あなたのキスを数えましょう 4
工藤志津子さん。
あまり高くない背を更に猫背気味にしている。おとなしくてあまり喋らない。でも、空き机にあの書き込みをしたのは彼女だったのだ。
夢で私にキスした人はだれですか
自分の書き込みなんてだれも気づかない。気づかれたとしても、ちょっと話題になってそれでおしまい。そう思っていた。だけどクラス中の話題になってしまった。それどころか、誰が書いたか突き止めるとまで言う。
工藤さんは慌てた。
書き込みを消そうと思った。
放課後では無理だ。人が多すぎる。朝早くなら。
寄るところがあるからと言って早く家を出た。そしてだれもないことを確認して教室に入り、消しゴムを取り出そうとバッグに手を入れたところで足音が聞こえてきた。工藤さんは慌ててカーテンの影に隠れた。教室に入ってきたのは、クラスのというか学校のアイドルのような存在の「美少年」、南野陽向だ。陽向もまた辺りを窺いながら空き机に近づいてくる。
南野さんが空き机になにか?
まさか、南野さんのような人まで祥子さんの空き机になにか書き込むの? 願い事があるというの?
陽向はスマホを机の中に差し入れた。
なにをしているんだろう。
スマホを戻すと陽向は祥子さんの机から離れた。工藤さんはギョッとしてしまった。スマホを弄りながら陽向がもたれたのは工藤さんが隠れたカーテンのすぐ横の窓だ。
器用に片手と口で牛乳パックにストローを突っ込む。
そして気づいてしまった。
すぐ横に工藤さんがいることに。
「……」
「……」
「おはようございます……」
顔を真っ赤にさせ、カーテンを握り締め、工藤さんが言った。こちらも少なからずパニくっている陽向も挨拶を返した。
「おはよう……」
「……」
「……」
工藤さんはカーテンから飛び出した。
無理!
ただでさえコミュ障なのに、こんな状況でアドリブなんて私には無理!
「待てよ」
そんな工藤さんの手を、陽向が掴んだ。
「あんた、どこまで知っているんだ?」
「――?」
「いいか。裕美を泣かしたら、おれが黙ってないぞ。おれが――」
目を鋭くしていた陽向の顔に戸惑いが浮かんだ。
工藤さんの目から涙が溢れている。
「あ――ええと、あの……」
工藤さんの涙は止まらない。
「いや、だからさ、裕美に泣いて欲しくないけど、あんたに泣いて欲しいわけでもなくて。あの、ごめん、おどろいた……?」
「なーーにやっとるんだね、君たちは」
陽向は教室の入り口へと顔を向けた。
「いーーけないんだ。女の子泣かせちゃった。どうすんだ、色男」
二八歳独身。
藤森先生が入り口にもたれ、にやにやと笑ってこちらを見ている。
「よろしい。南野クンには先生から宿題をあげよう」
「なんで!」
「ふうん?」
藤森先生はもたれていた体を起こし、教室の中に入ってきた。そして自分のスマホを陽向へと向けた。表示されているのは、泣いて嫌がっている女生徒の腕を掴んで無理矢理引き寄せようとしている(ように見える)生徒の姿だ。
「生徒を脅迫するつもりですか……!」
「うん」
素敵な笑顔を浮かべる藤森先生だ。
「はい。それでは先生から南野くんへの宿題。この夢キス事件を収拾しなさい」
「おれは祥子さんじゃないです!」
「でも空き机の祥子さんに代って相談ごとを解決しているのは君でしょう? 君と佐々木裕美の名探偵コンビよね。この間もきれいな一件落着を見せてもらいました」
とん、と藤森先生は空き机を人差し指で叩いた。
「ごらんなさい」
机の上を見た陽向は、あっと思った。まだすんすんと鼻を鳴らしている工藤さんも驚いている。
キス キス キス
私のキスの相手はだれですか
私もキスの夢見ました
私の初めてのキスの相手を教えて キス キス キス――
だれにも見られないように天板の裏の書き込みを撮影するのに集中していて気づかなかった。机の上はキスの書き込みだらけだ。それも普段より圧倒的に多い。
工藤さんも突然陽向が現れたので、空き机の上をまだよく見ていなかった。自分の書き込みを消すどころじゃない。もう、それがどこにあるのかすらわからない。
「こう浮ついた感じになっちゃうと困るのよねえ」
「ごっ、ごめんなさい!」
工藤さんが頭を下げた。
藤森先生は眼を細めた。ふうん、発端はこの子か。
「それに」
と、藤森先生は続ける。
