが、これもまだ三分咲きといったところだ。それでもやはり、桜はすでに桜らしく華やかに美しい。新入生たちは桜を見上げ、そしてその視線は桜の下を颯爽と歩く少年へと引きつけられてしまう。
「陽向ちゃん、注目ですね」
「なにが」
「自覚がないのですか」
「だからなにが」
本人はまだ足りないと思っているようだが、スラリとよくのびた手足。ほどよくきつくない切れ長の目。ナチュラルに形のよい唇。南野陽向は、どこからどう見たってとびきりの美少年なのだ。そして。
「あのですね、陽向ちゃん」
「なに」
「もしかして、そっちも無自覚ですか」
「だからなに」
陽向はその涼しげな目でまわりをキョロキョロと――ギロギロと睨んでいるのだ。
「みんな怯えてます」
「……」
陽向は周囲を見渡すのをやめた。どうやらそちらは無自覚ではなかったらしい。
(今のところは、危険なヤツも予想外なヤツもいない)
なにやら物騒なことを考えてもいる。
駅からは長い坂だ。町外れの住宅街で、ちょっと素敵な家が建ち並んでいる。じろじろ眺めるわけにはいかないが、通学路として悪くない。
そして裕美が「わあっ」と声を上げた。
裕美だけじゃない。まわりでも何人かの生徒が声をあげている。立ち止まっている生徒もいる。
駅の桜は一本桜だった。
ここには数千の桜だ。
長い坂道を登り切った瞬間、ざあっと千本桜が視界に広がるのだ。これで満開になったらいったいどうなるのだろう。まだ咲き始めなのにこの絢爛さだ。
「五十嵐浜高校の桜。ほんとにすごいね、陽向ちゃん!」
「うん」
桜の向こうにはこれから3年間学ぶ校舎。
不機嫌な王子さまの陽向もやっぱりワクワクしてしまう。駅からのこの坂道はなかなかの舞台装置だ。
奇跡だ!
校庭に張り出されたクラス分けに、陽向は拳を握り締めた。
「陽向ちゃん、いっしょのクラスですよ!」
裕美がぴょんぴょん跳ねている。
裕美とは幼稚園からずっと一緒だが、同じクラスになることは意外となかった。既に陽向はクラス全員のチェックも終えている。同じ中学出身はたった二人だけ。
林原詩織。
中学で成績トップだった。
高橋菜々緖。
おとなしい子だ。
この二人なら心配することはないだろう。ここまで、なにからなにまでうまくいっている。なんだかひっかかる名前をもうひとつ見つけたような気もするけど、まあいい。
「あれ、どこに行くのです、陽向ちゃん」
「ちょっと調べたいことがあるから」
同じクラスなのだから張り付いていることはない。それより春休みの間に気になっていたことを調べちゃおうと思った。ウキウキと陽向が向かったのは――。
「175.1」
伸びている!
ここでも拳を握り締める陽向だ。
175に乗った! 年齢的にそろそろ伸び止まるかなとビクビクしていたけど、中学卒業から0.3センチも伸びている! よし、まだまだ牛乳は続けるぞ!
「――!?」
戸が開けられる音と息を呑む気配がして、陽向は振り返った。保健室の入り口でスーツの女性がかたまっている。
「やだ、どこかの生徒が紛れ込んだのかと思ったわよ。よく見りゃウチの制服だけどさ。ああ、そうか。君、南野陽向クンだね」
「そうです」
保健の先生だろうか。
なぜ自分の名前を?
「君のクラス担任の藤森センセだよ、よろしくね。どうしたの、クラス分け見たら自分のクラスに集合、でしょ。美芳先生は?」
美芳先生というのが保健室の先生なのだろう。
「いないみたいです」
誰もいないのを確かめて中に入ったのだし。
「それで、なあに? 気分でも悪くなった?」
「いえ、どこも。少し調べたいことがあったので」
「ふうん?」
自分の身長を。とは言えない。
「先生はどうして保健室に?」
藤森先生はケラケラと笑い出した。
「いやちょっと、ゆうべワイン呑みながらゲームしてあんまり寝てなくてさー。二日酔いの薬か、せめて酒臭さ消す薬ないかなあって。あははー」
とんでもない担任に当たってしまったようだ。
「内緒よ、内緒。うふふ。美芳~。いないの~」
そんな語尾にハートマークつけたような声で言われましても。
むっちゃお酒臭いんですけど。
マウスペットのクールミントな香りが無理矢理漂う初めてのホームルーム。
陽向は今日初めての失望を味わうことになった。出席番号順に並べられた席順で、陽向は前のほうになってしまったのだ。これでは授業中にクラスを監視できない。しかも裕美はいちばん後だ。それも窓際の陽向と廊下側二列目の裕美。離れ離れだ。まあ、席替えがあれば後の席にして貰おう。自分は身長が高いのだし、大丈夫だろう。
そして大体育館での入学式。
もうひとつの失望はすぐにやって来た。
失望どころじゃない。
恐怖や絶望に近い。
あいつがいる。美しく華やかで中学のヒエラルキートップに君臨した女王さま。今だって新入生で雑然とした大体育館で、そこだけ空気が違うように輝いている。あいつが五十嵐浜に来ていたなんて。
笈川真咲。
入学式が終わり、新入生はそれぞれに帰宅していく。
裕美は忘れ物があると教室に引き返していった。ついていくと言ったら、もう高校生だ、子供じゃないと叱られた。
でもさ、あいつがいるんだよ、裕美。
この高校にはあいつがいるんだよ。
裕美は気づいただろうか。気づいただろう。あれだけ目立つ。
どうしてあいつが五十嵐浜高校にいるんだろう。陽向が五十嵐浜高校を選んで裕美にも勧めたのは、あいつがここを選ぶわけがないと思ったからだ。あんな派手な子がこんな町から遠い僻地の高校を選ぶわけがない。なのに。
陽向は桜を見上げた。
朝にこの桜を見た時には結構テンションあがったのにな。
あれっと陽向は思った。
桜の下でくるくると舞っている生徒がいる。長い髪、すらりとした手足。なんだか嬉しそうに微笑んでいる。
「きれい」
その声が聞こえてきた。
同じ光景をみている生徒がいる。
「ほんとうにあそこにいるのかな。なんだかきれいすぎる幻みたい」
陽向はそのつぶやきに声をかけた。
「ほんとうだ。すごいな、素敵な表現だね」
「陽向ちゃん、お待たせです」
裕美がコロコロと走ってきた。
「ねえ、どうして陽向ちゃんは泣いてるんです」
陽向はゴシゴシと涙を拭いた。
「なんでもない」
「そうですか」
「きれいすぎる幻を見たんだ。それでなんとか持ち直したんだ。ちょっとへこみかけてたけど、なんとか取り戻せそうなんだ」
「そうですか」
裕美はにっこりと笑った。
「陽向ちゃんの元気が戻ったのなら裕美さんも嬉しいです」
どっと、陽向の目からまた涙が溢れた。
「あれあれ。身体は大きくなったのに陽向ちゃんは泣き虫ですね。裕美さんがハンカチを貸してあげるからこれで拭きなさい」
「うん」
「帰ってお昼ごはんを食べましょう。裕美さんは野菜炒めラーメンを作るつもりですが、陽向ちゃんもうちで食べますか」
「うん」
「じゃ、帰りましょう」
陽向の手を引いて、裕美が歩きはじめた。陽向は目をこすりながら振り返って校舎を見上げた。
南野陽向は、ここで騎士になる。
3年間、裕美を守る騎士になるんだ。
陽向と裕美の高校生活は始まったばかり。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。