6.いずれは貶められる魔族
こちらを心配して寄り添ってくる彼女の方が、下着姿で私を待ち構えていた女なんかよりも、よほど好感が持てた。
先ほどの無礼な女とは正反対の、ヴァージニアの慎み深さが心地良い。もっとも、その痴女は人間ですらなかったわけだが。
「本当に、何もされていませんか?」
「何もされていない。心配するな」
勢い余って窓枠にたたきつけた剣の刃を、力を込めて引き抜く。傷が残ってしまったが、仕方ない。部屋に忍び込んだ痴女——もといサキュバスが、この窓から逃げていったばかりだった。
サキュバスが部屋に仕掛けていた妙な魔法は、そいつが去るとすぐ、もやが晴れるように消えた。おそらく、人の判断を狂わせる類のものだ。
念のため、ダニエルはマントで、ピナレスは襟巻きで、それぞれ口元と鼻を押さえている。しかし、それで防げるものかどうかも定かではない。
魔法の効能よりも、一瞬でも見てしまった女の裸の方が、はるかに彼らに動揺を与えたようだ。ダニエルは眉間にしわを寄せ、ピナレスは赤くなった顔を襟巻きにうずめていた。サキュバスと同性であるヴァージニアだけが、一人平然としている。
サキュバスが飛び去っていった方角を睨み、彼女は唇を噛む。
「カリム様に言い寄る人間の女は追い払っていましたが、まさか人間以外に、そういう輩が現れるとは……」
「ん?」
「これからは窓も見張らなくては。というか、窓はすべて鍵をかけてしまいましょう。そうしましょう。その方が安心です」
「いや、それはいいけど、追い払っていた……?」
私の疑問には答えず、ヴァージニアはいまだ居心地悪そうにしている男二人を振り返る。
「兵士たちにも注意喚起をした方がいいかもしれません。素性の知らぬ美女に言い寄られても、決して舞い上がらないように、と」
「ますます疑心暗鬼になるな。たとえ人間の姿をしていても、信用できないとは」
ダニエルは肩をすくめる。彼の疑り深い目は、日に日に鋭い輝きを増していくようだった。
ピナレスは、ヴァージニアの言葉に賛同も否定もしなかった。代わりに、凛々しい眉を吊り上げて、私に言った。
「カリム様、二人きりで話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
ヴァージニアとダニエルが、顔を見合わせる。彼らが抗議の視線を向けてこないうちに、私は頷いた。
「構わない。すまないが、二人とも席を外してくれるか」
ピナレスは、いつになく真剣な面持ちをしていた。
話を始める前に、ピナレスはまず頭を下げた。謝らなくてはならないことがある、と。
「おれは淫魔の危険性について、知らされていました。それなのに、貴方には一言も告げなかった。申し訳ありません。事前に知っていたら、今回のことも、もっとうまく対処しようがあったというもの。おれの責任です」
そういえば、私がサキュバスと対面していた時、彼の者が「サキュバス」であると叫んだのは、ピナレスだった。彼らが部屋に飛び込んできた時にはもう、女は翼と尻尾を出していたが、彼はその姿を見る前から、確信を持っていたような気がする。
「知らされていた? 誰かから聞いたということか?」
「おれが討ち取った有翼人、そいつが死に際に話したのです。魔族に気をつけよ、と。……魔族というのは、有翼人が使う隠語、あるいは蔑称みたいなものですかね。要は淫魔のことです。場合によっては、淫魔にそそのかされた者も含めるようですが」
「有翼人が人間に警告したのか?」
「警告、とは違うかもしれません。ただ、おれたちに、淫魔に対する警戒心を植え付けるための行動だったのは確かです。連中は……有翼人は、淫魔のことが憎くて憎くて仕方ないようでした。あれを滅ぼすためなら、なんだってする。そんな感じだった」
