7.いつか巡り会う
多くの敗残兵が逃げ込んだ先、デグラ侯国へ届けた書状は、決裂の言葉と共に返ってきた。ある程度は予想していたことだが、それでも落胆の息はもれ出る。
初めて同族争いをしてから一年半。その間、あの夜に口にした言葉は現実となって押しかかってきた。たびたび、人間の襲撃に見舞われた。組織的なものではなく、私怨に近いものばかりであったのが、せめてもの救いだった。
それでも、彼らを相手にしなければならない時は、そのたびに覚悟を決めてきた。
そして今度も。
陣を構えた先を見据えれば、小さな国がある。国と呼ぶにはあまりにも小さくて、せいぜい街といった規模なのだが、彼らは誇らしげに「デグラ侯国」を名乗り、旗まで掲げている始末だった。
戦乱の世などどこ吹く風。このご時世に、様々な人種が入り乱れて暮らすというのだから、驚きだ。小さすぎて為政者には見向きもされず、そのために、今日までその空間が守られてきたのだろう。
私たちも、山犬からの報告がなければ見落としていたかもしれない。
彼の地で、敗走した獣人が軍の立て直しをはかっている。
その知らせを聞いた時、頭に浮かんだのは、ラインハルトが身を盾にして逃がした幼子のことだった。あの時の幼子が、もう軍を率いるようになったとは思えない。獣人の中には、あれ以外にも、再興を目論む輩が山ほどいる。そういう気質の人種だ。放っておいたら、いつかまた、食いつかれる。
そして、そいつらが人間を盾にしかねない連中だということも、重々承知していた。デグラ侯国内の人間を助けたい、そう思って出した要求は、当の人間から蹴られてしまった。
彼らは、同族の人間よりも、隣にいるアラクネやサテュロス、ケンタウロスに獣人、その他諸々の方が大事だと言った。私たちが敵視する者を、堂々と庇った。だから、彼らも敵なのだ。私たちと同族であろうと。
この一年間、人間とばかり小競り合いをしてきたわけではない。
川をせき止めて流れを変え、ドワーフの坑道を水攻めした。エルフの森も焼き払った。理由はよく覚えていない。ただ、それを求める人がいたから、やった。
坑道を逃げ道に使う敗残兵が多かったから。地上に流通する武器のもとを絶とうとしたから。盗賊に襲われ逃げ込もうとした森で追い返されたから。
誰かに肩入れしているわけじゃない。たとえ、何者であろうと手を貸した。誰彼構わず武器をばらまいて、財をかき集めただけ。ひとえに己の国を潤すために。それが、利己的な強欲者の罪だと言った。
誰かに肩入れするわけにいかない。たとえ、何者であろうと拒絶した。災いの種を呼び込まないために。己の安寧ばかりを追い求め、見ないふり聞こえないふりをする。それが、無精者の罪だと言った。
この大陸に生きる限り、誰も彼も戦乱と無関係ではいられない。火種も熾も、あちこちでくすぶっていた。
ヴァージニアが呪文を唱えると、星空よりずっと近くに、幾百もの光が浮かんだ。額に玉の汗を浮かべながらも、誇らしげにこちらを向いて、彼女は興奮を隠しきれない声で言う。
「ついに……! 星を降らせることに成功しました!」
デグラ侯国に攻め入る、前夜のことだった。夕食を囲む前に、見せたいものがある、と私たちは野原に連れ出された。
彼女がつい、と指を動かすと、浮かんだ光の玉は一筋の光線となって地上に降り注ぐ。その光景は彼女が言う通り、流れ星の大群のようにも見えた。
ダニエルは素直に感心したが、ピナレスは生意気にも口答えした。
「星というか、光の矢でしょ」
美味しそうな匂いを漂わせていた鍋の前から引き剥がされて、彼は不満たらたらだった。
手っ取り早く夕食にありつきたいなら、彼女を肯定して褒めそやすのが一番だと思うのだが、空腹でそこまで頭が回らないらしい。率直な感想は意地悪というより、思ったことをそのまま口にした結果に思えた。
案の定、ヴァージニアがむきになる。
「星です! これは星を降らせる魔法なんです!」
「ヴァージニアさんも乙女だったんすねぇ。そんなロマンチックな魔法に熱を上げちゃうなんて」
「なんか馬鹿にしていませんか!?」
「いやいや、そんなことないですよ。でもやっぱり星には見えなーい」
言い争う二人を見かねたのか、ダニエルが割って入って彼女に尋ねる。
