5.付け焼き刃では超えられない
今日のために念入りに準備をしてきた。一月前から定期的に、人間の集落へ偵察を送って、様子をうかがってきた。
いくらアラクネが身体能力で勝ると言っても、手勢は三十人しかいない。これが集落の人間の殲滅を目的とした襲撃なら、三十人でも十分——いや、多過ぎて人間が可哀想になるくらいだ。けど、今回は皆殺しにしては意味がない。
わたしたちは〈囲い〉を作りに来たのだから。
生かさず殺さず、人間の集落を手中に収めなければならなかった。死に物狂いで抵抗して今日すべて失うより、飼い慣らされて明日を生きる方が幸せ。そう思わせてあげなければいけない。
戦うことしか脳にない妹を抑えて、慎重を期したのは、下策ではなかった。……そのはずだ。
「勘付かれたのかしら……? いやでも、昨日までは普通に生活をしていたはず……。このわたしが、出し抜かれたとでも言うの? 人間ごときに?」
脅しに使うつもりで連れてきた三十人の妹たちは、困惑顔でわたしの指示を待っている。
意気揚々と山を下りてきたのが馬鹿みたいに、集落は無人だった。
昨日までは確かに、ここで人間が生活していたのだ。偵察に向かわせた妹がそう報告しているから、間違いない。
昨日まで、どころか、数時間前まで、と言い換えてもいい。どこかの間抜けが火を消し忘れたのか、煙突から煙を出している家がある。
民家の庭で、鶏だけが異変に気づかず餌をつついていた。
「悟られたなら……」
肩越しに、背後で待機する妹を見やる。
偵察でへまをやらかして、相手に気づかれた。責任を押し付けるのは癪だが、そう考えるのが妥当だった。
わたしと目が合うと、何度となくこの集落に通った妹は、必死で首を横に振る。
責任の所在はともかくとして、現状をどうにかしなくては。逃げられただけならまだしも、帰り道で待ち伏せされていた、なんてことになったら最悪だ。
行儀悪いとわかっていても、舌打ちを抑えられなかった。所詮は人間、となめてかかったのが仇になった。下等な存在に煩わされている現状に、苛立ちがつのる。すべて己が悪いとわかっているだけに、余計に。
呑気に阿呆な妹が一人、家畜の鶏を追い回し始めていた。
バタバタと逃げる鶏の足音がうるさくて、怒りに任せて呪文を吐き捨てる。指先から吹き出した炎が鶏に直撃し、そいつは瞬時に焼き鳥へと変わった。
「腹が減ってるなら、それでも食って大人しくしてろ!」
鶏を追い回していた妹は、目を丸くしたものの、言われた通りに拾い食いを始める。他の妹たちの生唾を飲み込む音が聞こえたが、今はそれどころではない。
人間がどこに向かったのかわからないのが、どうにも気持ち悪い。こうも直前に抜け出した様子からして、そう遠くには行っていないだろう。
「人間を探し出しなさい」
「あれ見てたら、あたし達も腹減っちまったよ」
「見つけ出した人間を連れてきてくれれば、調理してあげるわ。調理って言っても、焼くだけだけど」
あれみたいにね、と阿呆な妹が頬張っている焼き鳥を指差してやる。
「……殺しはなしだ、って言ってなかったっけ?」
「こんなナメた真似をしてくれたんだから、話は別よ。見せしめに二、三人ぐらい肉にしてやるわ」
「ふーん。ま、あたし達にとっては願ったり叶ったりだな」
妹たちが了解した直後、焼き鳥を食っていた阿呆妹が、グッと喉を詰まらせたような声を上げた。いい加減に叱ってやろうかと彼女を見やり、わたしは言葉をなくす。
彼女の喉から矢が生えていた。
首の傷口と開いた口から、彼女自身の血と、中途半端に咀嚼された鶏の臓物が垂れ落ちる。
妹は、突き刺さった矢を抜き取ろうと、首をかきむしっていた。八つの目が見開き、六本の脚は縮み上がり、背中と尻がくっつくほど体は反り返り、苦しみもがく。やっとのことでつかんだ矢を、肉をえぐりながら抜き取って、安堵を顔に浮かべたのもつかの間、一度大きく身を震わせた後、妹はどうっと地面に倒れこんだ。
その一部始終を目にしてしまった妹たちは、ざあっと波を立てるように恐慌状態に陥った。伝染していく恐怖をどうすることもできず、わたしはただ立ち尽くした。
「探す必要はないよ。ここにいるから」
妹たちがわめいたり怒鳴ったりしていても、その声だけはすっと耳に入ってきた。
声が聞こえた方を見上げると、煙を出す煙突の横、民家の屋根の上から、人間の男が弓を構えてこちらを見下ろしていた。
意外なほどに近くにいた敵の姿に、動揺を抑えられない。
おかしい。わたしはともかく、獲物を探すのに長けた武闘派たちが見つけられなかったなんて。
