鏡屋敷の謎 1
「上遠野」
廊下で呼びかけられ、森岡祥子は振り返った。
同じ一年生だ。呼び止めておきながら、祥子が振り返ったことに戸惑っている。
「ごめんなさい……友達に似ていたから」
祥子はかけていた大きなセルフレームのメガネを外した。
はっと、その一年生は息を呑んだ。
「安心して、私は幽霊じゃない」
祥子は両手でスカートをあげて見せた。
「私は森岡。東京生まれだし、この四月まで東京にいた。何度か声をかけられて、私にそっくりな上遠野という子がいたことは知っている。それでこのメガネをかけている。関係もないことで自分が噂になってしまうのは気分がよくないだろう?」
「ごめんなさい……」
あぶない、あぶない。
小宮山睦美、彼女も五十嵐浜高校だったのか。裕美や陽向にばかり気が取られていたよ。
祥子はメガネをかけ直し、小宮山睦美に背を向けて歩き出した。
小宮山睦美は立ち尽くしている。
幽霊じゃない、か。
実際にはただの幽霊だけどね。
「あーーっはっはっはっは!」
そして一年三組のお昼休みに響き渡るのは高笑いだ。
「あーーっはっはっはっは! なんだこの『彼氏が欲しい』って! まず鏡見ろ、鏡! あーーっはっはっはっは!」
森岡祥子が自分の席で高笑いをあげている。
そう、今日は「空き机」じゃない。
新学期が始まって二週間。空き机にはじめて主が座っているのだ。
この異変は朝に遡る。
「ひーなーたーちゃーーん!」
「ひーなーたーちゃーーん!」
玄関から響いてくる声に、いつものように腰に片手を当てて朝食の牛乳一リットルパックを飲んでいた陽向は牛乳を噴き出しそうになった。
「今日の裕美ちゃんは野太いな」
納豆を練っていた兄の太陽が言った。
この声が裕美のわけあるか!
南野家の玄関には、五十嵐浜高の制服姿の長身と小柄のふたり。祥子と裕美だ。
「なんでおまえがここに……!」
「がっこー行っきましょおっ、ひーなーたちゃーん!」
小首を傾け、メガネバージョンの祥子がにっこりと笑った。裕美もなんだか嬉しそうだ。
「そういや、前もこんな事あったなー」
太陽がつぶやいた。
駅でオカメインコ高橋さんや委員長林原さんと合流しても、まるでずうっと仲良し五人組だったかのようにはしゃぎ続け(不思議と高橋さんは嫌がらなかった)、学校までの坂道と終わりかけの桜の下を歩き、そして朝のホームルームで担任の藤森先生が教室に入ってくる頃に祥子は姿を消した。
森岡祥子が遂に登校して来た!
そうざわついていた一年三組も、ミステリ研の面々も呆気にとられるだけだ。
「……」
藤森先生だけが珍しく真顔だった。
不機嫌ではないようだが、いつものちゃらんぽらんでもなかった。
「あーーっはっはっはっは!」
そして昼休み。
卵サンドパンふたつを手に、ふらりと森岡祥子が戻ってきたのだった。
「弟と喧嘩ばかりしちゃう、どうしたらいいって、知らねえよ、そんなことーー!」
「高木義明のサインが欲しいって、頼むところ間違ってんだろーー!」
「将来、なんになればいいかなって、あーーっはっはっはっは! 魔王になれ、魔王になってみせろーー! 世界を支配してくれーー! あーーっはっはっはっは! あーーっはっはっはっは!」
空気が悪い。
露骨に一年三組の空気が悪い。
「あのな」
「なんだ。今日もコロッケパンののろま陽向」
「おれはコロッケパンも好きだからいいんだよ!」
陽向の席は変わらない。いつも通りの「空き机」の前の席の椅子だ。祥子がやってきて「いつもの席」を追い出されたのは裕美のほうだ。隣の席の椅子を拝借して「空き机」に向け、ちんまりお弁当をひろげている。それなのに、裕美はにこにこと笑っている。
朝だって嬉しそうだったし!
裕美、君は自分の席をその高笑い女に奪われているんだぞ!
いや、正真正銘、森岡祥子の席だけど!
ああ、もう! おれだって、このイライラは理不尽だってわかってるけど!