ピナレスは床に視線を向けていたが、しばらくすると、決意を固めたような表情で顔を上げた。
「おれは、仇の言うことを鵜呑みにできなかった。だから、確かめるために、父と連絡を取っていたんです。返事がきたら、貴方にも話そうと思っていました」
有翼人に知らされたという淫魔の概要だけじゃない。彼は、今までうやむやにしてきた己の素性にまで、言及しようとしていた。
「タイミングが悪くなってしまったけど、父からの答えも返ってきました。その有翼人が話したことはすべて本当である、と。……おれの父さんは、有翼人なんです」
相当な覚悟を持って、彼は真相を語ったようだった。
強張った顔をするのは、人間ではない者を父と慕う後ろめたさがあるからか、今の己の立場を思うからか。
ヴァージニアとダニエルに、話を聞かれたくなかったわけが分かった。二人はここ最近の騒動でぴりぴりしているし、変に刺激したくなかったのだろう。下手したら、二人の敵意がピナレスに向かう可能性だってある。
しかし、せっかく一大決心の告白をしたというのに、その続きでピナレスは歯切れが悪くなった。
「いや、有翼人だった、っていう方が正しい、のかも……?」
「だった?」
「翼を切り落とされてますから。あいつに」
そう言って、彼は城壁がある方向を視線で指す。窓からは見えないが、そこには例の有翼人のはりつけがあるはずだ。
一騎打ちを申し出た理由はこれだったか、と合点がいった。
「でも、おれが思い出すのは翼がある姿だから、やっぱり有翼人かな。父——ピニオンは、有翼人の幕僚だったそうです。けど、十年以上も前に出奔してからは、有翼人と関わることもなかったと言ってました。……十年以上、たまたま拾ってしまったおれを育てながら、隠れ生きていた。普通なら、とっくに時効じゃないですか。害をなすわけじゃないんだから、そっとしておいてくれてもいいでしょ。おれはそう思うんですけどね、奴らはそうじゃないみたいで。裏切り者を見過ごせないからって、父を制裁していきました」
「翼を切り落とすことが制裁なのか」
「お前はもう有翼人の仲間じゃない、っていう刻印みたいなものでしょうね。事実、今の父さんの姿は、背中に大きな傷を負った人間みたいなものだ」
もとからその姿である私たちには、痛みを想像することはできても、奪われた憂いを完全に理解することはできない。人間に翼が生えたら、それは余計なものだ。空を飛ぶなんて、おこがましいとすら思う。
だが、有翼人の翼は余計なものじゃない。手足があるなら翼がなくても生活できる、なんて理屈ではない。歩くだけなら足は二本で事足りるけど、ケンタウロスの足は四本ある。それと同じだ。
大地を駆け抜けるために、空を舞い飛ぶために、彼らはその姿で生まれてきた。欠けてはならない、大事な一部だ。
見た目が人間と変わらなくても、一度は飛べた空を見る目は、人間のそれと違うはずだ。
「おれ、あいつらのことが許せないです。小さい頃、ねだったら父さんはおれを抱えて、空からの景色を見せてくれた。成長するにつれて、無理なお願いになったけど。その時の思い出はずっと心にある」
そして、それはピナレスにしても同じなのかもしれない。
「父さんはもう二度と、あの景色を見れないんだと思ったら、あいつらを引きずり落としたくなった。それも、無理やりじゃ駄目だ。誰かに羽をむしられる痛みじゃなくて、自分から羽を引き抜く屈辱を、与えたかった」
「きみの動機は、どこまでも育ての親にあるという宣言だね」
私が言うと、ピナレスは眉根を下げて苦笑した。責める口調にはしなかった。実際、父を思う彼は「微笑ましい」という言葉が似合うほど、必死だったからだ。