そこまで思って、男のすすで汚れた顔に気づく。
煙だ、煙を利用したのだ。煙の匂いに誤魔化されて、妹たちの鼻も役に立たなかったに違いない。武闘派が見逃してしまったのは偶然ではなく、この男の策だ。
「劣等種が……っ、姑息な真似をッ!」
「そうだね、劣っていると自覚しているからこそ、色々考える必要がある」
男は肩をすくめると、躊躇なく屋根から飛び下りた。
糸の命綱があるわけでもない。恐れを忘れたようなその行動に、あっと声が出そうになった。
こちらの動揺をよそに、男は地面に着地した瞬間、ほんの少し顔をしかめただけだった。腹立たしい。足でもくじけばよかったのに。
男は持っていた弓を捨て、剣に持ち替える。
「アラクネを相手するのは二度目だからね。だからかな、少し気持ちに余裕があるよ」
ナメた口を利いてくれるが、それは挑発するような調子ではなく、むしろ淡々と、事実確認のために発した台詞に聞こえた。
言いようのない違和感が、拭えない。
男に、光のない目で見つめられる。暗い穴のような瞳が、わたしの心臓を締め付ける。呼吸の仕方も忘れていく。息が苦しい。
わたしが音を上げる前に、男の方から視線を外された。だが、それに安心している暇はなかった。
恐慌した妹が、元凶を排除しようと、男に襲いかかったのだ。混乱の中でも、その場から逃げる選択肢がないあたり、本当に武闘派はよく訓練されている。
ただやはり、そんな状態で本調子が出るわけもなく、彼女の剣筋はひらりとかわされた。
体勢が崩れる。人間が地を蹴る。軽々と飛び乗ったのは、剣のペイントが施された尻の上。
「ああ!? てめえ、なに踏んでくれてんだ!」
妹が吠え、振り返って男を捕まえようとする。けど、同時に足も動かすものだから、彼女の向きが変われば尻の位置も移動する。男はいつまでも彼女の背後にいる。これでは自分の尻尾を追いかける犬と変わらない。
ぐるりと一回転、それなりに激しく動いたというのに、男は振り落とされなかった。アラクネの大きな尻が、安定感ある足場を与えてしまっていた。
男の剣がひらめく。
突き立てられた刃に、妹が絶叫を上げた。
背中から腹を突き破った剣の、赤い刃が垣間見える。ずるり、と刃は再び妹の腹に潜っていき、男に引き抜かれる。栓が外れたように傷口から血が噴き出す。
正気を失った妹が暴れだす前に、男は彼女の上から飛び下りた。
視界の隅で動いたものを、反射的に、襲おうとしたのだろう。牙をむいて妹は振り向いたが、痙攣する体は言うことをきかなかった。脚が引きつり、砂埃をあげて地面に倒れこむ。唸り声を上げ、よだれをこぼしながら、妹はのたうつ。次第にその動きすらにぶくなっていき、六本の脚は硬く折りたたまれていく。
わたしはそれを、声もなく見つめていた。
数分の間に、妹を二人も死なせてしまった。
このままではいけない。そう思うのに、脳裏は妹の死に顔がこびりついて離れない。
わたしが動けないでいるうちに、男は次の犠牲者を作り出していた。
妹の喉が、切り裂かれるのが見えた。勢いよく噴き出した血を浴びながら、男の目はもうその妹に向いていない。駆け出して、また別の妹の胸に刃を突き刺す。剣が引き抜かれるのと、喉を裂かれた妹が倒れるのは同時だった。伸ばされた手をかいくぐり、男は走る。
感慨に浸る様子もない。
それが当たり前とでもいうように。アラクネなど、軽く屠ることができて当然だと言わんばかりに。
男の動きには迷いがなかった。
「なんなのよ……、あいつ。なんなのよ、あいつは!」
人間というのは、かくも機敏に動くものだったか。たった一人の人間の男に、妹たちは翻弄されていた。
なにか命令を下せ。指揮をしろ。今、彼女たちを統率するのは、お母様ではなくわたしだ。わたしが立ち直らないと、彼女たちは一人一人がバラバラに動いて、無駄死にしてしまう。
急く心とは裏腹に、浮かんでくるのは罵倒の言葉ばかりで。もっと有益なことの一つでも言えないのか、と自分を叱責したくなる。
人間の軽やかな動きを目で追うのが精一杯だった。
それは、初めて見る生き物のように思えた。これまで頭にあった、か弱い者の姿ではない。
そして、不意に気がつく。
わたしがこれまで見てきたのは、食卓の上の人間だった。〈囲い〉で育った人間だった。糸に絡め取られ、弱々しくもがく人間しか見てこなかった。外で伸び伸びと育ち、枷に捕らわれていない姿を目にするのは、初めて。
——だからなんだ! ぐずぐずしていると妹が全滅するぞ!
