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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【2章 悶える悪魔は色欲に沈んだ】
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2.かつては羊であった

 ふとした折に、故郷を思い出すことがある。今のただれた生活とはかけ離れた穏やかな日常と、のどかな里の風景を。

 変化を求めて里を下りたわけではなかった。できることなら、いつまでもそこに身を置いていたかった。下界の戦乱とは無縁だと思えたままだったなら。



 *****



 ツムジ山脈に、清涼な夏の風が吹いていた。

 眼前いっぱいに広がる草原には点々と、白い雲のような羊の背中が見える。羊飼いのサテュロスと牧羊犬に見守られて、羊達は安心しきった様子で、草を食んでいた。

 オレは当番の日でもないのに、その光景をぼんやりと見つめていた。時間の流れがゆるやかだった。一日をこうして過ごしても、誰にも文句を言われなかった。

 ただひたすらに、無為な時間を謳歌するのはオレだけでなくて。周りには、似たような若者が大勢いた。

 草原の中を、サテュロスの男女がじゃれあうように駆けていく。周りの冷やかしもお構いなしで、彼らは二人の世界に入り込んでいた。風が緑色の波を立たせた拍子に、二人はもつれ合うようにして草原の海に倒れ込む。冷やかしの連中からは、男女の姿が見えなくなる。

 そこを覗きに行くほど、野暮な者はいない。

 やることをなくした男連中は、触発されたように近くにいた女を追いかけ出す。大抵はあしらわれて。それでもしつこい奴はビンタを食らう。


「ばっかみてぇ……」


 その中に混じる気も起こらず、立ち上がって草原を後にする。


「あれ、兄貴、帰るんすか」


 寝そべっていたジャイルズがひょっこり起き上がって、慌ててついてくる。クセの強い髪に、草の茎が絡み付いていた。

 肩を並べたジャイルズの頭を、はたくように払ってやりながら、口を尖らせる。


「あんなもん、見ててもしょうがねーだろ」

「……ははぁ、さては羨ましいんすね! ああいうことしたいなら、思い切って想いを伝えるのが一番——っイタ!」


 男女が消えた辺りを振り返り、馬鹿なことを言いやがった頭を、今度は遠慮なくはたく。よし。これで“ジャイルズ君、髪に草がついてるよ”なんて言って、取ってくれる女子はいなくなる。ざまあみろ。


「だいたい、誰に想いを伝えるんだよ」

「え……冗談っすよね? まさかバレてないとでも……」

「…………。そもそも、オレはああいう破廉恥なことはしないの」

「えー? 俺は憧れますけどねー」


 馬鹿みたいに女の尻を追いかけ回す幼馴染達を、冷めた目で見ていたのは事実だ。

 そうやって大人ぶってみた方が、格好良く見られるのではないか。なんて、爪の先ほどの下心もあったかもしれないが。

 羊の鳴き声が聞こえなくなると、次第に、賑やかで華やかな、いつもと違う里が見えてくる。

 聞き慣れない訛りと、嗅ぎ慣れない人々の体臭と、見慣れない鮮やかな色の数々。普段の、飾り気のない里とは様変わりしている。それなのに、旧友に会ったような懐かしさを感じる。今年もこの時期がやってきた、と。

 夏の短い期間、里には露店街が現れる。色々重なって、外から商人が集まってくる。

 セイレーンの魚売りが売り物の干物をあぶる、香ばしい匂いがする。その隣で、連れのハーピーが可愛らしい声で客寄せをしていた。道を行き交うケンタウロスは、大きな背に毛皮をたくさん積んでいる。まだひげの短い若いドワーフが娘らに、きらきら輝く鉱石のかけらを見せている。

 サテュロスも買うばかりでなく、チーズや葡萄酒といった、里の産物を売っている。毛むくじゃらのサテュロスが、特色を熱弁していた。


「この、お祭りって感じの空気、いいっすよね。酒飲みたくなるっす」

「何があっても飲みたくなっちゃうだろ、オレ達は」

「大っぴらに飲めるのがいいんすよ! 許されてる開放感が!」


 ジャイルズが力を込めて言う。

 道端には、酔いつぶれたサテュロスが転がっていた。若い連中ならまだしも、いい歳したおっさんだ。たぶん、オレ達の父親ぐらいの年代の。しかも、見える範囲だけで五人くらいいる。

