お弁当はみんなで 解決編
「ふうん、私が毒入りお弁当を?」
4人掛けの席ふたつ。
片方は図体のでかい二組のきょうだいが占領しているので、艶ぼくろの広瀬川ひとみさんはもう片方の席に座った。隣で妹の広瀬川まゆみさんが蒼白な顔でぶるぶる体を震わせている。
イスラムワッチのマスターがひとみさんのコーヒーを運んできた。
「あのお弁当が、そこまでのセンセーションを起こしていたのか。おまえも父も完食していたようだから不思議ではあったんだ。私は、もったいないことだと申し訳なく思いながらも捨ててしまったのだがな」
「えっ」
まゆみさんが顔をあげた。
「自分は捨てたの!?」
「人類の味覚に耐えうる味ではなかった」
「ずるい!」
「それで、今日のお弁当はどうした」
「えっ、あ、その、ええと……」
「簡潔かつ明確に答えることができる質問だと思うが」
こわい。
なんだかこのひとこわい。
兄貴ズのおびえが理解できた陽向たちである。
「ごはんだけ食べて、おかずは残しましたっ!!」
まゆみさんは涙目だ。
「そこにまだあるか」
「ありますっ!!」
「出せ」
まゆみさんがバッグから出したのは例の二段重ねお弁当箱だ。陽向たちは学校で見せてもらったが、おかずの段は見事なものだ。ひとみさんは、そのうちの鶏の唐揚げを指でつまんで口に放り込んだ。
「あっ」
「あっ」
何人かが声をあげてしまったのは、やはり、実際はどうであれ「毒入りお弁当」と聞かされているからだろう。
「南野、林原」
陽向に詩織さんも反応しそうになったが、もちろん背筋を伸ばし斜め上に視線を固定し、「はいッ!」と声を張り上げたのは兄貴ズだ。
「おまえらも食べてみろ」
「はいッ!」
「はいッ!」
ひとみさんも食べたのだから同じ唐揚げならだいじょうぶだろう。まだピンピンしてるのだから少なくとも即効性の毒物ではないだろう。太陽と伊織は残りの唐揚げを指で割ってそれぞれ食べた。
「ありゃ、うまい」
太陽が言った。
「ほんとだ、うまい」
伊織も言った。
えっ?と、まゆみさんは目を丸めている。
「時間があるなら、これからウチに来い。私の車じゃ全員乗れないから、そこの男三人は走れ。南野に林原、ウチは知っているだろう?」
伝票とキーを手にひとみさんが言った。
全員の沈黙の後、陽向ががばと立ち上がった。
「おれも走るんですか!?」
広瀬川家のキッチンは、八畳大のダイニングキッチンだ。
イケメンのツープラトン攻撃から解放されたからかどうか、元気を取り戻したオカメインコ高橋さんが目を輝かせてキョロキョロと楽しそうに眺めている。
「すごくきれいにしてますねっ!」
「清浄を保つのは基本だ」
「ところで、これはなんです?」
高橋さんが調味料入れを手にとった。
「……」
ひとみさんは高橋さんをじっと見つめ、そしてまゆみさんに声をかけた。
「まゆみ。ここに入ってきたばかりで彼女はすぐに気づいた。おまえは毎日ここにいて気づかなかったのか」
「えっ、えっ!?」
まゆみさんは林原さんと裕美の後ろに隠れてオロオロしている。
「オカメインコのような君」
「だから、そのオカメインコってなんですかっ!」
「それは、ソジウム・クロライドと読む」
高橋さんが手にした調味料入れには、アルファベットと化学式が書かれた付箋がつけられているのだ。よく見れば、キッチンのそこら中に付箋が貼りつけてある。
「毒だよ」
ひとみさんが言った。
「致死量は、体重1キロあたり0.5~5g。大量摂取による中毒は頭痛、嘔吐、腹痛、意識障害を起こす。継続的に過剰摂取すると高血圧――」
ワン!ワン!ワン!
広瀬川家の犬が外で騒ぎ出した。
「塩ですね」
「塩かな」
裕美と林原さん、そして。
「塩だよ」
ぜいぜい。
ダイニングキッチンの窓を開け、陽向が同時に言った。
「若いな。もう到着したか」
「玄関の鍵くらい開けておいてください!」
「防犯上問題がある」
「窓は開いてるじゃないですか!」
「そういえばそうだ。以後気をつけよう。南野に林原はどうした」
「います……」
「います……」
死にそうな声が聞こえてきた。
毎日購買へのダッシュで鍛えている陽向の全力疾走に付き合わされ、大学生二人はだらしなくぶっ倒れて犬にペロペロと顔をなめられている。
「ソジウム・クロライド」
裕美が言った。「NaCl、塩化ナトリウム――塩です。塩だって一度に大量に摂取すると毒なのです」
「水をください……」
「水をください……」
兄貴ズの懇願に、ひとみさんはすまし顔だ。
「わかるように言ってくれ」
「H2Oだっ!」
「一酸化二水素、ジヒドロゲン・モノオキシドだっ! そう言わなきゃわからんのか、あんたはっ!」
クスリと、ひとみさんが笑った。
「陽向りん、よく見ておけ」
「りんってなんだ」
陽向の横に太陽が立った。腕には広瀬川さんちの犬だ。
逆の側に立ち、伊織が言った。
「あの白衣の魔女が笑うのは数年に一度らしい。おれたちはもしかしたら、月蝕なみの稀少現象を観測できているんだぜ」
「このジヒドロゲン・モノオキシドだって、大量摂取すると中毒を起こすんだぞ」
コップに水道の水を注ぎながら軽やかにひとみさんが言った。
理系は料理がうまいとオカメインコ高橋さんが言った。
レシピ通りの手順を守り、きっちりと量るからだ。
しかし広瀬川ひとみさんの場合、突然であったためにレシピの読み方がわからなかった。独特の用語にも困ってしまった。それでできあがったお弁当は、見た目は整っていたものの味に関してはとてつもない化学反応を起こしてしまったらしい。
「味見は?」
「確立されているレシピの再現性を信じた。そもそもできあがりの味を知らない」
大学で自分のお弁当の酷さを確認したひとみさん。
理系魂を発揮して、料理というか「レシピ」を徹底研究し、そしてキッチンは付箋の森になってしまったのだという。以後、失敗はない。さすがに「塩」「水」までいくと冗談なのだと思いたいが、「それもありうる人だ」とは兄貴ズの証言である。
「あれ?」
陽向が言った。
「でも、髪が抜けたというのはどこにいった?」
「ひなたちゃん。広瀬川さんは『毛』が抜けたと言ったのです」
裕美が言った。
陽向は裕美の顔を見て、そして隣の太陽の腕に抱かれた人懐っこそうな犬を見た。
――犬!?