「……! そいつの足を止めるのよ! 糸を使って引き倒しなさい!」
内側から叱咤され、ようやく、声が出た。
混乱する妹たちの耳にも、命令はちゃんと届いたらしい。がむしゃらに体当たりしようとしていた妹たちは、いったん足を止めて、男に尻の先を向けた。息を合わせたように噴出された液体は、空気に触れることで、粘着性のある白い糸へと変化する。
空中に散布されたそれらは、男の足といわず、頭から覆いかぶさって男を捕らえるかに見えた。男の頭上で、ぱっと炎が燃え上がって、白い網が溶けてなくなるまでは。
突然の発火はどう考えても魔法によるもので、数人の妹が疑るような視線をわたしに向けてくる。
「わたしのわけないでしょう! この馬鹿共! 敵から目を離すな!」
燃えかすを潜り抜けて、男が飛び出してくる。一瞬といえど目を離した妹を狙って、剣の軌道がうなりを上げる。とっさに、呪文を唱えるため口を動かしていた。叫んだ後のためか、声が裏返りそうになる。それでもなんとか、出現させた魔法を男に向かって飛ばす。
目を見開いて驚いたような顔を見せた後、男は地面に転がった。奴の剣が妹に届く前だった。炎の弾が男の頭上をかすめ通る。
「カリム様!」
悲鳴のような声が近くで上がった。
声がした方へ目を向けると、最初に男が現れたのと同じ屋根の上で、人間の女が口に手を当て沈痛な顔をしていた。先ほど姿が見えなかったのは、こちらからは見えない裏側の屋根にいたからに違いない。それか、煙突の陰に隠れていたかだ。
一人いたのだから、もう一人いてもおかしくない。こんな簡単なことも考えつかなかったとは。
今日何度目かになる舌打ちが、また一つ。
こいつだ。飛ばした糸を燃やしたのは。男が呪文を唱えた様子はなかったし、男は魔術師を同行させていたということだろう。盲点だった。
けどそれは、相手も同じだったようで。
「魔法を使うアラクネか」
男が顔をしかめた。
「そうだったな。さっき見たのに、忘れていた」
「気を付けてください! そいつはマザー・ヴェールピナスに重宝されていた娘の一人です!」
立ち上がった男に、女は真剣な顔で忠告する。
その言葉にはっとしたのは、わたしの方だ。
「随分と詳しいじゃないの」
女と目が合う。瞬間、女の顔が青ざめ強張った。怯えた目の奥には、確かな憎しみがちらついている。
答えない女の代わりに、男が口を開いた。
「彼女はラヌート山の〈囲い〉の里出身でね。きみらのことを多少知っているようだよ」
「……逃げ出した人間ということね。アラクネの監視がある中、よく脱走できたものだわ」
どうせ、不甲斐ない姉が仕事をさぼりでもしたのだ。
頭に浮かぶのは、目玉のペイントをした姉のことだ。彼女がなおざりな仕事をするとは思えないが、お疲れのようだったし、配下の姉妹まで監督が行き届かなかったのかもしれない。
ラヌート山に戻ったら、お母様に報告しなくては。
わたしが鬱憤をためていたのは、女をみすみす逃した間抜けな姉に対してであり、女自身に対してではなかった。けど、憎々しげな口調が勘違いさせてしまったらしい。女は煙突のふちをつかんで、身をすくめた。
女から注意をそらすためか、男がまた口を出す。
「逃げたわけじゃない。私が連れ出した」
「そう。脱走を見逃したばかりか、外部からの侵入も許していたというわけね。あの馬鹿共は」
自分の顔が歪むのがわかった。
男が嘘を言っている様子はないし、女がここにいることこそが、何よりの証拠だ。間抜けな姉たちは、人間に出し抜かれたのだ。
「馬鹿な女は嫌いだけど、無謀な男は嫌いじゃないわ。——女を引きずり落としなさい。先に魔術師を始末するわよ」
指を鳴らして命令を出すと、それまでじっと耐えていた妹たちが、一斉に動き出した。自分を狙って集まってくる大量のアラクネに恐怖を感じたのか、女は屋根の上でへたり込む。
