8.未来は己で形作るもの
廃墟と化したデグラ侯国は、驚くほど静かだ。
崩れ落ちた家はあちこちで見受けられ、吹き飛んだ屋根が道ばたに転がっている光景も珍しくない。七日前まで、そこで人が暮らしていたとは思えないほど、寂寞がさまになっている。
最初に踏み込んだ時には点在していた住民の死体も、七日も経つと霧散したようになくなる。人のいなくなった街には野良犬ではなく、グールがうろついていた。ハイエナの姿をした精霊は、敵も味方も関係なく死体を食べ歩き、争いの痕跡を消していく。戦場の掃除屋の名は伊達ではない。
時折、外で目が合うと、彼らは首を傾げて私を見た。そして、まだ違う、とでも言いたげにふいと顔をそらして、どこかへ行ってしまう。見た目は野生動物そのものでも、彼らは生者の肉には興味がないようだった。
頭部に埋め込まれた髑髏の仮面と、青い燐の燃える目が、グールが生と死の曖昧な境界にいることを示す。私の目に映っていながら、私と同じ世界には立っていない。彼らの異様な姿を見ていると、そんな感覚に囚われる。
街の中で、おそらくただ一人の生者である私は、比較的損傷の少ない家に籠もり、手記を書き記していた。すでに、軍は私を残して引き揚げていた。
街を制圧した兵士たちは、当然デグラ侯国を占領しようとしたが、私がそれを許さなかった。
戦略的には価値の低い土地なのだ。でなければ、戦乱渦巻く大陸でここまで残っていない。こんな辺境に人員を割くぐらいなら、中央で国づくりを始めた方がいい。
とかなんとか、もっともらしいことを並べ立てた。
実際、ただ支配域を広げるだけの戦いは終わったと思う。一大勢力へと育った人間を追い落とせるほどの勢力は、もういない。大陸で敵なしとなった人間には、もはや私すら必要ないだろう。英雄がいなくとも立っていけるだけの自信が、ついたはずだから。
やり残したことがある、と私がここにとどまる意思を告げると、三人の側近はそれぞれ呆れた顔をしながらも、反対を口にしなかった。反対するだけ無駄だと、最後の最後で、彼らは学習したらしかった。
私は内心でほっとした。こういう時、彼らを納得させるために使っていた口癖が、今度ばかりは嘘になる予感があった。
私は死なない——
「……死なないわけない」
この街の制圧が完了した時、悟った。自分の役目はこれで終わったのだと。
いつ来るかと気が急き、時に恐れもしたが、意外にも区切りははっきりと自覚できた。
もう運命に生かされる理由はない。こうして手記を書きながら、デュラハンの来訪を待ち構える日々だ。残された時間でできることなど、たかが知れていた。
私の心変わりを、仲間に知られるわけにはいかなかった。だから遠ざけた。
私たちが歩んできたのとは違う道、可能性を見せつけられたからといって、今すぐに方針を転換するわけにはいかない理由がある。告げることは簡単でも、私には仲間を納得させきるだけの時間がない。
下手に言葉にすれば、残された者は『英雄』の発言の解釈を巡って、荒れるだろう。混乱を招き、私が望む現実とはますます、かけ離れる。そして、そういった人々の心の隙を付け狙う輩がいることを、忘れてはいけない。
リリィを突き刺した感触を思い出して、ずきりと胸が重くなる。
私は、そこにいもしないサキュバスに心を乱されたも同然だった。
淫魔の対処を任せたヴァージニアとダニエルを、惑わせるような真似はできない。二人の心に生まれた迷いは、人間の破滅と直結する。大げさではなく、それだけは避けなければならなかった。
だから、吐き出せない思いは、こうして文字に起こして終わりにする。
手記を書くのは、私の性に合った。ラインハルトの手記に触発されて以来、時間があれば、己を見つめ直す機会として、文章を綴ってきた。ペンを動かしていると、不思議と気持ちの整理がついた。
かたり、と物音がする。
手元の灯りが、風に吹かれて揺らいだ。自分でも驚くほど落ち着いた所作でペンを置くと、立ち上がって開閉した扉へ向き直る。
穴の開いた天井から射した月明かりが、室内を照らす。暗闇の中から姿を見せるように、背の高い、黒い騎士が進み出てくる。
私から三歩ほど、離れた位置で行儀良く立ち止まった騎士は、グールに勝るとも劣らない異様な姿をしている。
黒い鎧に身を包んだ、首のない騎士。片手に黒い液体の入った桶をぶら下げて、片手で男の生首を——おそらく騎士自身の生首を、抱えている。月明かりに照らされた首の断面は、ただただ黒く、骨も肉も騎士には存在しないことを示す。
