あなたのキスを数えましょう 解決編(前編)
「すごいな、素敵な表現だね」
いつも聞く人なんていない私のつぶやきを聞いてくれた人。
同じ光景を一緒に見てくれた人。
私にとってはキスより鮮烈だった。私だけの物語。
オフコース、浜田省吾。
ファミコン、ドラゴンクエスト。東京ディズニーランド。
安保闘争には遅すぎてバブルには早すぎた。日本という国も私と同じで危なっかしく揺れ動いていた。むかしむかしの、私だけの物語。
「みなさんには想像もできないことでしょう」
県立五十嵐浜高校一年三組。朝のホームルームに突然やって来た校長先生は語りはじめた。
「私が高校生の頃、まだネットもスマホもありませんでした。世界につながる方法といえば、男子は短波放送に夢中で、もう少し進んだ子はハムをしていましたね」
ハムとはアマチュア無線愛好家のことで、第四級アマチュア無線技士、歴とした国家資格保有者だ。田舎や海辺にいけば、今でも個人の家に大きなアンテナが立っているを見ることができるだろう。
「私の場合は文通ですね。お手紙をやりとりするの」
メールではない。
便せんに手書きして封筒にいれて切手を貼ってポストに投函。相手には二三日で届く。「何度も何度も読み返して文章を整えたり、たった一字書き損じただけではじめから書き直したり。信じられないでしょう。そういうものだと思っていたから苦にもならなかった。私は当時東京に住んでいましたが、雑誌でペンパル――文通友達を募集できて、高知、神戸、この新潟、旭川にペンパルがいました」
名前と住所が雑誌の文通相手募集コーナーに載るのだ。
そういう意味でも信じられない時代だろう。
「もちろん」
にっこりと校長先生は笑った。
「全部、男の子」
くすくすと笑い声が起きた。
「書くことは、こちらは今のSNSと変わらないかしらね。数学が難しい、あのテレビを見た、あの映画を見た、犬がこの頃元気がない。返事は一週間後。それでも一生懸命書かれた手紙が返ってくるのです。みなさん優しい人たちでした。でも私は、そんな優しい彼らを試すようなことをしてしまったのです。あれは今のみなさんと同じ、高校生になったばかりの1986年の春のことでした」
ピクッと反応した人が教室にふたりいる。
藤森先生と裕美だ。
「みなさんの年頃にはよくあるように、あの頃の私もいろいろ考えることばかり。私はなんだろう。どうして生きているんだろう。私はどこに行くのだろう。この先いったいどうなるんだろう」
校庭を行く同じ年頃の女の子たち。
みんな笑っている。
なにがそんなに楽しいのだろう。
ここから飛べばすべてが終わるんだ。きっと痛みなんか感じない。そこから先は痛みを感じることもない。ほら、あともう一歩。
もう一歩。
「そして私は、あんな手紙を出してしまった」
私にキスをしたのはだれですか。
「そう、空き机に書いたのと同じ言葉です。受け取った彼らは面食らったでしょうね。封筒には便せんが二枚。いつもより少ない。しかも書いてあるのはそれだけ」
「質問してもいいですか」
手を上げたのは裕美だ。
陽向はギョッと振り返った。
「どうぞ」
「なぜ、その言葉だったのですか」
「キスをされたからです」
校長先生が言った。
「もちろん夢の中の話です。夢の中で、不安で不安でたまらなかった私を抱きしめてキスしてくれた人がいたのです。嬉しかった。でもそれがだれかわからない。未来の夫かもしれない。私は知りたかったのです」
教室にはひそやかな歓声が広がっている。
陽向のスマホにまたショートメッセージが届いた。
『陽向ちゃん、気をつけてください。校長先生は本当の話をしていると思います。でも口にしていることだけが本当のことじゃない』
『どういうこと?』
次のメッセージは来ない。
なんだろう。そういえば子供の頃にもこんなやりとりがあったな。どうやら裕美はおれに謎解きをしろと言っているらしい。ふうん?