女の様子に気づいた男が、妹たちの後を追おうとした。
また彼女たちを蹴散らされてはたまらない。
彼らを分断させるため、わたしは呪文を唱えて、地面に一直線に炎を走らせた。さすがに炎の壁を突き破るのは躊躇したらしく、男が後ずさる。額に汗を浮かべながら、必死で炎の向こうに目を向けようとしている。
追加の命令を下す暇がなかったものだから、妹は全員、壁の向こう側に行ってしまった。
目が八つあるより、口が二つあった方がよかった。そうしたら、妹たちに細かい命令を出しながら、自身も呪文を唱えて交戦できるのに。
こちら側に残っているのは、わたしと、人間の男のみ。男は立ちはだかる炎の揺らめきの間から、向こう側を覗こうとするのを諦め、こちらに向き直る。
「重宝されていた、というのは本当なんだな」
「されていたんじゃないの、されているのよ」
別に、フォッグス山には左遷されて来たわけじゃない。むしろ栄転だ。
「マザー・ヴェールピナスは死んだ。ラヌート山は山火事によって燃え尽くされた。だから、過去形で合っているんだよ」
「……は?」
「私がおまえの母を殺した。彼女を助け出すために、そうした」
こんな戯れ言に騙されるほど、わたしの頭はいかれていない。こちらの動揺を誘うための嘘だとしても、不愉快な内容だった。
彼女というのは、今頃妹たちによって八つ裂きにされているであろう、あの女のことだろうか。ああ、もしかしたら、もうすでに妹たちの腹の中かもしれない。彼女たちの中に、早食い自慢の子がいたから。
わたしがまともに取り合っていないのが伝わったのだろう。男がもう一度言った。
「私がおまえの母を殺したんだ」
今度はまともに怒りがわいてきた。
こんな男に殺されるほど、お母様は弱くない。少し剣の腕が立つぐらいで、思い上がりもはなはだしい。
「目も脚も二つしかない欠陥野郎が……ッ! お母様を侮辱するのも大概にしろ!」
「アラクネを殺すのに、目も脚も二つで事足りたよ」
「ああ! 嘘吐きも嫌いだ! すぐバレる嘘を吐く馬鹿は存在だって許せない! それが真実かどうか、おまえの体を喰ってから判断してやる!」
記憶を探れば一発でわかる。これ以上、奴の口が動くのを見たくない。だから、奴を殺して体の隅々まで食い尽くして、そうして取り込んだ魂に直接聞いてやる。お母様が死んだなんて妄言だということを。
焼き加減はどうしてやろうか。怒りに任せて黒焦げにしてしまっては、後で炭を食べることになる。
「……おまえたちの食い意地には吐き気がする。マザー・ヴェールピナスは山火事で焼け死んだ娘の死体を喰らっていた。自分の娘をだぞ? どういう神経をしているんだ」
男の目に軽蔑の色が浮かんだ。
まるで、その場面を実際に見てきたかのような反応に、一抹の不安がよぎる。いや、山火事の部分だけが本当だとしたら、あり得る話だ。いくら姉妹が死のうと、お母様が死ぬことだけはあり得ない。
けど、だとしたら、この男はお母様と遭遇していながら逃げのびたことになる。
ごちゃごちゃと考えていたら、嫌な方向にばかり想像が向かいそうだった。知りたいのは絶対の事実だ。ならば、男の言うことには耳を貸さず、ただ喰らえばいい。
「黙れ! これ以上、嘘吐きの妄言に付き合うつもりはない!」
なおも何か言おうとした男を遮って、叫ぶ。続けるのは魔法の詠唱だ。
男を死に至らしめながら、こんがりと良い具合に肉が焼ける加減。その微妙な調整を、呪文に込める。数秒後に出来あがる料理が目に浮かぶようだった。
男が逃げ出しても気に留めなかった。今から走っても、わたしの魔法が届かない位置まで行くのは不可能だろうから。
形成されていく炎をまとめ上げている時だった。