「なぜ星にこだわるんだ?」
「その方が、裁きって感じがするでしょう? 天から降り注ぐ星がこう、敵をばーっとやっつけて」
「うわ、やっぱり可愛くない理由だった。……たしかに、遠くで見る分にはきれいだけど、あの下にいたらひとたまりもないんだろうな」
しみじみと、ピナレスが感想を述べる。
地に触れた途端、光線は跡形もなく消え失せた。矢と違って空を切る音すら出さない。しかし、それがただの明かりでないことは、光が落ちた地点からうっすら昇る、黒い煙が物語っている。
その結果に、ヴァージニアは満足そうに頷いた。
「どうにか間に合わせることができました。明日はこれを使います」
「……負担が大きそうだが、大丈夫か?」
平気そうな顔で喋っていたが、声には疲労の色がうかがえる。気力をあの一瞬につぎ込んだようだ。
魔法の負担は、見た目以上に大きい。今言っておかなければ、彼女は明日も無理をしそうだった。
「運用するにしても一回が限度だな。それ以上は危険だ」
「で、でも」
「正確さに劣るものに頼るわけにいかない」
「…………。い、一発でけりをつけろということですね! がんばります!」
変に気張ってしまったようだが、これ以上は何も言えなかった。
彼女がどんな思いで、この魔法を研究していたか知っているからだ。
彼女は決して、敵を大量虐殺して喜ぶようなタイプではない。必要ならそうするというだけで、ひどく合理的な人間だ。
ただ、身内を思う心は、人一倍強かった。軍の最古参であるヴァージニアは、私と同じだけ、命のやりとりを見てきている。出会う前のことを考えると、私以上に、命が無残に散る光景も知っているだろう。
一瞬でけりをつけてしまいたい。そう思うのは、味方への被害を最小限に抑えたい、という願いにほかならなかった。
何年もたゆまぬ努力を重ねてきて、ようやく実った成果。それを発揮せずに終われと言うほど、私は鬼畜ではない。
ただ少し、引っかかりがあった。例の、いつもの予感だ。
「ヴァージニア、開幕に使うのは避けた方がいい」
「しかし、それでは、私がこの魔法を発見した意味が……」
「カリム様の勘が当たるのは知ってるでしょうに。忠告は聞き入れた方がいいっすよ」
ピナレスが私に助け船を出す。考えを巡らせた結果、ヴァージニアは渋々ながら頷いた。
圧倒的な力をもって相手を畏縮させるのは、単純だが効果的な方法だ。そこに異論はない。
「さ、そろそろ戻ろう。明日、実力を発揮するためには、なにより腹ごしらえが大切だろう?」
私が言うと、ピナレスが強く同意を示した。
四人の中で一番に夕食を食べ終えたピナレスは、空になった椀にさじを投げ入れて、空を見上げた。
「あの星々は、死んだ戦士の魂の輝きらしいっすね」
「なんですか、それ」
怪訝そうに顔を上げたヴァージニアに、ピナレスはしたり顔で説明する。
「そういうケンタウロスの信仰があるんすよ。一等輝くお星様になれるよう、気高く生きましょうね、っていう」
「……前から思っていたが、きみは妙な知識を持っているな」
「父が博識だったんでね。いろいろ聞かされたし、いろいろ教えてもらった」
ピナレスが感心させようとしていたヴァージニアは渋い顔でよそを向いていて、予定外だったダニエルが素直に頷いている。
ヴァージニアは湯気を立てる椀の中身と格闘中だった。おそるおそるといった動作でさじを口に運ぶ様子は、先ほどから変わりない。数分前にもまったく同じ挑戦をして、彼女の猫舌は敗北を喫していた。そして今、数分前とまったく同じしかめっ面を見せた彼女は、またも敗れたことを物語る。
ため息を椀の中に落とし、ヴァージニアはピナレスに続きをうながす。夕飯が冷めるまでの時間潰しにちょうどいいと思ったのだろう。
「それで、なぜそんな話を?」
「いや、ヴァージニアさんが星、星、って騒いでたから思い出しただけ」
「え? それでおしまいですか? 話の広がりは?」
ヴァージニアが落胆の声を上げる。せっかく見つけた暇つぶしはもう終わりか、と。
彼女から普段以上の期待を感じ取ったピナレスは、ええっ、と驚きながらも、真面目に続きを探し始める。
「そうっすねえ……。……あ、皆さんは死後の世界について考えたことあります?」
「いきなり縁起の悪い話題を持ってくるな」