 さすがに、ああはなりたくない。自制心、大事。

 里を訪れる他人種の客人らも、慣れたもので、その障害物をひょいと避けていく。

 サテュロスの血は葡萄酒でできている、なんて言葉があるほど、サテュロスは酒好きだ。それを、長年の交流で思い知らされているのだろう。だれも、幸せそうな眠りを邪魔しようとする奴はいなかった。


「おっと! うちは物々交換はお断りだぞ」

「えー! この年代物の葡萄酒の価値がわかんないなんて!」

「覚えときな、嬢ちゃん。ドワーフは貨幣しか信用しねえってな。その酒が大層なもんだっていうなら、金に換えてから出直してきな」

「親父の隠し棚から掠め取ってきたのに!」

「……盗品もお断りだ。ほら、親父さんに謝ってこい」


 鉱石を加工した装飾品を売っているらしいドワーフの店の前に、肩を落としたサテュロスの娘の姿があった。

 通りかかったケンタウロスの男が、彼女に声をかける。


「そんな屑石を買えなかったぐらいでガッカリしなさんな」


 ドワーフの店主が、聞き捨てならないと眉を上げた。


「屑石たぁ、結構な言い草じゃねえか」

「事実だろ? 本当に価値ある宝石なら、こんな田舎に持ってこないで、獣人の貴族どもに売るくせに」

「俺が粗悪品を騙し売ろうとしてる、みたいな言い方が気に食わねぇんだよ! 俺は、娘さんにも手が届く範囲の品を扱っているだけだ!」

「ほら、聞いたろ。たぶん、その酒の方がよっぽど価値があるよ。バレないうちにお父さんの棚に戻しておいで」


 ケンタウロスの男が優しくうながす。サテュロスの娘の答えは、ボトルの栓を抜く軽快な音だった。


「そんなことするぐらいなら、自分で飲むね」


 二人が唖然とする中、娘は豪快にボトルをあおる。一気に半分くらいを胃に流し込んだ後、口を拭って、娘は乱暴に笑った。


「あんたの言う通りだね! 酒に勝るものなし!」


 乾杯の仕草でボトルを上げると、娘は機嫌良さそうに去っていった。

 おっさんだけじゃなくて、若い女ですらあの有り様。“慎ましさ”ってやつを売っている店があったら、ぜひ紹介してほしいね。装飾品なんかより、よっぽど身につけるべきものだ。


「あ、そうだ。あんたのところの元締めに伝えておいてくれ。うちの族長が買いたいものがあるらしいんでな」


 正気に戻ったケンタウロスの男が、ドワーフに話しかける。


「ほう、ついに堅物の氏族長も色気付いたか」

「馬鹿言え。俺たちは獣人みたいに、じゃらじゃら自分の身を飾ったりしない。欲しいのは宝飾品じゃなくて、武器の方だ」

「つまんねえな」

「客に向かってその言い方はないだろ」

「ま、買ってくれるってんなら、こっちはなんだっていい。きちんと伝えておいてやる」


 何気なく混ざった単語に、下界は戦争の真っ最中だということを思い出す。戦乱の世だと言われても里は平和そのものなもんだから、いまいち実感がわかない。幼馴染に黒毛のサテュロスがいることぐらいか。かろうじて、戦争の気配を感じ取れるのは。

 そいつは故郷を戦火に焼かれ、家族そろって西から流れてきた奴だった。といっても、オレも幼馴染も、まだ母親のおっぱいに吸い付いていた頃の話だから、覚えちゃいないが。

 その年は、同じように荒らされた故郷を捨てて、この里に流入するサテュロスが多かったと聞く。

 西のサテュロスは脚が黒毛で、尻尾は牛みたいに長い。白毛の脚に短い尻尾、というオレ達の特徴とは正反対だ。だから、移り住んできた奴は一目で分かった。

 もっとも、違うのは見た目だけで。酒好きで女癖が悪くて、そのくせ嫁には頭が上がらない。という内面はそっくりそのままだった。できれば、そこは違っていて欲しかった。

 十五年経って、オレと幼馴染は成人したが、戦争はまだ終わっていない。むしろ、常態化している。当事者であるケンタウロスがこんなところにいるから、頭から抜けかけていたが。