「そうです。貴方のもとへ来たのも、貴方のそばにいれば世界を変えられると思ったから。翼がないことで後ろ指をさされる世界なんていらない。有翼人が自分から翼を切り落としてしまいたくなる。そんな世界にひっくり返したいんですよ、おれは」
「それはまた、すいぶんと壮大な親孝行だ。でも要は、父親が陽のもとを堂々と歩けるようにしたいってことだろう?」
「おれ、あの人たちみたいに、人間のためを思って参戦したわけじゃない。支えたいと思っている人も、言ってしまえば人間じゃない。それでも……、それでも、おれはここにいていいんでしょうか」
すがりつくような、それでいてまっすぐな瞳が、私を見つめる。ピナレスが体の横で作った拳は、わずかに震えていた。思わず、苦笑いが浮かぶ。
「今も、きみの中では、人間のことは二の次なのか?」
「今は、違います。虐げられた人間を救いたい、彼らのための世を作りたいって、そうはっきり言える。貴方のことも、父さんと同じぐらい大切に思ってる」
吹き出したのは、なにも悪意があったわけじゃない。話が予想外の方向に飛んだからだ。
初め、ピナレスは私の様子にきょとんとしていた。が、自分が口走ったことを、数秒のうちに反芻したらしい。みるみるうちに顔を赤らめて、それからすぐに青ざめて、弁解した。
「そう思ってるのはおれだけじゃないっすよ! ヴァージニアさんだって、ダニエルさんだって、カリム様のことを大切に思ってる。軍の皆だって。あ、でもこれ、抜け駆けじゃないっすから、本当に!」
「分かったから、いいかげん恥ずかしい」
弁解じゃなくて追撃が飛んできた。
ピナレスは一応口をつぐんだが、言い足りなさそうにもごもごしている。
誰かに思われるのは、不快なことじゃない。熱いというよりは温かく、じんわりと顔の温度が上がっていくのが分かった。表情を悟られないよう、手で顔を覆い隠してうつむく。
「つまり、そういうことなんだ。有翼人に“人間になりたい”、“人間として生きたい”って思わせれば勝ちってことだろう? 他の人種に羨まれるほど、人間が幸せに生きられる世にする。それが、きみの最大の意趣返しになる」
上がってしまった温度が、徐々に下がっていくのを感じた。
顔を隠したのは、ふやけた表情を見せたくなかったからじゃない。その逆だ。反動のように強張っていく表情を、見せたくなかった。見せられなかった。
今日遭遇したサキュバスに言われたことが、後を引いていた。
生気が薄い。
ついこぼしてしまったという感じの疑問の答えは、私の口からついて出た。もうすぐ死ぬからだろうな、と。適当に答えたつもりだった、でも言ってしまうと本当な気がした。いや、むしろそれ以外に何があるとすら思う。
やっと、大切な仲間に巡り合えた。それなのに別れは、知らぬ顔で刻一刻と近付いてくる。
今それを、ピナレスに悟られるわけにはいかなかった。知られたら、甘えてしまう。幻滅されるかも、なんて考えもわきにやって、泣き言をもらしてしまいそうだった。そんな暇はない。
ピナレスから淫魔の情報を聞いて、その対処法を考える。人間のためを思うなら、まずはそこからだ。
裏で糸を引き戦乱の動向を操っている、かもしれない相手。自身は決して戦いの場に身をさらさず、人をそそのかすことに徹する、普通なら敵とも認識できない厄介な敵。それが、ピナレスから聞かされた淫魔の正体だった。
有翼人が脈々と、恨みと共に受け継いできた伝え話。そこには、彼らの悪意も多少織り交ぜられているかもしれない。だが、昨日のサキュバスの来襲に、すとんと納得のいく答えを与えられた気がした。
彼女は、英雄のお手付きになりたかったのだろう。私を、ひいては人間を、いいように使うために。
一晩、彼らに対抗する術を考え続けた。魅力的な異性の姿で誘惑してくる淫魔。時には、より具体的な、特定の個人にすら化けて言い寄ってくる悪魔。