精霊デュラハンのお出ましだ。
「ようやくか」
私の平坦な声に、デュラハンの表情がわずかに動く。中性的な、整った顔の眉が上がる。
「夢を見たのは何年前だったか、こんなに時間がかかるとは思わなかった。知ろうと思えば、それがいつ起こる現実なのか分かったけど、しなかったから。……でも、昨日のことのように覚えているよ。今日見る光景だってのにね」
「私の訪れを、予測していたというのか」
顔に似合った中性的で柔らかな声を、デュラハンは生首の口から出した。
「していなかったら、こんなことになってない。人を避け暮らしていた冴えない男が、軍を起こして、またたく間に戦乱を制する? 他の人種に怯え暮らしていた人間が、一大勢力になって、大陸を支配する? どんな英雄譚だ、それは。とんでもない喜劇だよ」
悪が倒されるのは、正義は勝つからだ。悪行にはそれ相応の罰が与えられて、善行は報われる。仲間に囲まれ、英雄は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
——なんて、現実があるわけない。
舞台の上で演じられたお芝居じゃないから、円満な終わりも迎えない。
「そして……とんでもなく、胸くその悪い結末だ。俺が、ここまでやってきたのは! 何だったんだ! 何のためだったんだ! リリィをこの手で殺すためか? それが、俺がやってきたことへの報いか?」
「それは世界の真実ではない。罰だとか、報いだとか、そんなものは人が己を納得させるために作り出した方便だ」
デュラハンの落ち着いた声には、たしなめる響きがあった。
「世界の真実なんて、大層なものを持ち出すまでもない。きみの真実はもっと単純だ」
「なに?」
「もしきみが、予知夢を見なかったとして。生け贄になる運命の娘を見殺しにできたかな。自分には関係のないことだから、と知らぬふりをしたかね?」
「そ、それは……。……そもそもの前提がおかしい。夢を見なかったなら、俺は森を出ていない。旅に出なければ、そのことを知るよしもない」
「すでに起こったことに対する、もしも、の仮定は無意味だ。なぜならば、どんな過程を経ようと今のこの地点に至るからだ。きみは夢を見ようが見まいが、ある時点でその娘のことを知った。それを踏まえて、もう一度問おう。きみはどうしていた?」
「……少なくとも、命知らずな行動はできなかった。それでも、彼女を助けようとした」
「それが真実だ。予知夢を見たかどうかは、たいした問題ではない。どちらにしろ、きみは人間の命運を変えていた。きみが真の英雄であるがゆえに」
この世の者ではない精霊にさえ、買いかぶられるのが耐えられなくて、かぶりを振って否定する。
「何が英雄だっ!! 俺がそんな大層なもの……なわけない。ここにはただ、逃れられない運命に諦めた愚かな男がいるだけだ!」
「為したことではなく、その心根が肝要なのだ。誰にでもできるわけではない行動を、選び取ることができる。英雄が英雄たる所以だ」
「はっ……、結果は重要じゃないって? そんなわけあるか。結局、何も変わらなかった。今まで力を持っていた奴らがやってきたことを、これからは人間がやっていくだけだ。何も変わっていない……」
無力感に顔を覆う。こちらが黙り込むと、デュラハンもしばらくは沈黙を守った。
やがて、精霊はおもむろに語り出す。
「魔法というのは、いまだ謎が多い未知の分野だ。人がその全容を解き明かすには、あと数百年……いや、数千年はかかるだろう」
突然、なぜそんな話をされたのか分からず、顔を上げる。
「きみは自分が扱う魔法を、本当に知っていると言えるか? “予知魔法”は、本当に未来を映し出しているのだろうか」
「…………?」
目の合ったデュラハンは、思いのほか優しげな表情をしていた。
「たとえば、“頭に思い浮かべた光景が現実になる”魔法だとしたら? 未来が確定しているから見るのではなく、未来を確定させるために見るのだとしたら?」
「そん、な……馬鹿な、あり得ない。おまえは、俺が死にたがっていたとでも言うつもりか」
「私は可能性の話をしているまで。人が一つの属性の魔法しか使えないわけではないのは、知っての通り。きみは知らず知らずのうちに、とても希少な、二つの属性の魔法を使っていたのかもしれないね。“予知魔法”と“未来を確定させる魔法”の、両方を」
足の力が抜けて、立っていられなくなる。今まで考えもしなかった可能性を与えられて、脳みそが揺さぶられる。上下左右にひっくり返された思考に、吐き気がこみ上げてくる。