「うん、うちの柴太郞、この春はすごい毛が抜けるの。もうびっくり!」
まゆみさんが言った。
あなた、そんな雑談を「殺される」って話題に混ぜたのですか!?
「じゃあ、お米を捨てたというのは……」
「それも――」
「ああ、そんなこともあったな」
裕美の言葉に被せ、ひとみさんが言った。
「まゆみ、米を研いでみろ。ただし、今日は一合だけだ」
「研ぐって?」
「米を洗うことだ」
「なーんだ」
「今日は怒らない。おまえの好きなように研げ」
そのやりとりで、すでに何人かには予想がついたようだ。まゆみさんは鼻歌を歌いながら炊飯器のお釜にお米を一合入れ、そして手にしたのは食器用洗剤なのだった。
どぼどぼどぼ。
全員が心の中で突っ込んだ。
犯人はおまえだーー!
「こんにちはー…。はじめまして、おじゃましまーす……」
人の多さに戸惑いながらも、広瀬川家のダイニングキッチンに顔を出したのはおにぎりの魔術師知久多佳子さんだ。
「あ、いらっしゃい、知久氏!」
オカメインコ高橋さんは、すっかりこのキッチンの主となってしまっている。
「知久氏はクッキーの焼き方でしたねっ」
「あ、はい。でも私、お菓子を作った事がなくて……」
「簡単ですよっ。はじめてならホットケーキミックスを利用すればいいんです。慣れてからいろいろ試すといいですよっ」
なんともしまらない解決編の後ではじまったのは、高橋さんによる料理教室だ。
「体積表示とグラム表示が混在しているのはイラっとする。そもそも『少々』とはなんだ。ミクロスパーテルで量ってはいけないのか」
きっかけは、ひとみさんのそんな一言だ。
「少々は少々ですよ。指でつまむくらいです。やってみせましょうか?」
「すまないが、米を洗剤で洗う馬鹿妹にも少し常識を教えてやって欲しい」
「ううう」
その流れの中で裕美は知久さんのことを思い出したのだが、連絡先がわからない。
「知久氏のメールならわかりますよ。OKしてくれたクラス全員とメアド交換してますから」
そうだっけ。
「でも、まだ一通も着信ないんですけど。あははっ」
抱きしめたい。
そこにいた全員が思った。
「ごめんなさい」
持ってきたエプロンをつけている知久さんに裕美がささやいた。
「勝手に、料理初心者だけどクッキー作ってみたいって知久さんが言ってたって話にしちゃいました。休み時間にクッキーならそれほど大食いキャラってわけじゃないし、手作りならお小遣いの範囲で済みますよね」
「うん、ありがとう、佐々木さん!」
おや、あっしの名前を覚えてくれやしたね、お嬢さん。
裕美もにっこりと微笑んだ。
でかい兄ズと陽向は邪魔なので外に追い出され、足りない材料の買いだし係だ。「了解、ホットケーキミックスね」メモが届き、今度は太陽が広瀬川家のママチャリを駆る。陽向はもっぱら柴太郞の遊び相手だ。
「やってもらうと、レシピだとわかりにくいところがよくわかるな」
ひとみさんが言った。
オカメインコ高橋さんは楽しそうだ。
「おや、にぎやかだね」
帰宅した広瀬川父も顔を出した。
窓の外には細長い月。
五十嵐浜高校の理科棟最上階で、毛布にくるまりコーヒーをすすっているのは長身の女生徒だ。毛布の端で子猫が二匹、コロコロと遊んでいる。
※ミクロスパーテル:耳かき。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。安楽椅子探偵。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
美芳千春先生 (みよし ちはる)
保健室の先生。藤森先生の友達。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
一年三組暫定委員長。裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
知久多佳子 (ちく たかこ)
クラスの最後列、裕美の隣の席の子。
広瀬川まゆみ (ひろせがわ まゆみ)
納豆少女。
広瀬川ひとみ (ひろせがわ ひとみ)
納豆少女の姉。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。
太刀川琴絵 (たちかわ ことえ)
五十嵐浜高二年生。中学生の頃から県大会常連の剣士。生徒会副会長だが立候補した覚えはない。
南野太陽 (みなみの たいよう)
陽向の兄。ハンサムだが変人。
林原伊織 (はやしばら いおり)
林原詩織の兄。ハンサムだが変人でシスコン。