お弁当はみんなで 4
そろそろおなかが減ってくる四時間目。
知久多佳子さんが机の中に両手をいれてごそごそとなにかをはじめた。彼女の席は教室の最後列だ。だから誰もそれに気づかない。
机から出された知久さんの手には、半分だけラップが外された小さめのゴマのおにぎりが握られている。知久さんは先生の様子を確認し、すばやくおにぎりを口に放り込み、ラップは丸めて机の中に戻した。
イリュージョンだ。
BGMは、古典の先生が朗読する清少納言である。
片手で口を隠し、軽く咀嚼して飲み込み、そしてやっと気配に気づいたらしい。知久さんはゆっくりと視線を横に向けてきた。
「……」
「……」
ばっちりと。
知久さんのイリュージョンを隣の席で堪能していた裕美とばっちり目が合ってしまったのだった。
「裕美がいない!」
いつも通り血涙とともにコロッケパンと牛乳パックを手に教室に戻ってきた陽向は驚愕した。ああ、幻の卵サンドパンはどこに。そうじゃない。
「ああ、そういえばいませんねえっ」
「知久さんに手を引かれて出ていきましたよ」
オカメインコ高橋さんと委員長林原さんは高橋さんの席でお弁当を広げてのんびりしたものだ。君たちは知らないんだ! おれが裕美を守ってあげなければならないんだ! てか、知久ってだれ!
「あの、南野さん。パンが握りつぶされて大変なことになってます」
林原さんは相変わらずフタでお弁当を隠している。
「あれ、納豆の匂いがしませんかっ……?」
高橋さんが言った。
「裕美さんの保護者である陽向ちゃんからメールです。『どこにいる』『ぜったい救う』『モップ持っていく』。そろそろ戻らないと血を見るかもしれません。陽向ちゃんは剣道経験者なのです。ところで」
目の前には屋上の塔屋の戸を必死に開けようと頑張っている知久さんがいる。
4時限目の授業が終わった直後、裕美の手を引いて教室を飛び出した知久さんはまず女子トイレに飛び込み、しかしそこは密談には向かないと悟ると階段を昇ってこの塔屋にきた。しかし屋上への戸は施錠されている。
「この『納豆!?』というのはなんでしょうか」
裕美が言った。
「わああああ!」
知久さんは開かない戸にすがりつき、そしてぴょんぴょんと頭を下げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
とりあえず落ち着こうや、お嬢さん。
「今日はゴマのおにぎり。昨日は海苔のおにぎり」
びくっと知久さんが体を震わせた。
「その前は……」
「とろろ昆布のおにぎり……」
あっさりと誘導尋問にひっかかる知久さんである。
「そんなに前からおにぎりを食べてたんですか、四時間目の授業中に」
知久さんは顔を真っ赤にさせてうつむいている。涙目かもしれない。
「……鳴るんです」
「はい?」
「私、鳴るんです。おなかが。四時間目になると」
「はあ」
「大食いってわけじゃないし、ダイエットは考えてはいるけどごく普通の範囲でだし、朝ごはんはちゃんと食べるようにしているし、でも鳴っちゃうんです。中学の頃からなんです。きっと体質なんです。嫌なんです。恥ずかしいんです!」
まあ、それはわかる。
裕美も昨日、盛大におなかが鳴ってしまってものすごく恥ずかしかったのだし。でも。
「だったら、授業中なんて危険なことしなくても、四時間目の前の休み時間に食べればいいじゃないですか」
「そんなん、早弁やろうって言われちゃうじゃないですか!」
おまえはなにを言っているんだ。
「私、おとなしくて引っ込み思案な子なんですよ。それがいつも意味もなくニコニコ笑ってるカレーとなぞなぞが大好きなキャラになっちゃうじゃないですか!」
だから、おまえはなにを言っているんだ。
だいたい、授業中の早弁が見つかってしまうほうがインパクトあると思うのですが。
「だったら、お菓子とか。陽向ちゃんのように牛乳パックでも」
「それはアリかなと少し思ったのですけど」
検討済みだったのですか。
「私のお小遣い五千円なんです。きついです!」
なんてえわがままなお嬢さんなんだい。
「今は最後列だからいいけど、席替えしたらどうするのです。後の人には気づかれちゃうと思いますよ」
「それは……」
知久さんはグッと拳を握り締めた。
「ひたすら修練あるのみです!」
ほんとうに、おまえはなにを言っているんだ。
「お母さんと相談して、毎日おにぎりのお弁当にして、おにぎりの一個だけラップに包んでもらうようにしたんです。そうすれば授業中にさっと食べられるし、手も汚れないんです。すごく助かってます。おかげで高校生になってからおなかが鳴ることもなくなったんです。――お願い!」
知久さんは手を合わせて拝んできた。
「~~さん。このことは誰にも言わないで!」
お嬢さん、今、あっしの名前を言えずに適当にごまかしたね? まあ確かに、目立ちたくないとステルスモードに入っている裕美さんですけども。
裕美は苦笑を浮かべた。
手を引かれて教室出たときにはどうなっちゃうのかと思ったけど、意外な乙女の問題でした。荒ぶる陽向ちゃんの出番もないようです。裕美は「密談終了。女の子同士の約束で陽向ちゃんにも他言できません。今戻ります」とメールを打った。陽向から返ってきたのは、また「納豆!?」だった。
「この教室……」
教室に戻った裕美が眉をひそめて言った。
「納豆の匂いがしませんか……?」