 ケンタウロス五氏族の一つ、オド氏族は四年に一度、夏山を登って星の輝きを拝みに来る。天体観測なんて洒落た行事ではない。ご先祖様と対話をする儀式だ。彼らの信仰では、星の一つ一つがご先祖様の魂とされている。遠方はるばる説教を聞きに行くのだ。

 ツムジ山脈の険しい山路を越えてくるのも、修行の一環のためだという。この里も彼らにとっては通過点に過ぎず、二週間ほど滞在した後、さらに北へと進んでいく。夏でも峰に白い雪を乗せている山に、だ。雪山なんて、サテュロスでも入らない。

 きっと、ケンタウロスは苦しいことが好きなのだ。戦争をやめない理由もそれだ。


「兄貴、あの店見ていきましょうよ」


 ケンタウロスが店の前から去ると、ジャイルズがオレの袖を引っ張った。


「装飾品店だぞ? 女が見るもんでしょうが」

「あんちゃん、そいつは違うぞ! 良い男は身だしなみに気を使うもんだ! それでなくても、恋人にプレゼントしたりな——御託はいいから、とにかく見ていきやがれ」

「……ほんと、客に対する言葉遣いじゃないよな」


 太い腕で手招きまでされてしまい、逃げるに逃げられなくなる。

 ジャイルズはとにかく、何でもいいから、露店を見てお祭りの雰囲気を味わいたいのだろう。強引なドワーフの店主に呼び込まれて、さっそく物色を始めていた。


「これなんか、どうっすか?」

「オレに買わせる気なのか?」

「あー、だめだめ。そんな控えめなやつより、こっちのがあんちゃんには似合いそうだ」

「なんで、オレがつける前提で話が進む?」


 しかも、ドワーフの店主はジャイルズが選んだものより、明らかに高そうなものを押してきやがった。商魂たくましいな。ちくしょう。

 ジャイルズを悪徳商人から引き剥がすために近付くと、店主がオレの角に装飾品を当てた。


「うん。これであんちゃんの角も、ちっとは大きく見えるぞ」

「ほんっとに失礼だな、あんた! オレの角が小さくて貧相だって!?」


 店主が手にしてるのは、自分の角にそのまま被せる、ケース型の角飾りだった。金ぴかで、ごてごての装飾付き。十中八九メッキ。そして、オレはこんなに趣味悪くない。


「おおっと、コンプレックスを刺激しちまったかな」

「ああ? そんなんじゃねーから。サテュロスの角は、大きさよりも形の方が大事なんだよ。見栄張るもんじゃないの。そこんところ履き違えられて、ちょっとイラっとしただけだから」

「そうなのか?」

「大きさはあんまり重視しないっすね。形も、個人の好みによって違うもんだし」


 店主はオレとジャイルズを交互に見た。


「でも、ないよりはあった方がいいだろ?」

「そうそう、おっぱいと同じ——って、何言わせてんだ!」

「いや、言わせてねえけど」


 すっごく低レベルな下ネタを口にしてしまった。自己嫌悪。

 こんなの意識せずに口走るとか、オレも馬鹿な幼馴染連中と同類だな。今、自覚できた。自覚できたってことは、これから直せるってことだ。前向きにいこう。


「実際、デカけりゃいいってもんでもないし。角が大きすぎて路地で引っかかってる奴とか、見てらんないよ」

「女の胸もでかいと肩がこるとか聞くしなあ。何事もほどほどに、ってやつか」

「そのネタ、引っ張んないでくれる?」

「じゃ、仕切り直して。彼女とか、気になってるあの娘に贈り物とか、どうよ?」


 オレに勧めていた角飾りを置いて、今度は女性が好みそうな装飾品を押し出してくる。さっきの金ぴかに比べれば、ずっと上品で好ましい。だが、手を伸ばす気にはなれなかった。

 人の手で磨かれた鉱石の輝きは、洗練され過ぎていて。彼女には似合わない。

 いや待て。なんでそこで、特定の人物が出てくる。これじゃ、オレがあいつを気にしているみたいではないか。

 とっさに頭を振り、思い浮かべた顔をかき消す。店主はそれを、買わない、という意思表示と見たようだ。


「ま、そうだわな。サテュロスの女には、酒でも贈った方が喜ばれそうだしなあ」


 今度はあっさり引き下がり、店主は品を丁寧に並べ直し始める。

 ジャイルズは、何気なく手に取った腕輪の値段に目を見張っていた。固まってしまったジャイルズの手から、腕輪を持ち上げて、うやうやしく元あった場所に戻す。それから、二人そろって店を離れた。