「犯人捜しが始まったりしたらどうするの。そういう時って残酷よ?」
びくり、と工藤さんが体を震わせた。
「まあ、もう元の書き込みがどこにあるのかわからないけど、安心出来ない。そういうわけで、南野クンへの宿題の期限は今日の放課後まで」
「えっ!」
「さもなければ、この机は撤去。いつになっても祥子さんは出てこないのだし」
工藤さんはぎゅうっとスカートを掴んでいる。
「ごめんなさい……。こんなつもりじゃなかったんです……。私は……ただ……」
「ほら、相棒もきたよ。色男」
藤森先生が言った。
裕美が入り口に立っている。
「じゃ、三人でいい解答をみつけてね。だめだったら相談にきて。でもま、先生は、空き机の祥子さんのあざやかな解決を期待していますよー」
ウインクをして藤森先生は教室を出て行った。
全員が主役だったら、舞台は成り立たない。
幼稚園の時、浦島太郞や乙姫さまが七人ずついる劇をやった。それはそれで、その七人にすら選ばれなかった子にはむしろ残酷だ。そしてその場合でも亀や亀をいじめる役は必要なのだ。
私は脇役。亀にもなれない魚のひとり。
わかっている。
主役になろうと努力したこともないのだし。主役になったとして、それを演じ続ける覚悟もないのだし。
だけど、たった一度。
ただその瞬間。私はただの脇役じゃなかった。
「すごいな、素敵な表現だね」
あの光景があざやかすぎて、私を捉えて離してくれない。
夢キス事件の収拾?
いったいどうやって。
そもそも、一度鎮火させようとして失敗してるんだ。
陽向は腕を組み、何事もなかったかのように朝のホームルームで担任として振る舞っている藤森先生を睨んでいる。睨んでいるんじゃない。必死に考えているのだ。
あの書き込みをしたのが工藤さんだとバレたら、彼女はしばらくからかわれてしまうのだろう。おとなしそうな子だ。きっと耐えられない。それくらいなら、そうだ、あの書き込みはやっぱりおれがしたんだと言っちゃえばいい。
ちらと工藤さんを見ると、うつむいている。
スマホに着信があった。
そっと覗いてみると裕美だ。
『あわてないでもう少し待ちましょう』
どういうことだろう。
実はこの時、裕美は朝にメアド交換した工藤さんにも同じショートメッセージを送っている。工藤さんは振り返った。ふたつ後ろの席で佐々木裕美がこちらを見て微笑んでいる。
工藤さんは名乗り出ようとしていたのだ。
あれを書いたのは自分だと。
あの空き机には南野さんと佐々木さんに取って大切ななにかがあるのだ。それを自分のために失わせちゃいけない。名乗り出るんだ。勇気を出して、お願い。――。
次のショートメッセージが届いた。
『間に合ったようです』
工藤さんは震える手でそれを見た。
『間に合ったようです』
陽向は首を傾けた。なにが?
裕美へと振り返ると裕美の黒目がちの目がくりっと教室の入り口のほうに動いた。体を戻し、陽向もそちらを見た。入り口の戸の透明アクリルの窓に、上品そうなおばさんの姿が見える。
誰だ。
あれ、どこかで見たような気もする。
「校長先生!?」
藤森先生が声をあげた。
えっ、校長先生!?
そうだ。入学式で見た顔じゃないか!
「お邪魔しますよ、藤森先生」
戸を開けて、校長先生が教室に入ってきた。
「ごめんなさいね。私の年甲斐もないイタズラがバレてしまったそうなので」
「なんのことでしょうか、校長先生」
「『私にキスした人はだれですか』。空き机の祥子さんにそうお願いしたのは私です」
えええええーーーー!???
クラスは一斉に声をあげた。
そんな馬鹿な! 陽向は驚愕した。
どういうこと!? 工藤さんは愕然とした。
「時間をすこし頂いてよろしいかしら。ホームルームの時間は守りますから。こんなおばあちゃんにもみなさんのような若い頃があったというお話をさせてください」
クラスはざわめいている。
藤森先生も珍しく動揺している。
オフコース、浜田省吾。
ファミコン、ドラゴンクエスト。東京ディズニーランド。
「安保闘争には遅すぎて、バブルには早すぎた。日本という国も、あの頃の私と同じで危なっかしく揺れ動いていた。そんな昔のお話です」
校長先生が言った。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。