猫と和解せよ 5
「……うそ……」
渡り廊下の隣の繁みを覗き込んだよっちゃんは固まってしまった。
マンション暮らしのよっちゃんの家では猫を飼えない。
SNSを利用して里親を探し始めたところだった。
あの親子猫の親猫が泡を吹いて倒れている。全身の毛が逆立ち、苦しんだ跡がある。死んでいる。近くに食べかけの猫缶。
通学の電車の中、自分の右手を眺めて陽向の顔は締まりない。キョロキョロとなにかを探しているのは裕美だ。
「どうしたんです、南野氏っ」
「どうしたんです、佐々木さん」
オカメインコ高橋さんと委員長林原さんが声をかけてきて、二人は同時に頭を振った。
「なんでもないっ!」
「なんでもないですっ!」
陽向は右手をポケットに入れた。
暖かかったな、太刀川先輩の手。
やっぱりにやけてしまう陽向だ。
触ってしまった。陽向の手に。
いらないことまで口走ってしまった気がする。これはパワハラでもあるんじゃないのか。やはり私は修行が足りない。でも。
うふふ……。
「おはよう、太刀川ー!」
大きな声が教室に響き渡り、太刀川先輩は慌てて左手を机の中に隠した。
「左手をどうかしたのかい、太刀川ー!」
「なんでもありません。おはようございます。ここは2年の教室ですよ、生徒会長」
「うん。だからなんだい?」
3年生のあなたが堂々と出入りする場所ではないのですけど。まあ、立候補もしていない太刀川先輩を勝手に副会長に据えてしまった自由でロックなこの生徒会長には、なにを言っても無駄なのだ。
「ああ、それでさ」
「なんです?」
生徒会長は言いにくそうに頭をかいている。
いつも陽気なこの人には珍しい。
「おまえ、気にしていただろう。ペットの毒餌事件。起きてしまったようなんだよな、この高校でも」
ざっ!と太刀川先輩が立ち上がった。
表情が一変している。
「どこです」
「一年生がね」
「それはどこです!」
今日はバス通に戻した。今月分の定期は残っているから。
佐々木裕美に気づかれてしまった。あの子って鋭い。中学のときからそうだった。でも、私がその日によって通学手段を変えても、誰もなにも言ってこない。
五十嵐浜高校はいい。
私を放っておいてくれる。
「……」
なんだか変な匂いがする。
なんだか変な音がする。
「……」
笈川真咲は登校する生徒たちの波の中で立ち止まった。入学したときには咲き始めだった校庭の千本桜は、いつの間にか満開を迎えている。
バリバリバリッ。
バリバリバリッ。
「なに」
その満開の桜の陰、どかっとスカートのままあぐらをかいて座り、猫のカリカリを食べていたのは昨日の変な女だった。
見間違いではない。
カリカリの袋に手を入れて口に放り込んでいる。
バリバリバリッ。
バリバリバリッ。
いい歯をしているのだろう、小気味のいい音をたてている。
「あげないわよ」
そもそもいらない。
「あなたの言うとおりだった」
変な女が言った。
「お願いすべきだった。よっちゃん頼みだけじゃなく、土下座してでも上遠野で飼って貰えないかってお願いすべきだった。でもあの人たちの人の良さにつけこんでこんな自由な高校生活送ってる私なのに、これ以上わがまま言えるわけないじゃない。だいたい、私はもうすぐいなくなってしまう子なのに――」
独り言を言い始めた。
関わらないほうがいい。
真咲はその場を離れようとした。その真咲の腕を変な女が掴んだ。
「ごめんね!」
変な女が言った。
「あなたはなにひとつ間違ってないし、あなたはなにひとつ悪くないのに、当たってしまってごめんね!」
ボロボロと涙を落としている。よく泣く女だ。
どうでもいいから放して。
「全部、私が悪いんだっ! こんちくしょうっ!」
ばあん!
ドライフードの袋を地面に叩きつけ、変な女は泣きながら走っていった。あまり物に動じない真咲も呆然としてしまう。
生徒の波の何人かが袋が叩きつけられた音に顔を向けてきた。
すぐに生徒たちは視線を元に戻したが、ひとりだけ立ち止まったまま見つめている生徒がいる。あの長身。あの長い髪。ちらと聞こえた少し鼻にかかった声。
「上遠野……?」
その生徒がつぶやいた。
あの変な女がなんのことを言っていたのかは、すぐにわかる事になった。
「よっちゃん、泣かないで」
「泣かないで」
「泣かないで」
渡り廊下の外に1年生たちが集まっている。彼女たちに囲まれているのはショートボブのよっちゃんだ。
「よっちゃん、制服が汚れちゃうよ」
よっちゃんが抱きしめているのは猫だ。
動かない。
死んでいる?