 本物の宝石を身につける貴族からしたら、おもちゃみたいな物でも、オレ達にとっては身の丈に合わない、高価な代物だ。欲しいとも思わないが。

 あの手の店を冷やかすより、買い食いでもしている方が、オレ達にはお似合いなのだ。その方がよっぽど、手頃に祭りの空気を楽しめる。

 ジャイルズに串焼きを奢ってやり、露店を見て回る。ところどころ、露店の列が途切れた場所で、旅芸人が道行く人を楽しませていた。この時期には、お祭り騒ぎに乗じて、旅芸人もどこからともなく集まってくる。

 重そうな腹を揺する男が口から火を吹く。剽軽な化粧をした男が棒の上で皿を回す。きわどい衣装の女が腰を振って踊り歩く。軽快な音楽が場を盛り上げる。子供達がはしゃぎ回っていた。

 弓を引き絞ったケンタウロスの娘が、投げられた皿を次々に打ち抜いていく。一際大きな歓声が上がり、観客が銅貨を投げる。


「曲芸じゃない。ただの弓の訓練」


 周囲の人々の勘違いに、娘は困り顔だ。

 きっと彼女は、オド氏族の戦士だろうから、地面に落ちた銅貨を拾わない。誇り高き戦士は、施しを受けないのだそうだ。彼女の呟きを聞いた悪ガキ共が、儲けものとばかりに銅貨を拾い上げ、逃げていく。

 なんとはなしに、彼らのことを目で追うと、その先に見覚えのあるサテュロスの男女がいた。巻き角の女と、黒毛の男。向かい合って、楽しそうに立ち話をしている。


「あー、今年もやっぱり来たんすね」


 オレの目線を辿って、ジャイルズが悟ったように言う。

 女の方は、ハンナという名の、オレの幼馴染だった。幼馴染であり、同じ屋根の下で暮らす家族でもある。といっても、最近はもっぱら家に帰らないので、外で顔を合わせることの方が多い。

 オレは両親を早くに亡くしている。そう言うと、よくある悲劇に捉えられやすい。さぞ大変な幼少期を送ったのでしょう、とばかりに憐れんだ目を向けられる。ご期待に沿えず申し訳ないが、そんな悲劇の主人公めいたものとは無縁の子供時代だった。

 ご近所のお優しい夫婦が、オレを引き取って、実の子供同然に育ててくれた。彼らの愛情に不足を感じたことは、一度もない。それは、夫婦の血の繋がった娘であるハンナにしても、同じだった。

 ハンナには、弟として散々可愛がられた。同い年なのに。

 たった半年早く生まれただけなのに、ことあるごとに姉面をする。それが鬱陶しくてたまらなかった。しかし、悲しいかな、幼少期の半年の差は大きい。しかも、女の子は男の子より成長が早い。それに加えて、肝も据わっているときた。

 オレが泣かされて帰ってこようものなら、相手のもとまですっ飛んで行って、やり返してくるような女だった。これでは、名実共に、完全に弟だ。だが決して、自他共に、ではない。

 成長期に入って背がぐんと伸び、ハンナの頭を見下ろせるようになっても、出来の悪い弟扱いは変わらなかった。近所の女子からは、色気付いた目を向けられるようになったのに。


「一月ぐらい前から、そわそわしてたからな。ま、会えて良かったじゃないの」


 毎年この時期になると、あの風来坊は里にやってくる。普段は旅芸人として各地を回っているという、胡散臭い男。

 ハンナはここ一ヶ月ほど、妙に上機嫌だった。もうすぐ彼に会えるからだ。普段つけないような口紅まで引いて。感想を求められたから、似合わない、と答えたら、脇腹を肘でぐりぐりやられた。機嫌が良い証拠だ。いつもなら飛び蹴りを食らってる。

 男の名前は知らない。聞いてもはぐらかされ、通名だか偽名だか分からない名乗りをされた。

 黒毛の脚と長い尻尾を持っているから、出身は西だろう。分かるのは、それだけ。それだって推測なのに、里の若い女どもは、この素性の知れない男に夢中になっている。こいつが来ると、里の男連中は見向きもされなくなる。