幼馴染が甘ったるい声で私の名を呼んだ幻覚を思い出し、身震いする。
あのサキュバスが化けたのは、遠い昔に、私が見捨ててしまった彼女だった。わざわざ幼いままの姿ではなく、私と同い年くらいの姿へと成長させていたけど、間違いなく彼女だった。彼女が生きていられたなら、きっとあんな女性になっていたに違いない。
目の前に現れた彼女は、美しかった。
幼い頃、私が彼女に感じた憧れやまぶしさを、よく再現したものだと思う。だが、それ以上に、私は彼女を畏れていた。自分が抱いていい存在ではなかった。十年以上経って、いまだに忘れられずにいた恋心を、まざまざと見せつけられて、辟易した。
その声で呼びかけられるまで、多少なりとも刺激されていた男の劣情は、自己の嫌悪と共に急激にしおれていった。と同時に、寒々しい現実に引き戻された。
彼女はそんな声で私を呼ばない。呼ぶはずがない。私の前で裸をさらすなんて、もってのほかだ。
私がサキュバスを拒絶できたのは、いわば“彼女の姿をしていた”からだった。
これが意味する答えに、自分なりにたどり着いて、私は呼び出した側近に問いかける。これまで、常に私のそばにい続けた三人。ヴァージニア、ダニエル、ピナレスに。
「きみらは、好きな人がいるか?」
三人は目を瞬かせた。
わざわざ呼び出されて何を聞かれるかと思えば、女子供がきゃっきゃっと噂するような、男が酒を片手にだべるような、そんな類の質問を投げられて戸惑ったようだった。
そこから、対象の名前を聞き出すことに繋がるなら、それこそ晩酌の肴だ。だが、私が続けるのはそんな可愛らしい話題ではなかった。
「これから一生、人を愛してはいけない。そう言われたら、きみらはそれができるか?」
「ええと、それは男女の恋愛的な意味で捉えればよろしいのでしょうか」
「そうだ。対淫魔の戦略に関わることだ。言っておくが、真面目な話だぞ」
ピナレスはぴんときたらしく、小難しい顔をする。あとの二人は変わらず不可解そうにしていたが、こちらが真剣だということは伝わったらしい。小首を傾げながら、しばし考え込んだ。
やがて、緩慢と視線を上げたヴァージニアから、言葉が滑り出す。
「カリム様、好きです、愛しています。——あなたに助けられたばかりの頃の私なら、そう答えたでしょう。自分の想いを告げるチャンスが巡ってきたと思って」
目を合わせたヴァージニアは、穏やかに微笑んでいた。
「でも今は、違います。好きでした、愛していました、あなたのことを」
男をフる口上を述べながら、彼女はそれに似合わない熱のこもった目をしている。
「今はそれ以上に、あなたをお慕いしています。敬仰と申しましょうか。あなたと特別な関係になることすら、おこがましく感じるのです」
好意がなくなったわけじゃない。昇華されたのだ、と彼女は言う。その想いは一生のものだとも。
彼女が私に好意を持っていることは、知っていた。私はそれを、気付かないふりで受け流してきた。そして、彼女は、私が鈍感な男を演じてきたことも分かっている。
これまで素知らぬ顔をしてきて、今になってそれを利用しようとする私に、怒りもしない。尊敬というなら、私こそ彼女に頭を垂れたい気分だ。
ヴァージニアの言い分が終わると、ダニエルがおもむろに口を開いた。
「僕は生涯そういった劣情を抱くことはないでしょう」
それっきり、もう言うことはないとばかりに口を閉ざした。たった一文だが、彼の言葉には重みがあった。
彼が妹のことを引きずっているのは、容易に想像できた。自分が、妹を穢した悪党と同じ、男という性である。それ自体が、彼にとっては許しがたいことなのだ。どうにもできない事実なのに、どうしようもなく許せないのだ。