「学校に来てるなら授業にも出ろよ。そのうち退学になっちゃうぞ!」
「教師のようなことをいうなよ、左右の区別もつかなかった陽向」
「関係ないだろ!」
「気にするな。私はもうすぐ消えるんだからさ」
卵サンドパン二個を食べ終えて、祥子は席を立った。
「ああ、馬鹿になったネジの外し方な。ゴムを噛ませばいいぞ。輪ゴムの幅の広いやつでいい。馬鹿になったネジに被せて、その上からドライバーを使うんだ」
「じゃあな」と、祥子は教室を出て行った。
陽向と裕美が空き机の上を見ると、確かに「ネジ穴が潰れちゃって外せなくなっちゃった、どうしよう」という書き込みがあった。
森岡祥子は放課後の地学実験室に入り、ロッカーからケトルを出して水道から水を注いでガスバーナーに火をつけた。カップを手に教室内のドアから隣の地学準備室に入ってインスタントコーヒーを拝借して、沸いたお湯をカップに注ぐ。
窓から見下ろせば、下校していく生徒たち。
桜も終わったし。
一緒に登校も済ませたし、やることはした。そろそろ潮時だ。小宮山睦美にも見つかっちゃったことだし。
ふう。
ゆったりとコーヒーを味わい、ふと気配を感じて視線をやると地学実験室の入り口の透明アクリルの窓に藤森先生の顔があった。キャラらしくもなく驚いたようで、祥子はぶっとコーヒーを噴いた。
「いちおう言っておくけど、地学の西澤先生はたぶん知らない。私には保健室のババアという情報源があるの」
教室に入って戸を閉め、藤森先生が言った。
「私にもコーヒーをくれる?」
「レモネードなら」
「コーヒーがいい」
「もう一杯のためだけにまたお湯を沸かすのは面倒だし、あまりコーヒーを盗むと西澤先生に感づかれてしまいます」
藤森先生はロッカーを確認している。
「意外と慎ましいのね。地学実験室には有り得ない備品がしれっと置いてあったりとか、バスタブが置いてあったりとか期待してたんだけど」
「漫画の読み過ぎです」
「授業にも出ないで校舎に泊まり込む女子高生って、よほど漫画だと思うけど。まあ、美芳から話を聞いた時には結構わくわくしたんだけどな。ま、あなたがどうしてこんな生活してるのかは知らないけどさ」
「森岡祥子」と、藤森先生が言った。
「南野陽向の言う通りよ。このままじゃ、あなた退学よ」
「……」
「関係ない? どうせそのつもりだからいい? ちゃんと考えなさいよ?」
くるりと振り返った森岡祥子が手にしていたのは試験管だ。
シェイクしていたらしく、黄色い液体が泡立っている。
「どうぞ」
「あなた、ホントにいい性格してるわね」
レモネードは生暖かった。
夜中にMTBを駆っている少女がいる。
祥子だ。
全校退校時間は過ぎているから、今夜はもう学校には戻らないつもりなのだろう。制服も脱ぎ、黒い野球帽にカーゴパンツ姿だ。
桜も終わった。潮時だ。
その家は町の郊外にある。
以前はよく手入れされていた庭は、今は雑草だらけだ。
門にMTBを立て掛け、鍵を使って玄関から入り、迷わずにリビングへと向かう。掃除はされていないが、荒らされてもいない。祥子は丸いテーブルの脇でしゃがみ込み、ハンドライトでその天板の裏を照らした。
「……」
そこに書かれている文字をしばらく見つめ、祥子は思いを振り切るように立ち上がった。
「ねえ、今朝のさ」
夕食の席で陽向に母親が話しかけてきた。
森岡祥子のことでなにか言われるらしい。あのセンセーショナルなご登場じゃな。まあ、うちの母なら悪口じゃなくて笑い飛ばすだけだろうけど。
「懐かしいわね、祥子ちゃん。もともときれいな子だったけど、ほんと、美人さんになっちゃって」
陽向は味噌汁を噴き出しそうになった。
母さんがなぜ森岡祥子を!?
ああ、そうか。母さんも覚えているんだ。やっぱりあったんだな、あの夏は。
あの夏。
あの鏡屋敷の冒険。
「陽向」
そろそろ聞き慣れてきた若干鼻にかかった上から目線の声で着信があった。
「鏡屋敷が取り壊される」
森岡祥子が言った。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。安楽椅子探偵。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
一年三組暫定委員長。裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。
太刀川琴絵 (たちかわ ことえ)
五十嵐浜高二年生。中学生の頃から県大会常連の剣士。生徒会副会長だが立候補した覚えはない。
小宮山睦美 (こみやま むつみ)
上遠野という少女を知る生徒。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
南野太陽 (みなみの たいよう)
陽向の兄。ハンサムだが変人。
林原伊織 (はやしばら いおり)
林原詩織の兄。ハンサムだが変人でシスコン。