 ひげも生やさない。女みたいに長く伸ばした銀髪を、リボンでまとめている。男として見られる要素は、何一つないはずなのに。ああ、でも、背だけは無駄に高い。オレよりも。

 男の印を削ぎ落とした顔を見ると、落ち着かなかった。顎ひげと一緒に、サテュロスであることすら捨ててしまったようで。

 だが、女子らには、この拠り所を失うような感覚が分からないらしく。彼が微笑むと、そろって甘ったるいため息をつく。やっぱり都会の空気を知っている人は違うわね、と。田舎男子は駄目ね、と。

 あんた、昨日まではオレの噂をしていたじゃないの。お友達と。フィランダーくん、最近格好良いよね、とか言って。それが何かな。女心は山の天気のように変わるのかな。なんで勝手に振られたみたいになっているの。フィランダーくん、ちょっと納得できませんよ。あんたらだって、田舎の芋女でしょうが。

 彼女達は男のミステリアスな空気に騙されている。

 あれは、都会で洗練された雰囲気なんかではない。どの風土にも染まっていない、浮き草そのものだ。

 里のサテュロスにはないものだから、物珍しさが魅力に映っているだけだ。

 女子ってやつは、どうしてこう、手が届かないものに憧れるのか。さっきの装飾品店でのことといい。


「うわあ、兄貴、怖い顔してるー」

「あぁん? そりゃ、そうだろ。幼馴染がろくでもない男に、今まさに、騙されているところだからな」

「嫉妬するぐらいなら、さっさと気持ちを伝えちゃえばいいのに。で、草原デートと洒落込んで——」

「ジャイルズ、おまえ黙れ。誰が、あの暴力女を、どう思ってるって?」


 ジャイルズは口元を引き結んだ。

 ジャイルズが何を言おうと否定しようとしていた言葉も、急停止を強いられる。なぜだ、と思って、オレが黙れと言ったのだったと気付く。

 オレが、怒っていない、と仕草で示すと、ジャイルズは首をぶんぶんと横に振った。そして、目玉を動かして、遠くの二人を指し示す。正確には、ハンナを、か。

 視線を戻すと、ハンナが和やかな笑顔を見せていた。わあ、まるで女神みたいじゃないか。あの女の中身を知らなければ。

 彼女がほがらかに何か言うと、男が離れていった。会話が終わったらしい。

 顔がこちらを向く。和やかだった表情が、お面でもつけ変えるように、恐ろしいものに変わる。この時点でオレは、蛇に睨まれた蛙状態。錆びついた取っ手を無理やり回すみたいに、なんとか体を、百八十度、方向転換させる。よし。ここまでは良し。

 あとは足を動かすだけ。

 ——のはずが、できるだけ早く逃げ出そうと、慌てたのがいけなかった。

 足がもつれ、草の上で蹄が滑った。すっころんだ背に、ずしりと重みが加わる。背骨をちょうど踏みつけられている。

 はい。今日のフィランダーは終了しました。また明日にご期待ください。


「飛び蹴りするまでもなく倒れてくれるなんて、準備がいいじゃない」

「だ、だろう? オレは気を使える男だからな!」


 情けない姿を弟分に見られたかと冷や冷やしたが、ジャイルズの姿はどこにもなかった。あいつ、さっさと逃げやがった。それはそれで腹が立つ。あ、違う。ここは憧れの、おまえだけでも生き延びろ、と言う場面だ。


「で、だれが暴力女ですって?」

「か、蛙の鳴き声が、そういう風に聞こえたんじゃないかな——ぐえっ」


 蹄で思いっきり踏み込まれた。

 こういうところが暴力女だと呼ばれる所以だと、なぜ分からないのか。オレが運良く転んでいなかったら、毎度の飛び蹴りを追加されていたところだし。地獄耳のくせに、肝心なところは聞こえていないし。