突然、見えない巨大な手で張り飛ばされたように、体が浮いた。硝煙の匂いがつんと鼻の奥を突く。熱風に吹き飛ばされて、横ざまに地面に叩きつけられた瞬間、何かが崩れ落ちていく轟音と、妹たちの悲鳴を聞いた。
集中が途切れ、爆風にさらされた形成途中の魔法が、かき消える。唱えていた呪文は、瞬時に叫びに取って代わった。
顔全体が刺すように痛かった。呪文を唱えなおそうにも、出てくるのは恨みがましいうめき声ばかりで、ちゃんとした言葉にならない。頬に手を触れると、石の破片があちこちに突き刺さっているのがわかった。右頬の下で二つ、目が潰れていた。残った目からも血が流れているのか、視界が赤く染まってよく見えない。
それでも、がたがたの体を奮い立たせて。爆発のもとを辿るために目を動かす。
爆風で炎の壁も壊されてしまったらしく、視界を遮る高いものはなかった。けど今は、そこら中で勢いのある炎が燃えていた。
そして、そこにあったはずの煙突の家がなくなっていた。いや正しくは、瓦礫の山へと姿を変えていた。
「ああ、ぁ……そん、な」
瓦礫の山に埋もれるようにして、妹たちの体が折り重なっていた。
いくら頑健な武闘派といえど、あの状態で生きている者はいないだろう。少し目を離した隙に、わたしの妹たちは死体に変わってしまった。
お母様への申し開きよりも、喪失感が真っ先に襲ったのは自分でも意外だった。
六つになってしまった目から、涙が溢れる。きっと、痛みのせいが半分くらい。でも、涙が傷口に染みるし、血がにじむし。心臓が血を噴くようだった。
わたしの妹たちを、このような姿に変えたのは誰だ。
動く人影を睨むと、ひっ、と小さく息を飲む気配がした。血の涙を流す形相は、さぞかし恐ろしく見えることだろう。
人間の女が、助けを求めるように男の腕をつかむ。
「おまえ、何をした。こんな大それたことを、どうやって……」
「火薬だよ。あの家の中に、火薬を詰め込んでおいたんだ。あとは、彼女がタイミングを見計らって火を放って終わり」
答えたのはやはり、女ではなく男の方だった。
「女は囮だったというわけ……? いや、それよりも、火薬? そんなもの、いったいどこで手に入れて——」
「ドワーフの火薬を、ちょこっと拝借しただけだよ。大した話じゃない」
話を聞いても、得体の知れなさが増しただけだった。
火薬はドワーフが固く機密保持する技術で、その製造法は地上に出回っていない。火薬を手に入れるにはどうやっても、ドワーフを介する必要がある。当然、高価で希少なものだ。そんなものを、一介の田舎の人間が持っているのは不可解だった。
絶対に、正規の方法で手に入れたものじゃない。
「まあ、もちろん、返せないけどね」
証拠に、男はそんなことを嘯くし。
そして、もう一つ。話しているうちに、不自然なことに気がついた。
大惨事を引き起こした女の体が、あまりにきれいすぎる。ちょっと汚れた擦り傷が数箇所ある程度で、火傷の一つも見当たらない。おかしい。あの爆発の中心にいながら、ぴんぴんと生きていること自体が、理不尽だ。
妹と一緒に死んでいてもいいぐらいなのに。
「なぜ、おまえは生きているの。なんで、死んでいないのよ……!」
男と女が顔を見合わせた。
男があの時走ったのは、爆発から逃れるためだったと、今ならわかる。けど、その男にしたって、額から血を流しているのだ。まったくの無傷なわけじゃない。
女は男の怪我に気づき、うつむいた。
「…………防御壁」
ぼそりと、女が言う。
防御壁、自分の身を守るための魔法だ。そんな簡単な答えを、女に言われるまで、わたしは思いつかなかった。
「本当は、カリム様も一緒に防御壁で守るはずでしたのに。ごめんなさい、間に合いませんでした」
「大丈夫。私が死ぬ心配はしなくていい」
