猫と和解せよ 3
「うひゃあ……」
まるでお寺のような大きな門。
塀も何軒分も伸びている。
いいところのお嬢さまだとは聞いていたけれど。家老を務めることもあった長岡藩士直系の子孫だとは聞いていたけれど。
高校に入って初めての日曜日。
陽向はごくりとつばを飲み込んだ。
剣道部の太刀川琴絵先輩から陽向の家に電話が来たのは金曜のことだった。
「日曜日、そちらに伺ってもいいだろうか」
用件は察しがつく。
なぜ剣道をやめたのか。
「いえ、それならおれ――私が先輩の家に伺います」
「私が陽向に聞きたいことがあるのだ。私から伺うのが筋というものだ。陽向の家の近くの喫茶店でいい」
「不義理をしたのは私です。私が伺います」
久々に「私」を使ったな。陽向は思った。
こんな門にもインターホンがついている。
それどころか犬の登録シールまで貼ってある。
もちろん「太刀川」という表札も掛けられているが、昔は表札を出すことはなかったそうだ。そんなことを裕美が言っていた。混乱して脈絡のないことまで考えてしまう。恐る恐るインターホンを押すと、お手伝いさんとか厳格そうなお母さんとかではなく、先輩本人が出てくれた。助かった。
「陽向、よく来てくれた」
でも先輩の姿に陽向はまたギョッとしてしまう。
太刀川先輩はあざやかな和服姿だったのだ。
「普段着じゃない」
陽向の視線と戸惑いに気づいたらしい先輩が言った。
「訪問客があるから、それなりのものを選んだんだ」
つまり、普段着が和服なのは間違いないのですね。
先輩の訪問を固辞して良かったと陽向は思った。こんな姿でうちの近所を歩かれたら、近所のおばさん連中の間でしばらくはフェスティバルだ。
「ひどいな、私は」
独り言のように先輩が言った。
「まだ間もないというのに、こんな浮かれた格好をして。おまえが家に来るというから」
玄関の戸を閉める時に陽向の目に入ったのは、広い庭にぽつんと置かれた犬小屋だ。
太刀川先輩がお茶を点てている。
先輩に案内されたのは先輩の部屋ではなく、四畳半の茶室だった。
茶道なんかまったく知らない。こんなことならせめてファミレスとかにしてもらえば良かった。泣きたい気分で今度はそう思ってしまう陽向だ。
「そう構えるな。私とおまえだけだ。よほど変だったら教えてやる。こういうのを体験しておくのも悪くないだろう?」
先輩はそう言うのだけど。
「クレーシェルのミルフィーユじゃないか。茶に合う」
陽向の手土産も喜んでくれたが、社交辞令だろうか。
それにしても先輩の所作がきれいだ。作法、そして和服までもが生活の一部だからだろう。もしかしたら剣道をしているのもあるかもしれない。動きに少しも無駄がなく、小気味いい。
笈川真咲とは違う方向性の美女だよな。
いつの間にかそんなことを考えてしまう。
中学の頃から女子にすごい人気だったし。ていうか、おれは今日、たしか詰問され叱られるために来たんだよな。なんだか調子が狂う。
陽向の前に茶碗が置かれた。
「おまえはすこし、雑念が多いようだ」
見透かされたようで、陽向は頬を染めた。
おそるおそる茶碗に手を伸ばしたら、「右手で持つ」「左手に乗せる」「茶碗は自分のほうに回す」「茶碗を回すのは、茶碗の正面に口をつけるのを避けるためだ。そう覚えておけばいい」と、次々と簡潔な言葉が飛んできた。稽古をつけて貰っているみたいだな。少し懐かしい。指示通りにして一服飲んだところで先輩が言った。
「陽向」
来た。
陽向は覚悟した。
「今の生徒会長にむりやり引きずり込まれ、私は生徒会役員をしている。迷惑な話だが、しょうがない」
あれ、話題が違う?
先輩が合わせた胸もとから取り出したのは一枚の紙だ。
うわっ!
陽向は目を見張った。
それ、ほんとにやるんだ! 時代劇以外ではじめて見た! 生で見ちゃった!
先輩はその紙を畳に置き、すうっと指で陽向の前に押した。
その紙を手にするのに、なぜか指が震えた。今まで先輩の胸にあった紙だ。ほんのり温かい。気がする。やばい。そうなると、この狭い茶室で和服美女と二人っきりでいることを急に意識してしまう。
やめろ!
妄想はやめろ、南野陽向!