 周りの視線を感じたのか、ハンナがこほんと咳払いをする。同時に、背中の重みがなくなった。今さら取り繕っても無駄だ。彼女のお転婆な行動が、なかったことにはならない。

 上半身だけを起こして顔を上げる。こちらを見下ろすハンナはなぜか、ため息をついた。ため息をつきたいのはこっちだ。


「全然帰ってこないから、お母さん、心配してるのよ? まったく、どこほっつき歩いてんだか」

「あ? ああ……。おばさんには顔を見せとくよ。それでいいだろ?」

「おばさんって……、前はお母さんって呼んでたくせに。随分と他人行儀になったものね。反抗期?」

「成人してから反抗期もクソもあるかよ」


 困惑して言うと、ハンナは不可解なものを見るような、変な顔になった。


「フィランダーはいつまでもガキっぽいよね。そのひげ、似合ってないよ」

「はあ? これは似合うとか似合わないじゃなくて、大人の男としての証だろ」

「ふらふらと夜遊びして。不良みたいじゃん」


 唇を尖らせて言うだけ言うと、ハンナはオレを放って行ってしまう。

 一人その場に残されたオレは、拗ねたような彼女の顔が頭から離れなかった。頭をかきむしって、映像を消してしまいたい衝動に駆られながら、人目も気にせず、草の上に倒れ込む。すると、草原に倒れ込んでいちゃついていた男女が思い出されて、余計に腹立たしかった。

 ひげが似合ってないとか、言われてもどうしようもない。成人した男が顎ひげを生やすのは、サテュロスならば当たり前のことだ。大人の男の象徴なのだ。それを引っこ抜けなんて言われたら、おまえはまだ一人前じゃないと言われているようなものだ。

 これでも、成人してから一年と半年が経っているのに。今年、十六歳になって成人したばかりのジャイルズだって、一丁前に生やし始めているのに。

 旅芸人の男と同じことを、求められても困る。彼らのような浮世離れした人種は、サテュロスであってサテュロスではない。

 品行ならば、オレの方がよっぽどまともだ。旅芸人なんぞと比べるのも失礼だ。

 不良呼ばわりされるのは心外である。夜帰らないのは、男友達の家を泊まり歩いているからで。夜中にこっそり里を抜け出して山を下りる、なんて真似はしたことない。するつもりもない。女遊びなんてもってのほか。酒を飲んで騒ぐことはあっても、本当にそれだけ。友人の家の中でだけの出来事だ。他人様に迷惑はかけちゃいない。

 これのどこが不良なのか。真面目な優等生とまでは言わないが、健全の域からは外れていないと思う。

 心中で散々抗議した後、不貞腐れて目を閉じる。



 *****



 ああ、今のオレは不良なんて名称じゃ生ぬるい、悪党になってしまったが。



 *****



 山麓の里までお使いを頼まれた帰り道。沢の流れる清らかな音に誘われて、寄り道した。

 少し山を下りるだけで、これぞ夏、と言わんばかりの暑さに襲われる。過ごしやすい高原との寒暖差は、一日で春と夏を行き来しているかのようだった。

 目当ての沢には、手掴みできそうなほど近く、小魚が泳いでいた。子供の頃なら、喜び勇んで飛びついていただろうが、今はさして興味がなかった。そんなことより、この暑さから逃れる方が先だ。

 無遠慮に小魚の群れの近くに足を入れると、小魚達は四方に散った。穏やかな水流が気持ち良い。

 遠くの方には、同じように涼んでいる、ご老輩がいた。

 山麓の里は、山の寒さが厳しくなる冬を前に、羊の群れを連れて、下りてくる場所だ。冬の間は、ここで葡萄の栽培をして暮らす。オレ達はそうやって、季節によって住む場所を変える。だが、歳を取って、足腰が弱ったサテュロスは、一年中をここで過ごしていた。

 若く身軽なサテュロスなら、一日で往復できる道程でも、老人には超えられない崖となる。事実、オレは今日、近道と称して崖を駆け下りてきた。

 目に映る風景は、いつもいる草原と変わりない。見渡す限りの緑と、遠くにまばらに生える木々。

 存在しないのは、駆けまわる男女。それから、それを囃し立てる若い連中。男女の、きゃぴきゃぴとした空気に当てられることもない。若い連中の、ぎゃはぎゃはとした笑い声も聞こえない。ただひたすら、小鳥のさえずりが耳に優しい。ご老人のゆったりとした話し声が、たまに風に乗って届く。


「ん?」


 見渡す限りの緑に、ぽつんと、目立つ黄色があった。沢を渡って川岸に近付くと、それが素朴な野花であることが分かった。他に花が咲いていれば、気付かれないほど小さく、目に留めてもらえるかも分からないほど。どこにでもありそうな花だった。