目に落ちてこようとした血を、鬱陶しそうに拭った男の口調は、確信に満ちていた。
一歩間違えれば、自身も爆風で吹き飛ばされていたかもしれないのに。そんな可能性は微塵もなかったとでも言いたげだった。
「あり得ない。——あり得ない! あり得ないっ!! 人間は弱いんだッ、アラクネはおまえらより強いんだ! こんなことはありえない……っ!」
ここで死ぬとは欠片も思っていない男が腹立たしかった。けどそれ以上に、ここで自分は死ぬかもしれないと思うと足が震えた。
ただ目の前の脅威を取り除きたい一心だった。魔法が唯一の取り柄であると、あんなにも自覚していたのに、全身で前に飛び出してしまった。相手が人間なら、アラクネの体格で力任せに抑え込めると思った。
この恐怖を克服するには、対象を喰らうしかない。喰らって、知るしかない。
妹たちを死に追いやった女の喉を、食い破らんと口を開く——
「私は、私たちは——っ! おまえたちの食べ物じゃない! 供物でも、生贄でも、家畜でもない! だからっ、その口をこっちに向けるなああぁ!!」
大人しそうに見えた女が目を吊り上げ、叫喚する。
恐怖が振り切れたように、わたしを射抜く視線がすっと据わった。
女に手が届く。そう思った瞬間、伸ばした手が炎に包まれた。身がすくんだところで、全身が燃え上がった。
女が必死の形相で、一心不乱に呪文を唱えていた。
熱いと感じたのは、踊る暖色と、その耳慣れた呪文を認識してからだった。ああ、これは炎だ。わたしがこれまで、操ってきたものだ。当然だけど、これはわたしだけのものじゃなかった。頭でわかっていても、髪が焦げる匂いと、皮膚をなぶる感触に、裏切りに似た衝撃を受ける。
ひどく近くで叫び声がする。
それが自身のものだと気づくのに、数秒を要した。
喉が焼けるように熱い。いや、実際に焼けている。内側からも、外側からも。開いた口を、それでも閉じられなかった。体を焼く痛みが、心を焼く痛みが、黙らせてはくれなかった。涙も蒸発してしまうような熱気では、叫ばずにはいられなかった。
「燃えろ燃えろ! 業火に焼かれて死に絶えろ!! 死ね、死んでしまえ! あははは」
女の狂乱したような声が、耳に響く。
反対にわたしの声は嗄れ、開いた口は叫んでいるつもりで、まったく声が出ていない。
誰でもいいから助けて。天にかざした腕は、黒焦げになっていた。皮膚はめくれ、剥がれかかっている。脚の一本がもげ落ちたのをきっかけに、体を支えることもできなくなる。重い尻が地面にぶつかり、複数ある脚がもつれ合う。
お母様はどこにいるのだろう。
いつもなら、娘の危機に駆けつけてくれるのに。預かった妹を守ることもできない情けない姉なんて、救う価値もないのかしら。ならせめて、彼女たちだけでも助けてあげてほしかった。
ああ、いや——
死にたくない。嫌。お母様、助けて。もう手の感覚がないの。触れたところから皮膚がぼろぼろと崩れ落ちていってしまうの。助けて。助けて、お母さん。こんなところで一人、燃え死ぬなんて。嫌、嫌だ。どうせ死ぬなら、ママに食べられたい。ママとずっと一緒にいられるように。なのに、こんな離れた場所じゃ、絶対に口にしてもらえない。嫌だ、イヤだ、いやだ。助けてよ、ママ。ママ——
まぶたは燃えてしまったのかしら。目をつむりたくてたまらないのに、この光景を無理やり眼球に焼きつけさせられる。
こちらを無感動に見つめる男と、哄笑を続ける女。何個の目で見たかももうわからない。
何もかもがわからない。
一際大きな炎に飲まれて、残っていた体も思考も——すべてが崩れた。
*****
誰もいない山中。隠された洞窟内で、一つの卵が割れる。
神々しい輝きの糸に包まれた殻から、アラクネの『母』が這い出る。
産めよ、増やせよ、地に満ちよ。この大地をアラクネのゆりかごとするために。