たとえ、真摯な愛のもとに結ばれようとする女性がいても、ダニエルは思い出してしまう。だから、拒絶する。
こちらも、彼のトラウマを利用するようで心苦しいが、今はほかに適任がいない。
最後の一人、ピナレスはじっくり考え込んだ後、目を閉じて首を横に振った。
「おれは……できそうにありません。お二人と比べたら、おれはどうしようもない俗物です。気になる女の子もいる、愛し合う行為もしたい。いずれは、家庭も持ちたい」
彼が俗物なのではなく、それが普通の感覚に違いない。
ピナレスは見目良く、性格も明るい。端的に言うと、もてる。夜の薄闇の中、女性と寄り添う姿も、何度か見かけた。
私たちのもとに来たばかりの頃は、言い寄られることも多く、調子に乗っていた部分もあったと思う。それが原因でトラブルを起こしたとも聞いた。だがそれも、ある意味で、人付き合いが下手だったからだ。
彼は育った山を飛び出るまで、父親以外とまともな接点がなかった。山を下りた彼にとっては、すべてが新鮮で、人との関わりもまた例外ではなかった。少し、はしゃぎすぎてしまっただけなのだ。
時が経つと、ピナレスも一頃のような遊び人という体ではなくなった。落ち着いたというか、なんというか大人になった。女性とのお付き合いも、まともなものになったようだ。
しかし、足をすくわれる心配がなくなったとしても、付け入られる懸念まではなくなっていない。むしろ、彼の性格からして、想い人に化けられた方が拒絶しにくいだろう。
「おれには、この先の話を聞く資格がありません。——部屋、出ますね」
「ピナレス、すまない」
「なんで、カリム様が謝るんすか。おれはおれのやり方で、淫魔を克服してやりますよ。世の中は、おれみたいな弱いやつの方が多いんですから」
茶目っ気を出して片目をつむると、ピナレスは踵を返して部屋を出て行く。
廊下を歩く彼の足音が遠ざかってから、私は残った二人に向き直った。
三者三様の答えで、ピナレスだけが駄目だった理由から、二人は淫魔対策の方向性を察したらしい。ヴァージニアが不安そうに眉尻を下げた。
「あの、私もふさわしくないのでは……」
「なぜ、そう思う?」
「あ……、私にそれを言わせるのですか? 意地悪ですね、もう」
困ったように彼女は笑い、とつとつと言う。
「もしも、私の前に、淫魔の男——インキュバスが現れたら、その者はカリム様に化けるかもしれない。その可能性がある。それでは、駄目なのではないでしょうか」
「想い人に化ける化けないは大した問題じゃない。想い人の姿をした淫魔を、拒絶できるかどうかが大事なんだ」
「わ、私がカリム様を拒絶できると思うのですか!」
「できるさ。だって、きみに言い寄るような私は、きみが想像する『私』じゃないだろう?」
あり得ない、と否定することさえできればいい。目に映るものを現実だと受け入れなければ、活路を見いだせる。
幼馴染の姿をしたサキュバスと対峙した私は、そう結論を出した。
ヴァージニアは目を見開き、ぽかんと口を開けていたが、少しして悔しそうに視線をそらした。
「その通りですけど……。もしかしなくとも、私、フラれてますよね」
「気を強く持て」
「う、うるさいですね。ダニエルに励まされるほど、私は落ちぶれていません!」
気遣っているのか気遣っていないのか分からない、ぶっきらぼうな声音で言われ、ヴァージニアはむきになった。茶々を入れたわけでもないのに怒られ、ダニエルは肩を落とす。
「というか、そうですよ。見物人がいる空間で、乙女に恥をかかせるなんて、カリム様はひどいです。意地悪なんてものじゃありません」
「……僕の記憶が正しければ、最初にフったのはきみの方だが」
「え、あ、あれは、フったというか、恐れ多いから身を引いたというか……」