最初にデュラハンにぶつけた問いが、再び頭に浮かぶ。何のためにここまで来たんだ。何をするために。何をしたために。これまでやってきたことは無駄になるのか。遠い回り道だったのか、それとも必要な過程だったのか。
精霊であるデュラハンに言わせれば、すべての要素に無駄はないのだろうけど。
視界が揺らぐ中、途方に暮れてつぶやく。
「俺は、俺はいったいどんな未来を見ればいい?」
「きみが望む未来を」
口元に緩やかな弧を描き、デュラハンは私を見守る。
息を飲み込み、目を閉じると、先のない暗闇が広がっている。それを恐いと思わずにいられたのは、その先に温かな未来を“存在させる”と強く意識したからだ。リリィが望んでいたであろう世界。デグラ侯国で当たり前のように見られたであろう光景が、いつの日か、大陸を覆い尽くすように。
細かい過程は一切考えない。いつまでに、なんて期限も設けない。ただ結果だけを思い浮かべ、見つめる。
魔力を使う際の、微細な倦怠感が身につのる。
未来を見る感覚と変わらなかった。未来を創っている実感がわかない。自分が、もとからあった未来を見ているのか、創った未来を見ているのか、両者が混ざり合って、それすら分からなくなる。
確かなのは、私が見た光景が存在するということだ。それだけで充分だった。
目を開けると、軽いめまいを感じた。デュラハンは目を閉じる前と変わらず、穏やかに微笑んでいる。
椅子にすがるように立ち上がると、開きっぱなしだった手記に覆いかぶさる。ペンを取って、最後の独白をそこに書き込む。そうしなければいけない予感がした。
未来の人々にあてた言づてのようなものだ。この手記が見つけ出された時、過去の『英雄』の言葉にどれだけの力があるか分からないけど。もはや、こんなもの必要ないくらいの世界になっていて、その時代の人々に苦笑いされてしまうかもしれないけど。
少しでも、私が見た未来の確立を上げるために、自分にできることを。些細でも、微力でも、気休めでも、何もしないよりはましだから。
争いの続く世界ならば、この手記が和解の手助けをする物でありますように。
後世の人々が、私のような愚か者ではありませんように。
そうしたためて、手記を締める。よろけるように机から離れると、ペンが手からこぼれ落ちて床に転がった。もう使うことはないからと無視して、律儀に待っていたデュラハンと対峙する。
「やり残したことはないか?」
「やれるだけのことはやる。この後も」
「それが正しい。それでこそ、私がここに来た意味がある」
デュラハンは死を告げに来るのであって、死を運んで来るわけではない。デュラハンと遭遇したからといって、私が今夜死ぬとは限らないわけだ。
首のない騎士が、一歩、二歩、と近付いてくる。歩みに会わせて、桶の中身が小さく波打った。
「高潔に生きた者にのみ浴びせる、神の血だ。汝の魂を染め、来世に加護を与える」
「ご褒美ってわけか」
「楽園の代わりだ。正しく生きてみるものだろう?」
デュラハンがいたずらっぽく笑う。姿形は不気味なのに、不思議と安心する。そんな特異な雰囲気を持っていた。
目の前で、デュラハンが立ち止まる。
「俺に死を告げる者の名を聞かせてくれ」
「我が名はフィスファール。おまえに死者の国への引導を渡す者である」
言い終えられると同時に、目の前が真っ赤に染まった。生温かな液体が、頬を伝う。嗅ぎ慣れすぎた生臭さには、もはや吐き気すら覚えない。
濡れた服をつかもうとして、予想とは違ったさらりとした感触が指に触れる。自分の体を見下ろすと、見ているそばからみるみるうちに赤い染みが小さくなっていく。真っ赤に染まった手も、瞬きを三度するうちにもとの色に戻る。
魂を染める血。たしか、デュラハンはそう言った。
表面的に染まったのは一瞬で、浴びせられた血はもっと内奥のものを染めるために、深く染み込んでいったのだろう。
私が呆然としている間に、デュラハンの姿は消えていた。家の外から、遠ざかっていく蹄の音を聞いた。
射し込んでいた月明かりも、また雲に隠れたようだった。
*****
花を摘んで、デグラ侯国の小高い丘を登る。
戦闘を終えてからというもの、ずっと続いていた重苦しい曇天に、ようやく晴れの兆しが見えていた。雲の切れ間から、うっすらと陽が射している。その日差しがちょうどよく、丘の上の石碑を照らしているものだから、自然と顔がほころびる。
そこに、失われないリリィのらしさ、を見つけた気がして。