 辺りをよく見ると、茎にふくらんだつぼみが連なっている。この岸辺は秋になると、黄色い花畑に変貌するのだろう。今ある一輪は、一足早く咲いてしまったせっかちだ。

 しゃがみ込んで、その珍しいわけでもない花を見つめる。派手であればよい、というものではなかった。華美に着飾るばかりが、女ではないのと同じように。

 自己主張をしないこの花は、女性の髪に挿したら、きっと自然な可愛さを演出してくれる。


「花を愛でる趣味でもあったの、フィランダー?」

「ち、ちがっ——!?」


 幻聴でも聞こえたのかと思った。思い浮かべたその人の、声だったから。

 声をかけられるまで、背後に人がいることに気付かなかった。オレが見ていたものを肩越しに覗いていたのか、振り返ると、思いがけず近くに、ハンナの顔があった。

 ぎょっとしてのけぞった瞬間、沢に尻をつく。手は、岸辺の草を掴む。瞬時に伝わった感触に、しまった、と思った。花を手折った。

 自分でも、何を焦っているのか、よく分からなかった。頭の中身を覗き込まれたみたいに、混乱していた。気付いたら、手折った花を、彼女に突き出していた。


「あんたに似合うと思って、見てたんだ!」


 口から出た言葉に唖然とする。何を言っているのか、オレは。

 混乱にかまけて、花を愛でる以上に恥ずかしいことを口走った。しかも、わりと大きな声で。

 実際に頭の中身を知られたわけでもないのに。これでは、自分から暴露したも同然だ。

 だが、今さら手を引っ込めるわけにもいかない。ハンナはらしくもなく赤面している。しかも、あろうことか、オレから花を受け取ろうとしている。

 頬を染めて花に目を落とす彼女を見ていたら、オレまで顔が熱くなってきた。


「あ、あんたみたいな女には、雑草がお似合いだろ?」


 やっちまった。

 照れ隠しにしても最低な発言だ。つい、いつもの調子が飛び出してしまい、ハンナの目もつり上がる。


「へえ、そう」


 終わった。

 上った血はどこへやら。彼女の冷え切った低音を聞いた途端、さあっと顔が青ざめていくのが分かった。ハンナが背中側に回る気配がしても、体を動かせない。


「ぐほっ!」

「口は災いの元だって、いつも言っているでしょう? ……フィランダー、これはもらっておいてあげる」


 ハンナの飛び蹴りが炸裂し、顔面から水に突っ込む。

 後半を口早に言い捨てた後、ハンナは逃げるようにして去っていった。

 沢から、なかなか起き上がれなかった。いつものように、彼女を怨む気持ちにもなれなかった。なれるはずもない。こうして、水に浸かって、物理的に頭を冷やせる状況が、むしろありがたい。

 去り際の彼女の言葉が、脳内で反芻される。何十回目かで、ようやく意味を正しく理解できた気がした。叫び出したい気持ちを抑えて、背中を丸める。

 馬鹿はおまえだ、フィランダー!

 何をやっているんだ、オレは。

 自分自身へのもどかしさから、ますますうずくまるような姿勢になっていく。いたたまれない。両手で顔を覆う。


「はあー……」

「どうしたんすか、ため息なんかついて」


 声の主に顔は向けるが、手はどかさない。代わりに、指を開いて相手を見た。


「ジャイルズ……」

「え、なんすか。なんでそんなに落ち込んで——あ、分かったっす。まーたあのアバズレに暴力振るわれたんすね! まったく、あの凶暴女!」

「ジャイルズ、おまえ後でしばき倒す」

「えっ、なんでっすか!」


 ジャイルズが騒ぎ出すが、事情を説明する気にはなれなかった。からかわれるのが目に見えている。


「つーか、おまえ。なんでいんの」

「あ、忘れ物があったらしくって。ハンナさんと一緒に、兄貴のすぐ後を追ってきたんすよ」

「はああ……」


 暑さは吹き飛んだ。全身ずぶ濡れだから、とかそんな理由じゃなく。とにかく、頭は冷えていた。



 *****



 花が咲くのを、待ってなどいられない。つぼみを無理に押し開いて、実をつけさせる。花弁を愛でられる時間さえ与えないままに。

 オレが今やっているのは、そういうことだ。

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