「食事中にする話ではありませんね」
「えー? 死後の世界を考えるのって、不吉なことですかね? 死んだら星になるとか、神々の一員になれるとか、むしろ喜ばしいというか、輝かしいことのはずでしょ」
無邪気な言葉とは裏腹に、彼の表情は皮肉めいている。
ある意味、今一番身近で、タイムリーな話題であることは違いなかった。私にとってはなおさら。
「この世界には、信仰の数だけ死後の世界がある。おれたちは……人間は、死んだらどうなるんですか」
息を引き取った体は、放っておけばグールが食べに来て、きれいさっぱりなくなる。だが、彼が言っているのは、そんな物体の在り処の話ではない。そんなことは百も承知だ。
死者を食べる精霊の口を通った後。魂はどこへ行くのか。
グールの口は地獄の門か、楽園の扉か、あるいは何もない無への入り口か。分からないゆえに、人は想像を巡らす。現世の苦しみの先に、救いを求める。現世の苦しみに、理由を求める。
「自分が近々死ぬとでも思っているのか、きみは」
ダニエルの深刻さを帯びた声に、ピナレスは慌てて首を横に振った。
「いやいや、違いますって。ただこう、心構えというか……。死後の世界がどんな楽園でも、もうしばらくは遠慮したいっすねえ。どんなに楽しいところだろうと、生きている今に勝るものはないでしょ」
「……そうかな」
まったくの無意識だった。私のつぶやきに、三人の視線が一斉に集まる。
もらしてしまった言葉を取り繕おうにも、あまりにもはっきりと形にしてしまった。なにより、彼らの呆気に取られた顔を見ていたら、誤魔化すのも悪い気がしてくる。
「もし、もう一度この世界に生まれてこられるって言われたら、きみらはそうしたいか? こんな世界、私ならごめんだ」
「転生の概念ですね。精霊信仰の死生観です」
「生まれ変わりかあ。前世の記憶があるってんならともかく、一からやり直しとなると、厳しいっすね」
「なら、カリム様は死んだらどうなるのが理想ですか」
ダニエルの真面目な問いかけが可笑しい。将来の夢でも尋ねるように、死後の理想を聞いてくる。自分でどうこうできる問題でもないのに。
ただ、私はこの中では一番早く、死後の世界を見ることになる。
間近に迫っている今、あえて暗い予想はしたくなかった。夢のような世界で構わないのだ。どうせ、自分を慰めるための虚構なのだから。
なるほど、こうして各宗教観の、死後の世界は形作られていくのだろう。人々の死への恐れを利用して、信ずれば救われる、と来るのだ。
「そうだな、楽園に行きたいな。悩みも苦しみもない、ただ優しいだけの世界。そういうところがいい」
「でも、死んだ魔族も楽園にいたら嫌じゃないですか? 散々悪さをしてきたやつが、死後にそんな素敵世界に行くのは許せないっすね」
「なら、そいつらは地獄に行けばいい。楽園か、地獄か、決めるのは生前の行い次第だ。ご褒美か罰か、実に分かりやすいだろう?」
子供の良心を育てるために、使い古された世界観だ。しかし、だからこそ、納得のいく道理だ。
気付くと、ヴァージニアの椀から立ち上っていた湯気が消えている。彼女は一周遅れの夕食を始めながら、満足そうに頷く。
「死後の楽園もいいですけど、やはり生きているこの世界が楽園のようになってほしいものですね」
死後の世界を信じるよりも、そちらの方がよほど夢物語ですけど、と彼女は小さく笑う。
誰かが好き勝手にやれば、別の誰かに害がもたらされる。この世に楽園の実現などあり得ない。生者には感情がつきまとう。感情は、ひどい行為を呼び寄せるきっかけにもなる。
人は死ななければ聖者にはなれないのだ。
楽園や地獄が本当にあったとして、私が楽園の側に行ける保証もない。それどころか、討ち倒してきた連中とまとめて地獄行きが妥当なところだとも思っている。
現世の行いの結果、地獄に落ちたとして、その中で私こそが正義だったと胸を張れる、そういう生き方をしたかった。
*****
どこかで驕りがあったのかもしれない。あるいは、相手を辺境の小国と侮っていたか。
開戦直後、思わぬ反撃にあったことで隊列は乱れた。隊列の乱れはそのまま、兵士たちの、指揮官らの心中のざわめきだ。