「返事は来たんですか?」
裕美のおかげで質問しやすくなったのだろう。別の生徒がはにかみながらも手を上げた。
「それどころか」
校長先生は、その生徒に微笑みかけた。
「私の家まで来てくれたひとがいたようです。住所はわかっているわけですからね」
校長先生の家では、朝、新聞受けに朝刊を取りに行くのが校長先生の仕事だった。あの手紙を出して三日目の早朝。
「塀の上に、私が出した手紙とその押さえのようにルービックキューブが置かれていました」
ルービックキューブ。
当時世界で爆発的に流行った6面立体パズルだ。知らない子はわかる子に教えてもらっているが、多くの生徒が知っているようだ。
「その人はいなかったのですか」
「いませんでした。ただそのふたつだけが置かれていました」
どこかで隠れて見ていたのかもしれない。
夜のうちにきて夜のうちに帰っていったのかもしれない。
正直言って驚いた。そして嬉しかった。ルービックキューブが置かれている意味だってわかる。きっとメッセージ。こんな凝ったことをしたのは互いにミステリ好きだから? 両親に先に見られても困らないように?
「全面に書かれていたら困っちゃうところだったけど、文字っぽい書き込みがあるのは白の面だけのようでしたし、すぐに揃えることができました」
「なんて書かれていたんですか」
次々に質問が出てくる。
校長先生は教室をぐるりと見渡した。みんな、期待に満ちている。
「『しねばいい』。そう書かれていました」
ええ~~!?
驚きの声が上がった。笑いが混じっている。
「もう、私のために来てくれた人がいるとか、朝に自分の手紙とルービックキューブが置かれているのを見つけたドキドキとか、ぜーんぶ吹っ飛んでしまいました。そのうち他の人からも返事の手紙が届いたけど、下品な内容だったりなぜか写真がはいっていたり。バカバカしくなって文通も悩むのもやめてしまいました。そうですね、ショック療法の効果はあったかもしれませんね」
また裕美からメールだ。
『最高だぜ!』
なんだって?
『さあ、行こうぜ!』
???
『カチューシャする?』
あっ!と、陽向は振り返った。きょとんとした表情を見せた裕美だったが、すぐににっこりと笑った。
「1年3組の空き机の祥子さんは、願い事をかなえてくれるそうですね。その噂は私も聞いています。それでもう一度だけ試してみたくなりました。わからずじまいだったあのキスは誰のキスだろう。でも結局、あの時の手紙と同じように騒動を起こしてしまっただけでした。年甲斐もないイタズラにみなさんを巻き込んでしまいましたね。できればこの話は、このクラスだけの内緒にしていて貰えると嬉しいですね」
そして校長先生が言った。
「南野陽向さん」
陽向は顔を上げた。
「はい。おれ――私の名前を?」
「私をだれだと思っているのですか。この学校の校長ですよ。南野陽向さん、あなたは私の今の話になにか疑問があるようですね。言ってごらんなさい」
「……」
なぜ校長先生にわかったのだろう。
裕美のメッセージを見てから急にぐるぐると思考がまわった。そして答が見えた。見当外れかもしれない。でも。陽向は立ち上がった。
「もしかしたら、そのルービックキューブの人とは、それっきりではなかったんじゃないですか?」
「どうして?」
「東京の人だった校長先生が、今、新潟で校長先生をしている。つまり、そのルービックキューブの人は新潟の文通友達で、そのあとふたりは結婚したのでしょう?」
「ずいぶん大ざっぱな推理ですね」
「ルービックキューブの人は手紙を受け取ってすぐにやってきた。それができるのは神戸の人か新潟の人です」
「補足するわね。その少し前に上越新幹線が開通していたからです。それで?」
「ルービックキューブの人は直接会う勇気がなかったのか、別の理由があったのかメッセージを残すことしかできなかった。だけど彼は校長先生のことを本当に心配していたんです。とにかく彼はほんとうに心配して、そして新潟の方言を書いてしまったんです」
「しねばいい――こんなことしなくていい」
「もしかしたら本当は6面全部にメッセージがはいっていたのかもしれない。でも校長先生は方言で書いてしまった白の面しか見なかった」
しねばいい?
方言? 言う、そんなの?
むしろルービックキューブより理解できる生徒が少ないようだ。
「言うようです。少なくとも当時の夫は」
校長先生が言った。
「正解です。本当は他の面にもメッセージが残されていたらしいというのも含めて」
試さなくてもいい。
こんなことしなくてもいい。
ぼくはいつでも
君を
大切に思っている。
いつも。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。