五十嵐浜高7不思議 6
雪がちらつく中で、その少女は泣いていた。
目を閉じ、唇を噛み、涙は彼女の頬を落ちていった。
高専の合格発表。
彼女の受験番号はそこになかった。
「きゃああーーーーーーーッ!」
暗くなった校舎に悲鳴が響き渡った。
しまった。
陽向は悲鳴が聞こえてきた学年棟へと振り返った。
血が噴き出す蛇口に関係ない人を巻き込んでしまった。
薄暗い廊下を剣道着姿の人影が近づいてくる。しかし陽向は走り出した。裕美と高橋さんもそのあとを追った。
玄関ホールは二階までの吹き抜けで、南側は全面がガラス窓になっている。そこを走り抜けるとき陽向は視野の端に人影を見た気がした。中庭を挟んで建つ理科棟。その最上階の廊下に人影がある。
もうすぐ全校退校時間だぞ。
そんなところにいて間に合うのか。
陽向の全身をゾッと悪寒が走った。
――深夜に校舎を歩く自殺した生徒
陽向は頭を振り玄関ホールを駆け抜けた。
学年棟からの渡り廊下を走ってくる一年の体操着姿の生徒がいる。その生徒は陽向を見て奥を指差した。
「血が! 血が!」
「こらあッ!」
大きな声が響いた。
「おまえたち、なに騒いどるッ! とっくに下校してなきゃならん時間だぞッ!」
体の大きな男性教師が管理棟の階段を駆け下りてきた。迫力だ。陽向は立ち止まった。一年棟の水飲み場を確認したいが、これではさすがに動けない。
「おっ、なんだ、太刀川、おまえまで」
えっと陽向は振り返った。
同じように立ち止まってしまっている裕美と高橋さんを通り越して歩いてきたのは、剣道着姿にバッグと竹刀を手にした生徒だ。
「大きな声が聞こえたようですが」
剣道着姿の少女が言った。
「騒いでいたので早く下校しろと叱ったところだ。おまえもだ、太刀川。もうすぐ全校退校時間だ。着替えとる時間はないぞ」
「このまま校舎を出ます。いつものことですから」
「しょうがないヤツだ。練習熱心なのはいいが……」
「先生」
と、剣道少女が言った。
「そこの一年生は私の後輩です。あとは私に任せていただけますか」
「早く校舎を出ろよ。あと10分もないぞ」
ブツブツいいながら男性教師は階段を戻っていった。
「陽向」
剣道少女が言った。
「そこの子たちも。全校退校時間だ、校舎を出るぞ。忘れ物があってもあきらめろ」
剣道少女は背を向け、さっさと歩き出した。
「誰です」
裕美が陽向に囁いた。
「太刀川琴絵――先輩。剣道部の先輩で、県で指折りの剣士だよ」
陽向が言った。
カバンを手に校庭に出ると、袴姿に革靴の太刀川先輩が待っていた。
学校指定のものよりひとまわり大きなバッグには、教科書の他に制服も納められているのだろう。そして竹刀袋。いつも全校退校時間ぎりぎりまで稽古して、この姿で下校しているのだろうか。らしいや、と陽向は思った。
太刀川先輩が睨み付けてきた。
「陽向」
覚悟はしていたが、やはり怖い。
「血が出てきたんです、蛇口から!」
陽向が返事をする前に、体操着姿の生徒が言った。
太刀川先輩は眼を細めた。
「ほんとうです! ボコボコって! 真っ赤なのが! 嘘じゃないんです!」
「なんの話だ、陽向」
陽向は体操着姿の生徒の肩に手を置いた。
「疑ってないよ。おれたちは」
「おれ?」
太刀川先輩に聞き咎められたが、陽向は目を伏せて返事をしなかった。
「そこの子」
太刀川先輩が言った。
「家まで帰ることができるか。この通り目立ってもいいなら私が送ってもいいが」
「えっ、いえっ、だいじょうぶです。びっくりしただけですから。あの、あれってなんでしょうか。ボコボコって」
「知らんよ。そこの陽向がなにか知っているようだから聞けばいい。――陽向」
「はい」
「五十嵐浜に来たのはわかっていた。私はいつおまえが剣道部に顔を出すのだろうと待っていたんだ。道場にも誘ったな?」
「申し訳ありません」
「剣道をやめたのか?」
「やめました」
ぐっと太刀川先輩は顔を歪め、背中を向けた。
「行けッ! 話はあとで聞くッ!」
陽向は深々と頭を下げ、体操着の生徒の手を引いて歩き出した。裕美と高橋さんもなんだかそうしなければいけない感じがして、太刀川先輩の背にお辞儀をしてから陽向のあとを追った。太刀川先輩は背を向けたまま動かない。