「それに未練を感じているようなら、駄目だろ。せっかくのカリム様の期待を無下にすることになる。淫魔を前にしたきみの身も、安全じゃない」
ヴァージニアはうっ、と言葉に詰まる。
ダニエルは厳しいようだが、本当のことを言っていた。結局、彼に言い返そうとしていた彼女も、消沈した様子で頷いた。
「そう、そうですね。私はダニエルのように、性的な行為自体を嫌悪しているわけではない。確信を持てないまま淫魔と対峙するのは、危ない橋を渡ることかもしれません」
自分自身、噛みしめるように彼女は言う。
ヴァージニアも部屋を出て行くのかと思った。しかし、一つ大きく頷くと、彼女はその場に足を踏みしめて、きっぱりと声を出した。
「でも、カリム様が命じるなら、どんな事柄だって遂行してみせます。私はあなたを愛しているわけではない、崇拝しているから」
未練を断ち切った瞳は、曇りのない、強い光を宿していた。
「……それで、僕らは何をしたらいいのですか? 淫魔の術に惑わされず、奴らを叩き切ればよいのですか?」
ダニエルが首を傾げる。
乱暴な言い方だが、突き詰めればそうなるのかもしれない。だが、そこに至るまでの過程は、決して単純ではなかった。
「淫魔を相手取るってのは、そう簡単な話じゃないみたいだ。そもそも、人前に姿を現すことが滅多にない」
「え? でも、カリム様のもとにはサキュバスが来ましたよね?」
「言い方を変えよう。彼らは“淫魔”だって分かるように、人前に来るわけじゃない。目の前にいても、見抜けなかったらそれで終わりだ」
もしかしたら、人間に化けた淫魔がすでに軍内にいるかも、なんて嫌な想像をして、すぐにそれを振り払う。戦闘の真っ只中にいる軍に入り込むメリットはないはずだ。彼らの狙いはあくまで、首脳部。
時の権力者の権威を、笠に着ることが目的なのだから。
「向こうから接触してこない限り、こちらは会うことすらできないと考えたほうがいい」
ダニエルはすっと目を細めた。
「罠を仕掛けるということですね。油断をさせて、こちらのテリトリーに引きずり込む」
彼はすでに、獲物を仕留める狩人の目でいる。かつて獣に向けていた洞察力は、敵に対してであっても鋭かった。
「こちらが取れる手段としては、それしかない。だが、それだって対症療法にすぎない。しかも、きみたちだけが唯一の切り札の」
自ら飛び込んでくる淫魔は、それで対処できる。しかし、それは二人が生きている間しか効果がないものだ。術が効かない人間がいると知ったら、淫魔も一時はなりを潜めるかもしれない。
だが、時が過ぎ、二人が死んで次の世代へと移り変わったら?
淫魔に対抗できる人間がいなくなってしまう。その時、淫魔が盛り返したら意味がない。
「もっと根本的なところから、解決しなきゃならない。それこそ、人間全体の意識を変えるぐらいの……。結局、淫魔を退けるのは『強い心』しかあり得ないんだ。どんな形であれ」
気の遠くなるような時間がかかっても、やらなきゃならない。じゃないと、人間が滅ぶ。淫魔の人形になって、形骸的に生きているようじゃ、死んだも同然だ。
そういう意味での最悪の手本は、ベスティニア皇国に違いなかった。離宮で見つかった『大王』の死体、あれは淫魔が喰らい尽くした後の“絞りカス”だったのだ。ピナレスから話を聞いて、ようやく答えを得ることができた。
「きみたちには、仕組みを作ってほしい。淫魔を退けられるぐらい『強い心』を育める土壌と、淫魔の対抗策を受け継いでいく系譜。二代、三代、と人間の真の繁栄を願うなら、それらが必要不可欠だ」
「淫魔の術に耐性を持つ人間を増やすことが、結果的に淫魔の弱体化に繋がる、というわけですね」
「真正面からぶつかることはできない。だから、じわじわ飢え死にさせていく方式、というわけか。なるほど」
