あなたのキスを数えましょう 3
「夢で私にキスした人はだれですか」
陽向のその台詞は、朝の五十嵐浜高等学校1年3組にセンセーションを巻き起こした。
「きゃーー!」
「なに言い出してるの、南野さんーー!」
「きゃーー!」
「きゃーー!」
いちばんうろたえているのは陽向かもしれない。
「ち、ちがう! おれじゃなくて、空き机に書いてあったんだ!」
昨日、「目に留まっても、空き机の書き込みは読み上げちゃいけない」って言ってたの誰でしたっけね、陽向ちゃん。
裕美の目は据わっている。
大騒ぎの教室にその良く通る声が響いた。
「夢で私にキスした人はだれですか」
担任の藤森先生だ。
「ああ、ほんとうだ。書いてありますねー。今日の空き机さんはインパクトありますねー。はいはい、朝のホームルームですよ。みなさん席についてねー」
ぱんぱんと、藤森先生が出席簿を叩いた。
ふわふわ、そわそわ。
なにも知らないでやってきた数学の先生が戸惑ってしまうほど、クラスの雰囲気は浮ついている。次の授業は体育なのに休み時間に皆が集まるのは空き机だ。
「ほんとだ、書いてある」
「うわ、誰よ、誰」
「ほんとに南野さんじゃないの、書いたの」
確認が済んだ生徒は押し出され、そしてクスクス笑いながら体操着を手に教室を出て行く。同じ中学出身、新しい友達。それぞれにグループがもうできているようだ。
小針中学出身、工藤志津子さん。
少し小柄で少しうつむき加減の彼女は、体操着を抱えると特に空き机の書き込みを確認することもなく、ただちらりと視線を投げて教室を出て行った。
まいったな。
片手で器用に牛乳パックにストローを差し、陽向は思った。
ただでさえ注目を集める空き机なのに、今日はさらにみんながこちらを気にしているのがわかる。見ないようにしてみんながおれたちを見ている。裕美といえば、そんな視線を気にもしないで手間暇かかったお弁当をいつも通りにちまちまとつついている。
夢で私にキスした人はだれですか。
どういう状況なんだろうな。
ロマンチックには違いないが、そんなこと聞かれても祥子さんも困るだろう。
「そんなこと聞かれても祥子さんも困ってしまいます」
同じ事を考えていたらしい。
裕美が言った。
陽向はゲンナリした。裕美の言葉にサッと教室が静かになったのだ。それまで友達同士のおしゃべりがあふれていたのに。
「夢の中で一緒にいる人がだれかわからないことがあるかというと」
裕美の言葉は続いている。
「それはわりと難しいのではないかと思うのです」
そこで裕美の言葉が止まった。
ごくり。
陽向は牛乳を飲み込んだ。
あの、裕美さん。もしかして裕美さんはおれの合いの手を期待しているのでしょうか。
「それはわりと難しいのではないかと思うのです」
そうだったらしい。
「そう?」
「裕美さんは夢の中でお兄さんと会ったことがあるのです」
「うちの?」
「裕美さんの」
「おれが知る限り、裕美は一人っ子のはずですが」
「でも会ったのです。はじめから裕美さんはそれが裕美さんのお兄さんだと思ってましたし、普通に会話したのです。夢というのはそういうものだと思うのです」
「……」
つまり。
裕美はこの書き込み自体が不自然だと考えているのか。
おっと、これは口に出したほうがいい。みんなに聞こえるように。
「そういやそうかもね。確かに見るとしたらそれは、キスしたことだけが残る夢じゃなくて、誰かとキスした夢だろうね。つまりこの『夢で私にキスした人はだれですか』って書き込みは、深い意味のないただロマンチックな台詞なのかな」
「えー」という声が聞こえてくる。
裕美は陽向の言葉には応えず、考え込んでいる。それでもまたちまちまとお弁当をつつきだしたのでみんなも話は終わったのだと判断したようだ。またクラスにざわめきが戻ってきた。
それでいい。
あまり騒がれたくない。裕美がこの机を必要とする限り。
陽向もコロッケパンを食べ終えて牛乳パックのストローをくわえた。そしてちらりと裕美を見ると、裕美は箸を置いてお弁当をじっと見つめている。嫌いなおかずでもあったかな。裕美が嫌いなおかずってなんだっけ。いや、おばさんはそんなことしない。裕美を溺愛しているのだから。だからおれも裕美の嫌いなものを知らない。
違う。
裕美はメッセージを書いているんだ。机に。祥子さんに。
裕美は右手を机の中に入れている。肩も腕もほとんど動かないから誰かが見ていても気付かない。それを知っている陽向だってすぐには気づかないほどなのだ。
みんなは空き机へのメッセージを天板の上に書き込む。
でも裕美が書き込むのは天板の裏だ。
「……」
ずずっ!
