あなたのキスを数えましょう 1
新潟県立五十嵐浜高校、1年3組。
四月。桜の名所として知られる校庭の千本桜は思うままに咲き誇り、新入生たちの初々しさが日常に染まるにもまだ早い。まだそんな時期なのに、もうこのクラスには伝説がひとつ生まれてしまった。
空き机の祥子さん。
入学式の日のホームルームからこのクラスには空き机があった。
欠席なのかな。
病欠かな。
はじめはその程度に考えていたのが、それが数日続くと不気味になる。
「先生、この机の人はいつ登校するんですか?」
朝のホームルーム。
その質問に1年3組はざわめいた。
自分のすぐ後ろの席を指差し質問したのは、長身の南野陽向。陽向の質問にクラスのいちばん後ろの席で「ひゃっ!」と肩をすくめたのは小柄な佐々木裕美。二人は生まれたときからの幼なじみだ。
「やめて、陽向ちゃん。ただでさえ陽向ちゃんは目立つのに!」
裕美はあせっている。
だけど裕美以外のクラスメートは心の中で大喝采だ。
「いいぞ!」
「よくぞ質問してくれた、南野陽向!」
「無駄にハンサムなだけじゃなかった、南野陽向!」
「そこにしびれる、あこがれるう!」
高校生になったばかりの彼らの好奇心は、この謎の空き机にはち切れんばかりになっていたのだ。
「う~~ん」
担任の藤森先生は苦笑を浮かべた。
「その机かー」
そもそもこの人が、毎朝のホームルームでの出席確認で空き机にまったく反応しないのが謎のひとつなのだけれど。
けっこう美人で若くて気さく。
でも気さくすぎて教師らしくない。「28にもなって(こうして実年齢も生徒にダダ漏れだ)学生気分が抜けてない」と他の先生からときどき叱られている、そんな先生だ。
「ああ、特にセンシティブな話じゃなくってね、なんだかね、来ないのよねー」
どういうことなんだよ。
いいのかよ、それで。
「秘密じゃないから、名前も言っちゃおうかー」
いいけど、ほんとにセンシティブな話じゃないんだろうね。
「その席の生徒の名前は森岡祥子さんといいまーす。教室に顔を出すようになったら仲良くしてあげてねー」
あっと目を見開いたのは裕美だ。
そして学期が始まったばかりの出席簿順の席順で、背が高いくせに無駄にというか邪魔に前のほうの席で質問のために立ち上がったまま長い背を見せている陽向もきっと驚いているはずだ。裕美は思った。
本当だった!
ああ、しょうこさんは本当に五十嵐浜にいるんだ!
「あれ」
ホームルームが終わって陽向が後ろを振り返っても裕美がいない。
教室移動で理科室なんだけどな。
だから前の席はいやなんだ。はやく席替えしてくれないかな。おれは目が良くて背が高いから優先的に後ろの席にして貰えると思うのだけど。にしても裕美はどこに。ひとりで理科室に行っちゃったんだろうか。だとしたら陽向さんはめっちゃさみしいぞ。泣いちゃうぞ。
震えていたら、すこし色素が薄めでふわふわの髪が真下に見えた気がした。
「うわっ!」
陽向の真後ろの席、あの空き机に裕美がちょこんと座っている。
裕美は陽向を見上げ、にっこりと嬉しそうに笑った。
「しょうこさんですよ、陽向ちゃん!」
「はあ」
「しょうこさんもやっぱり五十嵐浜を受けてたんですよ!」
「はあ」
「しかも同じクラスですよ! すごいです、すごいです!」
なんのことかわからないけど、こんなに嬉しそうにしている裕美を見るのは悪くない。
「また一緒に冒険できますね!」
「うん」
「机にいっぱい願い事書くんです! そうすればしょうこさんがきっとかなえてくれるんです!」
「うん。裕美、理科室に行こうか」
この時、二人の会話を聞いていたクラスメートが何人かいたことが「空き机の祥子さん」の伝説を思わぬ方向に完成させてしまうことになる。
すなわち、その空き机に生徒たちの願い事が書き込まれるようになったのである。