「見ての通り――見てるのか? どうした、陽向」
「あ、はい。はい、見ます。いま見ます」
「雑念が多い。おまえは剣道を続けるべきだった」
ごめんなさい。
同好会設立願い
同好会名:ミステリ研究会
賛同者――
陽向は顔を上げた。
「これは……」
「提出してきた。おまえのクラスの――」
「オカメインコ」
「ああ、そんな感じの子だった」
あいつ、コミュ障だとかディスタンス感がどうのとか自分では言っているくせに、ほんと、行動力まですごいじゃないか。
「賛同者が四人で、五人必要という規定に足りない。顧問も確保していない。その場で却下だが、そこにおまえの名前がある」
「はい」
入った覚えはないんだけどな。
「私は人のすることに口を挟みたくない。ただ聞きたい。それが、おまえが剣道をやめた理由か?」
ああ。
本題はやはりこれだった。
陽向は姿勢を正し、真っ直ぐに太刀川先輩を見つめた。
「違います」
先輩も陽向を真っ直ぐに見つめてきた。
「では言ってみろ。なぜおまえは剣道をやめたのか。中学からだとはいえ、私はおまえに期待していたんだ」
「私の友人がいじめにあいました」
陽向が言った。
「去年のことです。気付きませんでした。私は彼女を守りたいと思いました。今はいじめはないと思います。だけどこの先ずっと彼女を守りたいと思いました。一生でもいい。どんなことがあっても彼女を守りたいと思いました」
話しながら、陽向の気持ちは鎮まっていく。
はじめてこれを口にする相手が太刀川先輩でよかったと思った。
「裕美は死にたいとまで言いました。おれは絶対に許されない。おれはどんなことだってするんです。だから剣道をやめました」
「剣道となんの関係がある」
「段がとれそうだったからです」
はっと先輩が眼を見開いた。
「おれが剣道をしていた過去は消せません。でも中学からです。ただの部活動です。それが、人より遅いとはいえ段をとってしまったらもう言い訳できません」
「――大馬鹿ものッ!」
太刀川先輩の大喝が陽向を震わせる。
「おまえは剣道をなんだと思っているッ!」
陽向は眼を閉じない。
「上には上がいる。先輩を見てそう思いました。でも、裕美を守るためにはおれは負けられない。だからそんな時には怪我をしてやるんです。今度裕美をいじめるヤツが暴力を伴ったなら、おれは一方的に殴られて、怪我をして、そいつを巻き添えに退学になってやるんです。その時に段は邪魔なんです」
「――陽向ッ!」
「はいッ!」
「……」
先輩は陽向から目を逸らした。
そして胸元から今度は懐紙を取り出し、陽向へと差し出した。
「肯定はしない」
先輩が言った。
「おまえの考えはわかった。いい加減な気持ちで剣道をやめたんじゃないともわかった。だが、大変なことになりそうだったら私に相談しろ。その前でも私に相談しろ。いいか、ひとりで背負い込もうとだけはするな」
「はい、ありがとうございます」
「陽向」
「はい」
「頼むから涙を拭いてくれ」
「はい、ありがとうございます」
陽向は目を擦り、懐紙を受け取った。
「そのゆみさんは、いじめられやすい子なのか?」
「いえ、それがぜんぜん。それに今でもいじめられる前と変わらない、のんき――ハムスター――ええと――まあ、ほんわりとした子です」
この紙(懐紙)も、先輩の胸にあったんだよな。
すでに陽向の頭には妄想が戻ってきていたりする。
いい匂い。
うふふ。
ていうか、おれ、冷静なつもりで名前まで出しちゃったんだ。ごめん、裕美。
「その『おれ』も、ゆみさんのためか?」
「自分を名前で呼んでるような幼さじゃ、人を守れません。身長ももっと欲しいです」
「一生そうするつもりか?」
「裕美の前に白馬の王子さまが現れるまでは、こうしているつもりです」
「佐々木裕美」
えっと、陽向は顔を上げた。
先輩はオカメインコ高橋さんが提出したという紙を手にしている。あっ、そうか、そこに裕美の名前も書いてあるんだ。
「ふうん、ミステリ研究会か」
苦笑なのか、悪戯めいてなのか、太刀川先輩が微笑んだ。
「なあ、それだったら私の謎も解いてくれないか」
「えっ」
「見事に私の謎を解き明かしてくれたら、そのミステリ研究会に力添えしてやってもいいぞ」
どうだい?
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。安楽椅子探偵。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
美芳千春先生 (みよし ちはる)
保健室の先生。藤森先生の友達。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
一年三組暫定委員長。裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。
太刀川琴絵 (たちかわ ことえ)
五十嵐浜高二年生。中学生の頃から県大会常連の剣士。生徒会副会長だが立候補した覚えはない。
田崎真佐子 (たさき まさこ)
一年六組。真咲と同じクラス。あだ名がよっちゃん。
リコ
中学校時代の笈川真咲の取り巻きの一人。
工藤志津子 (くどう しづこ)
裕美や陽向と同じ一年三組。「夢キス」事件の書き込みをした人。
龍馬
太刀川先輩の飼い犬。柴犬。道端に落ちていた毒の餌を食べて死亡した。
南野太陽 (みなみの たいよう)
陽向の兄。ハンサムだが変人。
林原伊織 (はやしばら いおり)
林原詩織の兄。ハンサムだが変人でシスコン。