自分の席に横に座り、いつも通り牛乳パックのストローをくわえて陽向は体を小刻みに震わせている。裕美はお弁当を手に空き机に座った。陽向だけじゃない。教室の空気がおかしい。
裕美は知らない。
お弁当に納豆を持ち込んだツワモノがいたことを。
角田浜中学出身、広瀬川まゆみさん。今は自分の机に突っ伏している。
特別エキセントリックという子じゃなかった。まだ数日の付き合いでしかないけれど、目立つ子でもなかった。その広瀬川まゆみさんはお弁当箱をひろげると豪華なおかずには目もくれず、どこからともなく納豆をとりだしたのだ。そして納豆を練り始めたのだ。念入りに練ったのだ。
やがてタレとカラシを投入。
さらに練ったのだ。
高校って、やっぱり中学とはスケールが違う。超然と納豆を練りまくる広瀬川さんの姿に、なんだかよくわからない感動を覚えた陽向たちなのだ。
「たかがお弁当でも、いろいろあるよな……」
いつも通りの玉手箱のようなお弁当をつつき始めた裕美を眺め、陽向は思った。
着信があったようだ。
陽向はスマホを取り出し、そして顔を激しく歪めた。
「太陽ちゃんですか?」
「うん」
ホームズのように読み取ってしまう裕美だ。
南野太陽。陽向の実のお兄さんである。
『やあ、陽向。麗しのお兄ちゃんだ』
うぜえ。
『ねえ、お兄ちゃんもこんなん作ろうか。食べてくれるかな、陽向ちゃん』
うるさい、死ね。
なにを作るって言うんだ。おれ専用の携帯型原子炉か? 欲しいけど食べないぞ。
不機嫌そうに半眼でスマホを眺めていた陽向の眼が、突然、ぱあっと見開かれたのを裕美は見た。そして顔を上げた視線の先にいるのは委員長林原さんだ。相変わらず眉間に皺を寄せて蓋でお弁当を隠している。視線を感じたらしく、林原さんも陽向に目を向けてきた。
陽向の口がパクパクと動いている。
「共食い」
やがて陽向はそう口にした。
聞こえたのかどうなのか、林原さんの眼もまた突然ぱあっと見開かれた。そして冷静沈着、纏う空気まで違うと言われる彼女が上げた悲鳴は長く語り草となる。
「きゃーーーーーあああーーー!」
陽向のスマホに表示されていたのは、林原さんそっくりなキャラ弁なのだった。
「似てますね……」
放課後の空き机はミステリ研の部室に変わる。
陽向からスマホの画像を見せてもらったオカメインコ高橋さんが言った。
「似てない!」
林原さんは激怒中。
「私、こんなに大きな目をしてないし、頬染めてない!」
今は真っ赤ですよ。
南野陽向の兄、太陽。
林原詩織の兄、伊織。
ふたりは同じ大学の工学部の学生で、しかも親友同士だったのだ。伊織が自作の妹萌えキャラ弁を自慢したらしい。
「どうやら地球公転軌道が狂いますね、陽向ちゃん」
「この頃、異常気象が続くはずだよ……」
「うふふ」
と、嬉しそうに笑ったのは高橋さんだ。
「このお弁当、ものすごく手間がかかってますよ。それに、きっと美味しかったんじゃないですか?」
「美味しかったけど……恥ずかしかっただけで……」
「理系の人はきっちり準備して分量も正確に量るので、あんがい料理が得意なんですよ。それと、この似顔絵作ったあとの残りの材料は……」
「兄が自分のお弁当に入れてる」
「でしょう。すごくいいお兄さんですね」
へえ、と陽向と裕美は思った。
自分ではディスタンス感が掴めないとか言うけれど、高橋さんって、ものすごく気遣う想像力と共感力のある人じゃないか。それに、どうやらやっぱり彼女の素敵なお弁当はお手製だったんだな。
「……そりゃ、感謝してる」
林原さんが言った。
「だいたい私は、両親の希望に逆らって受験を失敗しちゃった子なのよ。そんな私が今でもあの家にいられるのは兄の無邪気さのおかげでもあるんだもの……」
「太陽ちゃんが作る陽向ちゃんのキャラお弁当も見てみたいです」
裕美が言った。
「おれの負けざる魂のすべてをもって拒否する」
陽向が言った。
「あれっ」
と、裕美が空き机を覗き込んだ。
「物騒なことが」
「え?」
みなが空き机を覗き込んだ。裕美の指の先に新しい書き込みがある。
どうしよう お姉ちゃんに殺される
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。安楽椅子探偵。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
美芳千春先生 (みよし ちはる)
保健室の先生。藤森先生の友達。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
一年三組暫定委員長。裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
知久多佳子 (ちく たかこ)
クラスの最後列、裕美の隣の席の子。
広瀬川まゆみ (ひろせがわ まゆみ)
納豆少女。
広瀬川ひとみ (ひろせがわ ひとみ)
納豆少女の姉。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。
太刀川琴絵 (たちかわ ことえ)
五十嵐浜高二年生。中学生の頃から県大会常連の剣士。生徒会副会長だが立候補した覚えはない。
南野太陽 (みなみの たいよう)
陽向の兄。ハンサムだが変人。
林原伊織 (はやしばら いおり)
林原詩織の兄。ハンサムだが変人でシスコン。
 