よっちゃん頼みだけじゃなく
飼って貰えないか頼むべきだった
何事だろうかと、渡り廊下を往く2年生や3年生もちらちらと繁みの近くの1年生の集団を見ている。そこに走ってきたのはポニーテールの2年生だ。彼女は真咲の横を走り抜け、渡り廊下の腰板に手をかけるとスカートを翻して飛び越えた。もう少し行けば外に繋がっているのだけど。
「私は2年4組の太刀川琴絵だ!」
その二年生が言った。
闇雲にかっこいい。
この高校は多士済々だ。以前に裕美が思ったことと同じことを真咲は思った。
「不躾は許せ! 生徒会長から毒餌の犠牲になった猫がいると聞いた! すまないが――」
ぎゅうっと、よっちゃんは母猫を抱きしめている。
「すまないが――その猫を渡してくれないか」
よっちゃんはうつむいたままだ。
「このあたりで、道に毒の餌が置かれ、猫や飼い犬が被害に遭う事件が起きている」
太刀川先輩が言った。
「私たちはその犯人を止めるために情報を集めている。動物の虐待を禁止した動物愛護管理法もあるし、致死量の毒が確認できれば未必の故意が認められる可能性もあるそうだ。犯人を捕まえることができるかもしれない」
よっちゃんが顔をあげた。
涙で濡れている。
「犯人を……?」
「そうだ」
太刀川先輩はうなずいた。
「だから、たのむ。その猫を渡してくれ。協力してくれている獣医さんに確認してもらわなければならない」
口をぐっと閉じ、目はじっと太刀川先輩を見つめ、よっちゃんは猫を両手で差し出した。太刀川先輩は猫の体を受け取った。
「名前とクラスを教えてくれ。あとでこの猫はお寺で荼毘に付してもらう。連絡する」
「一年六組、田崎真佐子」
よっちゃん要素がどこにもないじゃない! 真咲は不意を衝かれたが、他の生徒たちもどよめいている。
太刀川先輩は猫の体を片手に持ち替え、ポケットからハンカチを出した。
猫を包むには少し、いや、かなり小さくはないだろうか。しかしそうではなく、そのハンカチはよっちゃんに差し出された。
「自分のハンカチは涙を拭くのに使え。これはその制服を拭くのに使うんだ。拭いたら捨ててくれていい。さあ、授業がはじまるぞ」
この人、どこかの歌劇団に入るべきだったのでは。
真咲は思った。
「ああ、待ってくれ」
だれもが太刀川琴絵劇場にあてられて動いていなかったのだが、太刀川先輩はそう言った。もちろんどこにも要素がないよっちゃんも動いていない。
「生徒会長は『毒餌事件』と言った。毒餌も大切な証拠だ。渡してくれないか」
「そこに、開けられた猫缶が」
あれっと、よっちゃんはしゃがみ込んだ。
繁みの下を探しても、確かに見たはずの猫缶がない。
「マサキ」と、声がした。
けっこう大きな声だったので注目が集まった。
リコだ。
漢字だかひらがなだか、カタカナなのかもわからないあの子だ。
懲りない子。
真咲は背を向けた。
「その猫、あんたの言うとおりになったね」
はっと真咲は振り返った。
見ている。
そこにいた全員が真咲を見ている。よっちゃんも太刀川先輩も、二人をとりまいている一年生たちも、渡り廊下で見ていた生徒たちも、発言したリコではなく真咲を見ている。
あんたの言うとおりになったね。
真咲は渡り廊下を歩きはじめた。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。安楽椅子探偵。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
美芳千春先生 (みよし ちはる)
保健室の先生。藤森先生の友達。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
一年三組暫定委員長。裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。
太刀川琴絵 (たちかわ ことえ)
五十嵐浜高二年生。中学生の頃から県大会常連の剣士。生徒会副会長だが立候補した覚えはない。
田崎真佐子 (たさき まさこ)
一年六組。真咲と同じクラス。あだ名がよっちゃん。
リコ
中学校時代の笈川真咲の取り巻きの一人。
工藤志津子 (くどう しづこ)
裕美や陽向と同じ一年三組。「夢キス」事件の書き込みをした人。
龍馬
太刀川先輩の飼い犬。柴犬。道端に落ちていた毒の餌を食べて死亡した。
南野太陽 (みなみの たいよう)
陽向の兄。ハンサムだが変人。
林原伊織 (はやしばら いおり)
林原詩織の兄。ハンサムだが変人でシスコン。