4時限目が終了すると南野陽向はダッシュで教室を飛び出していく。
高校生活が始まってそろそろ一週間だ。
陽向の昼休みダッシュも名物になってきた。全速力で玄関ホールの購買へ。一年棟最上階の3組からだとどれだけ頑張っても惣菜パンの奪い合いには間に合わない。なぜいつも、どうしていつも、卵サンドパンは売り切れているのだ! しかしめげずに上級生にも怯まずに第二希望のコロッケパンを無事購入。自動販売機で牛乳パックを買い、そしてまたダッシュで3組に戻る。
違う。卵サンドパンのためじゃない。おれは裕美をひとりにしないんだ。
ほんの少しでもひとりにしないんだ。
おれは裕美を守る騎士なんだ。
ぜったい誰にも言わないけど、こんな恥ずかしいことぜったい言わないけど。でもそう決めたのだ。3組に飛び込めば、裕美はお弁当を包むハンカチもほどかずに待っていてくれる。空き机にちょこんと座って。
「……」
息を整えながら思う。
いや、おれは自分の席で、裕美はその真後ろの本来の持ち主が行方不明の空き机。
不自然ではないけど、どうして裕美は空き机でお昼を食べるようになったのだろう。まだ目立つのが嫌なはずなのに。まあ、自分でそう決めちゃったのだからしょうがないけどさ。
陽向は自分の席に長い足を投げ出してどかっと横に座った。
「それでは、裕美さんもいただきます」
裕美はお弁当箱のハンカチをほどきはじめた。
「陽向ちゃんはコロッケパンが好きですねー」
ほんとうは卵サンドパンが好きなんですけどね。
今日の裕美のお弁当も凝っている。お弁当のお子様ランチって感じだ。一人っ子の裕美は愛されている。幼稚園の頃から知っている。ずっと幸せそうに笑う子だった。おれはその笑顔が好きだった。
机にいっぱい願い事書くんです!
そうすればしょうこさんがきっとかなえてくれるんです!
片手で器用に牛乳パックのストローを取り出してパックに差し、陽向は思う。
もう二度と。
裕美にあんな事を書かせない。
絶対に。
「今日も、しょうこさんの机の上は花盛りですね-」
裕美が言った。
陽向のダッシュが一年生の間で名物のようになってきているように、「空き机の祥子さん」もあっという間に定着してしまった。空き机の天板の上は書き込みだらけだ。
はやく恋人ができますように。
成績が上がりますように。
海外でも本間至恩くんが活躍できますように。
そして、その伝説の机でお昼を食べているふたりはどうしたって注目されてしまう。例えば――。
「『姪から嫌われてしまいました。どうにかしてください』」
裕美が空き机の天板に書かれた願い事のひとつを読み上げた。
そして、あっと自分の口を押さえた。
コロッケパンをくわえたまま陽向も固まっている。
もう遅い。
裕美のたった一言で、賑やかだったクラスがしんと静まった。
ずうっと、ずうっと、おしゃべりに夢中なようで、ずうっと裕美と陽向の一挙手一投足に集中していたのだ。裕美は小柄で声も大きいとは言えない。でも必死に耳をダンボにして聞き逃すまいと頑張っていたのだ。
1年3組の伝説、空き机の祥子さん。
その眷族のふたりのお告げを待って。
「はい、はい! それ、私! 私!」
満面の笑顔で手を上げたのはカチューシャの生徒だ。
「来ましたー! 私の順番が!」
裕美さん。
そろそろこの空き机から戦略的転進しませんか。祥子さんて人もそのうち登校してきますよ、たぶん。コロッケパンを飲みこみながら陽向は思った。
■登場人物紹介
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。安楽椅子探偵。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。