デュラハンが来る前から、私は石碑作りに専念していた。デグラ侯国の一角に立てたそれは、腰の高さほどしかなく、小さく目立たないものだ。完成した石碑の下には、箱に入れた私の手記を埋めた。
石碑には慰霊碑としての趣旨も込めたが、それ以上に目印の意味合いが強い。
戦死した者たちへ、私が鎮魂の言葉を送るのはなにか違う気がした。だから、死者を鎮魂するための文言はなく、ただ百合の花の絵柄だけが彫られている。
彼女を知る人が見れば、この石碑の意味を理解するだろう図柄を選んだ。必要な時が来れば、運命に導かれて手記は掘り出されるだろう。もっとも、運命というのは自分から作り出すものらしい、と今になって理解したわけだが。
丘を登り終えて、石碑の前に立ち尽くす。
摘んできた花は、リリィと仲良くなるきっかけを作った、思い出深いものだ。
花の蜜をおやつ代わりに吸う彼女を初めて見た時は、唖然とした。その前日につぼみを前にして、この花はいつ咲くかな、なんて無邪気に聞いてきたものだから。私は、明日には咲いてるよ、と答えたのだった。まさか蜜を吸うための問いかけだったなんて、思いもしなかった。
その後、リリィはばつが悪そうに摘んだ花を差し出してきて、一緒に甘い蜜を味わった。子供の頃の、美しい記憶だ。
思い出に浸っていると、怒号のような馬のいななきが背後から聞こえた。
ふっ、とそのいななきに覚えがあることに気が付く。似たものを聞いた、なんてものではない。この瞬間の、そのものを、以前に聞いた。
——夢の中で。
思い至った時にはもう、巨体の影が私に覆いかぶさっている。あっ、と思う間もない。頭に強い衝撃を与えられ、膝ががくりと落ちる。暗転を繰り返す視界をどうにか襲撃者に向けるため、身をよじって石碑を背にする。意思に反して落ちてこようとするまぶたに抗いながら、なんとか視線を上げる。
堂々とした佇まいの、二本角の黒馬が、私を見下ろしていた。リリィが連れていたバイコーンだ。
私がデュラハンの首なし馬のいななきだと思っていたものは、どうやらバイコーンのいななきだったらしい。予知夢で聞いたのは、死を告げに来る者ではなく、死を直接与えに来る者の鳴き声だったわけだ。
バイコーンの印象的な緑色の目は、怒りに燃えている。鬼神のような雰囲気をまといながら、バイコーンは片方の前足を上げた。私の体を踏み抜くつもりだろう。他人事のように予想する。
その時を待っていると、バイコーンの視線がわずかにずれた。おそらく私ではなく、私の後ろの石碑に目を向けている。
緑色の瞳が揺れ、掲げた前足は重力に負けたようにゆっくり地につく。
「なぜ、避けなかった。わざわざ、いななきを上げてやったというのに」
バイコーンは妙なことを言う。私を殺しに来たのだろうに、この結果は意にそぐわないとでも言いたげにうなだれる。
「俺が、ここで死ぬ運命だからじゃないか」
「なぜ、応戦しなかった。なんで、私を殺してくれなかった……!」
「それは、おまえがここで死ぬ運命じゃないからだろう」
何を求めてここまで来たのか、バイコーン自身も分からなくなっているようだった。私を殺して、それですっきりという単純な思考回路はしていないらしい。
その惑う姿に、なにか声をかけてやらなければ、と思う。舌がもつれ、喉が詰まりそうになる。それでも、言うべき言葉がある。
「おまえには、生きて、まだやるべきことがあるんじゃないか」
無駄なことは何一つない。この結果にも意味がある。
しだいに、視界が黒塗りされていく。狭まった視界に、雲が流れて青の面積が増えた空が映る。最後に青い空が見られてよかった、とぼんやり思う。
視覚が役割を終えて真っ黒な世界が訪れると、動かない指先に花びらが触れているのが分かった。倒れた際に、持っていた花が地面に散らばったのだろう。嗅覚はまだ機能するらしく、周囲を蜜の甘い香りが占めていた。
自分が死ぬのだという実感が、ようやくわいてくる。どれだけ予知ができたとしても、これだけは、実際に味わうまで分からなかった。自分が世界から切り離されていく感覚——
——だけど、彼女との思い出に囲まれて死ねるなら。
こんな終わりも悪くない。
*****
共に未来を創っていくのだと信じていた。しかし、英雄は姿をくらまし、残された者には泰平の世が与えられた。
三人の側近は誓い合う。歩む方向は違えど、あの方が作った世界を守護していくことを。そして、次世代へと受け継いでいくと。
いつの時代か、英雄が再び生まれ落ちるその日まで。
【END】