射った矢は空間を歪められたようにこちらへ帰ってきて、射手を傷付ける。こちらの混乱に乗じて突撃してきた人馬は、バイコーンと女の乗り手で、これにも兵士たちは目を見張った。
たった一騎、敵陣に乗り込んできた無謀さはもちろん、初めて敵対する、賢獣と心を通わせた人の組み合わせに。実のところ、無謀でもなんでもなかった。彼らはその自信を裏付けるだけの実力があった。
瞠目するもつかの間、前線の兵士が地面ごと吹き飛び、黒焦げの塊になって落ちてくる。彼らの足を止めようと弓を引き、魔法を放っても、攻撃はすべて人馬を囲うように浮かぶ魔法陣に吸い込まれる。そして一拍もおかず、吸い込んだ矢も魔法も、攻撃した本人へ返されていく。
気付いたら、馬の背に飛び乗っていた。
ピナレスの制止の声を聞いた気がしたが、手綱をたぐる手は止めなかった。一秒でも足を止めれば、一人の犠牲者を増やすだけだという焦燥が、私を駆り立てた。
一度、女と剣を交差させた後、周りにいた兵士をピナレス共々、その場から追い出したのは覚えている。災害のような敵を相手するのは、死なないと分かっている私だけで十分だ。死ぬかもしれない者をそばにおいても、助けにはならない。
「カリム……?」
女の声を聞いたのは、その時だ。
私の名を、一音一音、懐かしむように発する。その呼びかけを口にする機会が、長い間なかったからと言いたげに。
私の方はというと、安易に彼女の名を呼べなかった。思い出すのは、一糸まとわずベッドに腰かけていた彼女の姿だ。——彼女に化けた、サキュバスの姿だ。
再び、私の前に、幼馴染が。リリィの姿が、立ちはだかっていた。
返事をしない私に構わず、リリィの姿をした者は、再会の喜びを口にしているようだった。
悲鳴のような耳鳴りがする。聞きたくないと、脳が勝手に、無理やりに、相手の声をかき消す。それでも、かろうじて追える口の動きで、彼女が喋る内容は認識できた。
馴れ馴れしい笑みを向けられて、吐き気がした。この場にそぐわない感動を、演出するかのようで。彼女が本物だとしたら、最悪の冗談だ。
自分が何を言ったかも分からなかった。だが、まがい物は一丁前に戸惑ってみせ、私に食いさがる。自分は本物だと。信じない私が信じられない、と眉根を寄せて。
偽物に、彼女を穢されるようで許せなかった。
剣を振り上げたのは、思い出の中の彼女を守るためだった。
*****
デグラ侯国には星が降った。
ヴァージニアが言うところの天の裁きが、人もろとも、街を破壊し尽くした。遠目で見る分には天災のように映っても、私はそれが、人がもたらした力任せの攻撃だと知っている。
彼女には使いどころを見誤るなと言った。そして、数ある瞬間でこの時を選んだ彼女の判断は正しい。
空間をねじ曲げる魔法の使い手は、目の前で地に手をつくリリィの偽物だった。戦闘中、折れても折られても、別のどこかへと繋がった空間から武器を取り出す姿を、散々見せられた。
当然、それらの行為には魔力が消耗されるわけで、街の上空を守っていた魔法陣はしだいに薄れていった。降った星を、どこかへ吸い込めなくなるほどに。
わずかに残っていたであろう余力は、お供の賢獣の命を助けるために使われた。空間魔法でどこかへと飛ばされてしまい、バイコーンの姿はもうない。
ひどく足が重かった。剣を構える腕は震えている。体は興奮して熱を帯びているというのに、頭は妙に冷めていて、流れる汗も嫌な冷たさを持っていた。
ここで死ぬわけがないと分かっているのに、死を意識するほどだ。
「よくも……」
偽物が地面で拳を作る。その腕が震えているのは、私と同じく体が限界を迎えているからか、怒りの感情によるものか分からなかった。
分かるのは彼女の目にも、星が降る光景は、天災ではなく人為的なものに映ったということだ。怨嗟に燃える目は、押し付けられた天罰を理解していた。
「ああああああ!!」
偽物が膝を起こし、地面を蹴り、握りしめたままだった剣を振り抜く。ぶれたのは彼女の剣筋だったか、私の体だったか。どちらが正解か分からないほどに、私たちは互いに疲弊していた。
とにかく、ここで死ぬ運命にない私に刃は届かず、飛び込んできた彼女には私の刃が深々と突き刺さった。腹を割る異物に、彼女は血の混じった濁った咳をする。
私は刃を抜かず、柄から手を離して、そのまま一歩、二歩、と後ずさった。