飲み終わったのにも気付かず、陽向は盛大にそんな音を立ててしまった。裕美は手を机の中から出して、またちまちまとお弁当をつつきはじめた。
放課後になっても空き机のまわりには人が多い。
陽向の期待どうりにはこの話題は納まらないらしい。
「南野さんはあんなこと言ってたけどさー」
そんな声も聞こえてくる。
まあいいや。おれに向かうならいい。裕美にさえ向かわなければ。でもこれじゃ、今日は裕美が何を書き込んだかを確認できそうにない。
「裕美、おれ帰るけど、裕美はどうする」
「裕美さんも帰ります。時代劇の再放送を見るのです」
工藤志津子さんもバッグを確認して立ちあがった。
「筆跡でわからないかなー」
その声に、工藤さんはギクリと立ち止まった。
「みんなのノートを見せて貰えば、誰が書いたのかわかるよ」
「そこまでするー?」
ごくり。
工藤さんは駆け足気味に教室を出た。
許してくれないの?
たったこの程度のいたずらも許されないの?
脇役はなにもしちゃいけないの?
「あらごめんなさい、裕美ちゃん。陽向ね、朝練だって七時前に飛び出していっちゃったのよ」
朝、いつものように裕美が向かえに行くと、陽向のお母さんからいわれてしまった。
「朝練ですか」
「あの子、いまは剣道してないのにね」
「そこは突っ込まなかったのですか」
「高校生ともなれば、親に言えない秘密ができちゃうものよ」
人差し指を唇に当ててウインクされましても。
「それにしても、高校生さんになっても裕美ちゃんはかわいいわねえ。いいなあ、陽向は無闇にでかくなっちゃうし、その上はさらにでっかいし、うちにも裕美ちゃんが一人欲しかったなあ」
「裕美さんは量産型ではないのです」
朝練ですか。
小首をかしげて考える裕美である。
誰もいない。
陽向はなんども周囲を確認して1年3組の教室に入った。
まだ薄暗い。自分の席でカバンをおろし、そしてもう一度周囲を見渡してすぐ後の空き机の中にスマホを突っ込む。念のため位置をずらしで数枚撮影する。
これまでだったら放課後にでも確認できたのにな。
今の騒ぎはそのうち納まると思うけど、これからもこんなだと少し考えなければいけない。裕美が空き机になにかを書き込んだのを確認できたときにはいっそ学校に泊まり込もうか。さすがにそれは現実的じゃないかな。そもそも書き込むなら自分の机にしてくれればいいのに。あ、そっちにも書き込んである可能性があるのか。あとで確認しておかないと。
「……」
祥子さんの空き机から離れ、教室のうしろのほうの窓辺にもたれ、陽向はスマホを手にしながら牛乳カパックのストローを歯で剥がして器用に片手でパックに突き刺した。
そういえば、こうやってスマホで確認する方法、いつの間におぼえたんだっけ。
まあ、今はそんなのはいいや。
工藤志津子
彼女はなぜそんな事を書いたのか?
空き机の天板の裏に裕美が書いた文字だ。天板の裏に書かれているのに鏡文字になっていない。裕美にはこれができる。
工藤志津子?
陽向は首をひねった。
だれだ、それ。ていうか、つまりあのキスの書き込みをしたのはこの人だっていうのか。なんだって裕美にそれがわかるんだ。
そして陽向はあっと眼を見開いた。
気配を感じたカーテンの裏の隅っこ。
顔を真っ赤にさせた女生徒が潜んでいる。
「……」
「……」
目と口をぱかっと開けた陽向と真っ赤な顔で震えている少女は見つめ合っている。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。