「私たちより前に彼女は外に出たようです。一年棟の影にいます。見ないようにしてください、陽向ちゃん」
校門を出たところで裕美が囁いてきた。
「あ、うん」
陽向は一年棟へと顔を向けかけ、あっと元に戻した。そこに陽向を見上げる体操着の生徒の顔がある。近い。
「うわっ、あっ、ごめん!」
陽向は慌てて握っていた手を放した。
体操着の生徒は握られていた手を見て「えへへ」と頬を染めて喜んでいる。
「それで――ごめん、思い出したくないのならごめんね。確認したいのだけど、蛇口から血が出たのかな」
「あっ、うん、ぜんぜんだいじょうぶ! 驚いただけだから! でもほんと驚いちゃったー!」
タフな人らしい。
「部活動を終えて――あ、私、はじめからバレー部に入るつもりだったからもう練習に参加させてもらっているの。それで帰ろうとしたんだけど、忘れ物に気づいて慌てて教室に戻ったの。久々に体を動かしたからのどが渇いて、もう一度水を飲もうって蛇口ひねったら――」
「ボコボコ?」
「そう、ボコボコって」
「夜になると血が噴き出す一年棟水飲み場の蛇口――そのままですねっ」
高橋さんが言った。
「え、なにそれ?」
高橋さんはスマホで七不思議が書かれた机の画像を見せた。
「わあっ! あれって五十嵐浜七不思議なの! 私、七不思議に遭遇したんだ! きゃあ、やだ、その画像ちょうだい。拡散しなきゃー!」
どうやら、ショックを受けてないか心配することはないようだ。
「はい、先生からは以上です。それでですねー」
朝のホームルーム。
今日も語尾にハートがついていそうな藤森先生だ。
「水飲み場がにわかに人気スポットになっているようですが、なにがあったのでしょうー」
裕美や高橋さんとメッセージアプリで相談していつもより早めの電車で来たのだけど、水飲み場にはもうなんの痕跡も残っていなかった。空き机の七不思議の書き込みも消されていた。
「ボコボコって、見てみたかったですねえっ!」
高橋さんは残念そうだ。
「どうやって赤い色をつけたのかなっ。注射器とかで蛇口からっ?」
それだと一瞬で終わるし、錆かなと思われるだけで劇的な演出効果は期待できないだろう。彼女は「ボコボコ」と言ったんだ。
昨日の体操着の彼女は本当に七不思議の画像を拡散したらしい。休み時間に音楽室に行ってみると、生徒が何人か集まってベートーヴェンの肖像画の前で騒いでいる。
「動いている、目が動いてる!」
「きゃあ、ほんとだ、動いてる!」
絵やポスターの人物の視線が追いかけてくるように見える。
それはモナリザ効果という既知の錯覚だ。
「水道に赤い色を仕込む手段を思いつく人なら」
裕美が言った。
「うん。モナリザ効果よりもっと確実な方法で目を動かすだろうね」
陽向が言った。
この調子だと、太刀川先輩の居残り稽古も「夜の体育館で聞こえる剣道部員の声」として怪異の仲間入りしてしまうのだろう。そして。
陽向の全身をまた悪寒が走った。
そうだ。
全校退校時間に理科棟からおれたちを見下ろしていたあの生徒はいったい――。
「ねえ、陽向ちゃん」
裕美が囁いてきた。
美術部は運動部と違って遅くまで活動していない。五時になれば帰りはじめるし、六時すぎともなれば美術室には誰もいなくなる。
その薄暗い美術室に入ってきた生徒がいる。
その生徒は美術室のうしろのほうに固めておいてある額縁の中からひとつを取りだした。そこには絵が貼られている。モナリザの複製画だ。
「来たね」
はっと、生徒は振り返った。
机の陰から立ち上がったのは陽向だ。
「裕美に言われて昼の購買ダッシュのついでに確認させて貰った。そのモナリザの目、よくできているね。さすがだよ」
「……」
「ベートーヴェンは目くらまし。もしかしたら本当にベートーヴェンの目を動かすつもりだったのかもしれないけど、吹奏楽部は運動部なみに遅くまで練習している。だから手が出せない。でも、それからどうするつもりだったの。自分で悲鳴をあげて呼び水になるつもりだった?」
「……」
「興味があるのはさ、なぜ君がこんなイタズラをしたのかってことなんだ」
「……」
「ねえ――林原さん」
林原詩織さんは唇を噛んだ。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。