支えを失った彼女は、再び地面に両膝をつく。前屈みになって腹から生える柄を握ろうとするが、手が滑ってうまくいかないらしい。途方に暮れた顔であたりを見た彼女は、目が合った私に手を伸ばす。
「か、カリム……」
助けを求める掠れた声に耳を閉ざそうにも、今度は都合良く耳鳴りはしてくれなかった。
血にまみれた手が、力なく落ちていく。それを見て、あの時、戻って手をつかめなかった自分を思い出す。
その瞬間、偽物だとか、本物だとか、そんなことはどうでもよくなってしまった。また彼女に背を向けるのが嫌だった。どうせ死なないのだから、彼女に怯える必要なんてないのだ。いや、ここで彼女に刺された傷が、後日私に死を招くのだとしても、構わなかった。
「リリィ……!」
彼女に駆け寄って、腕が完全に落ちきる前にその手をつかむ。そばに膝をついて体を支えてやると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「やっと、名前、思い出してくれたの……?」
「わ、忘れていたわけじゃ——」
「分かってる。信用、できなかったのよね……本物だって。さっき言ってた」
そこでなぜか、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「私を見捨てた、ってずっと思っていたの?」
「…………!」
「違うの、よ。私が、貴方を逃がしたの。貴方が悪いんじゃ、ない」
途切れ途切れでも、確実に伝えるために、彼女はゆっくりと言葉を押し出す。視線が絡み、彼女の意図が読めてくる。つい先刻、見たばかりだ。聞いたばかりだ。
死なせたくない、と言い、彼女はバイコーンをどこかへ飛ばした。
「俺だけでも逃がそうとした……?」
腕の中で、リリィがこくりと頷く。
「まだ、子供だったから、あれが精一杯だった……。でも、できるだけ遠くへ、移動させようと、したの、よ」
言葉が出てこなかった。
あの時、足をくじいた彼女が伸ばした手は、私に助けを求めるためのものではなかった。空間魔法を発動させ、対象をその場から逃がすために向けた手だった。こちらに向かってくる獣人がいる中、戻って彼女を助け起こすには絶望的な距離が開いていた。
それが、私の臆病な足が作った距離ではなく、私を諦めさせるために彼女が作った距離だと言うのだ。
「だ……だとしても、きみを置いて逃げた事実は変わらない。俺は、きみと運命を共にするべきだった!」
「まだ、ほんの子供だった自分を、そんなに責めるの? それが、貴方の思う、英雄的な行動? カリム……、勇気と無謀は違うわ」
それに、結果的には私は無事だったわけだしね。と、微笑んでから、リリィは咳き込んだ。
ざらついた咳に、彼女の腹に食い込む刃を、改めて意識する。私が、突き刺した——
柄をつかんで引き抜こうとすると、リリィがうめいた。彼女の苦しそうな声に怯み、手はとっさに離れる。
ほんの少し引かれた刃と共に、血が盛り上がるように流れ出てくる。一滴でも彼女の体から逃がしてはいけないと思った。流れた血をすくい上げるように手を滑らせ、腹の傷を覆う。しかし、そうすると刃が抜けない。
途方に暮れた私の手に、リリィの手が重ねられる。先ほどつかんだ時の体温を忘れそうになるほど、冷たい手だった。ただ添えられているだけなのに、彼女が私を引き剥がそうとしているのを感じ取れた。物理的にではなく、精神的に。
あの時のように。私を諦めさせようとしていた。
「い、今からでも、手当をすれば間に合う!」
「カリム」
「きっと大丈夫だ。いや、絶対に大丈夫だ。きみを死なせたりしない」
「カリム——!」
大きな声を出すために腹に力を込めると、リリィはたちまち顔を歪めさせた。私が何も言えなくなると、彼女は再び微笑む。しかし、それは先ほどよりも無理をしていると分かる笑みだった。
「聞いて。私ね、あの時の獣人に、助けられたの」
記憶の奥底で鳴り続け、しだいに大きくなる警告音には、聞こえないふりをした。彼女が命をすり減らしながら伝える言葉に、耳をふさぐわけにはいかない。たとえそれが、私にとってどれだけ都合が悪いものであろうと。
「私達を襲う気なんて、もとからなかった。けど、私が転んで、怪我をしたから。私のことを、追いかけてきたの」
リリィのまっすぐな目から、視線を外すことができなかった。
「デグラ侯国で、手当を受けて……それからずっと、ここで暮らしてきた。私は、この国で生きてきた」
「…………っ」
喉から、声になりきれなかった音がもれ出る。瀕死の彼女の方が、私なんかより、ずっとはっきり喋っていた。
「お願い。これだけは分かって。私、貴方の言う『魔族』に、騙されたわけじゃない。ここが、私の守るべき場所だったの……っ」
「お、俺はっ、取り返しのつかないことを、して——」
喉が引きつり、呼吸が乱れる。自分が泣いていることに、視界が歪んでから気付く。生暖かな液体が頬を伝い、彼女の体に落ちていく。
リリィは不思議そうに、私のことを見上げていた。
「なぜ、勝利した貴方が泣くの。お互い、信念を貫くために、戦ったのでしょう……? 貴方には、付いてきてくれる人が、いる。その人達に、申し訳ないと、思わないの」
「デグラ侯国が、この大陸に残された最後の良心だったとしたらっ……、俺は、それを潰したことになる——!」
「…………。優しい人が、たくさんいた。私は、そういう人たちに囲まれて、育った。……でもね、再起をはかる亡国の兵が……紛れ込んでいたのも、事実。貴方はきっと、そういう、外の優しくない、世界を見てきたのよね……」
そこで彼女は初めて、泣きそうな顔になった。
「だって、私、貴方が悪い人じゃないって、知ってる……! 人のために、涙を流せるぐらい、優しい人だって……!」
いっそ否定をしてくれた方が、救われた。私の行動は間違っていたと、そう一言糾弾してくれるだけでよかったのに。中途半端な断罪と易しい赦しが与えられるから、罪悪感がぶら下がって行き場を失う。
リリィの手が、私の頬をなでる。涙を拭うつもりが、血を塗りつける結果になって、眉尻が下がる。彼女の慰めは逆効果だ。こんなので、涙が止まるわけない。
「貴方が悪いんじゃ、ない」
もう一度、彼女は言う。
「私が死ぬのも。分かっていたこと、なの」
彼女の口ぶりには、覚えがあった。常日頃、自分は死なないと、言い聞かせる私の口調そっくりだった。
目を見張ると、リリィは貴方なら分かるでしょうと言わんばかりに、かすかに頷く。
「それにね、デグラ侯国の信条は、失われない。カリム……、貴方が、失ってはならないものだと、気付いてくれたのなら」
「リリィ——」
まるで眠りにつくかのように、とろんとリリィのまぶたが下がってくる。同時に、頬をなでていた小刻みに震える手も、段々と力をなくしていく。
それでも、だだをこねる子供を諭すような穏やかな言葉を、唇は紡ぐ。
「今生の別れは、永遠の別れじゃない……。人は、愛する者に再び会うため、生まれてくる……の、だから」
ついにはまぶたを完全に閉じきり、腕はぱたりと落ちる。薄く開いたままの口に耳を寄せてみても、もう彼女の声は聞こえない。呼吸すら、感じ取れない。
彼女は、また来世で、と言いたかったのかもしれない。けれど、私が“リリィ”を失った事実は——自分の手で殺した事実は、変えようがない。それは、なんの慰めにもならなかった。
景色が灰色に染まって見えた。あんなにも赤く見えた血さえも、急激に色あせていくようだった。今朝から上空を覆い尽くす濃い灰色の雲が、重い空気の薄暗さを演出していた。
遠くの戦の音もすでに止んでいる。色も音もすべてが感じられない。鼻の奥に香る血生臭さだけが、死を鮮明に嗅ぎ取っていた。
その中で、急にぱらぱらと音が鳴る。多数の小さな刺激が体を叩く。見上げると、分厚い雲から、はち切れたように大粒の雨が降ってきていた。空気を切るような鋭い雨足に、軽かった雨音は、すぐにばらばらと耳に痛いほどになる。
途切れる気配のない雑音にまぎれて、腹の奥にたまっていた叫びを、吐き出した。
喉を焼くほどの絶叫も、雨声の中に消える。流れる涙も、雨雫と混ざり合う。
『英雄』を慕う人たちのもとには、この声も姿も届かない。だから、自分をさらけ出していいのだ。そう、天に言われている気がした。
体温を奪っていく雨粒にまみれてなお、彼女の冷たさには届かない。どしゃぶりの雨が、生と死を別つ川を作っていくようだった。
リリィの体をかき抱いて、私はむせび泣いた。