二人はしきりに頷く。
ダニエルは飢え死にと言ったが、実際には餌を人間に限る必要がないから、それで殲滅を目指すのは無理だろう。追い詰められれば、淫魔だって獣の生気を掠め取りながら、細々と生きるかもしれない。
それならそれで構わなかった。なにもこちらは、彼らの存在自体を否定したいわけじゃない。
「もちろん、一朝一夕で作り上げろ、なんて無茶ぶりはしない。むしろ、じっくりと練り上げるべきだ。淫魔が本格的に仕掛けてくるまでは、まだ時間があると思うから」
幸いにも、先鋒を切ってきたサキュバスは撃退した。それどころか、その襲撃はこちらにヒントを与える結果にもなった。考えなしに再来して同じ失敗をするとは思えないし、しばらくは猶予があると見ていい。
「誠心誠意、務めさせていただきます」
「必ずや、ご期待に応えてみせます」
ヴァージニアは柔らかに頭を下げ、ダニエルは胸に拳をあてる。
「ああ、頼むよ」
二人の誓いに、心の底から、そう言う。
二人は気付いただろうか。私が、今後のことを彼らに丸投げしたことを。正確には、戦乱が終わった後の、統治のことか。
私は一度たりとも、共に対抗しようとは言わなかった。できないことを、口約束することはできない。それを言ってしまえば嘘になる確信があった。
私の役目は戦乱と共に終わる、そんな予感がする。
その時、指導者をなくして迷子になってしまわないよう、二人には人々を導いてほしかった。もちろん、今はここにいないピナレスにも。
畳み方をそろそろ考えないと。そんな思いが、胸の内に浮かんだ。
*****
信頼する仲間たちに、私が死んだ後のことをこっそり託した数日後。
ダニエルと、兵士たちが鍛錬にいそしむ中庭を歩いていると、どこからか、苦しげなうめき声が聞こえてきた。もれ出たようにかすかなものだったが、足を止めるには十分だった。
ダニエルも同じく足を止め、声が聞こえた方へ目を向けている。するとその顔が、みるみるうちに強張っていった。
「カリム様、少し失礼します」
短く断ってから、ダニエルは一本の樹のもとへ向かっていく。言外には、ついてくるな、という意味も含まれていそうな声音だった。
私はそれに気付かなかったふりをして、彼の背を追う。
カーチェフ城の中庭には、大きな樹が一本だけ、そびえるように立っている。陽の射す昼日中なら、広く枝葉を伸ばして作った木陰に、休憩する兵士たちを多く抱え込んでいた。だがあいにくと今日は、朝から分厚い雲が空を覆っていて、兵士たちは思い思いの場所で身を休めている。
それなのに、ちらちらと時折、樹の方へ目を向けるのは、なにか気になることがあるからだ。
曇天で憩いの影も溶け込んでしまい、どこからがその樹の膝元なのか分からない。
とにかく、大木の真下に隠れて、なにかやっている輩がいるのは確からしい。一足早く、太い幹の裏側に回り込んだダニエルは、燃えたぎるような怒りを、一瞬だけ瞳に宿した。
立ち尽くす彼の隣に、一歩遅れて並び、見た光景に強烈なめまいを覚える。
——縛り上げた獣人を囲んで、数人の兵士が、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべていた。
「何をしている」
ダニエルが低い声を出すと、彼らはようやくこちらに気付いた。それまで浮かべていた笑みを、嘘のように引っ込めて、青ざめ、あたふたする。
もちろんそれは、自分たちが咎められるような行動をしていたと、自覚しているがゆえの反応だ。
「あ、えぇ、えっと……。た、試し斬り?」
中の一人が、引きつった口元で答える。
すると、他の者もそれに追随した。
「この間支給された剣、まだ一度も使ったことなくて。だから、実戦の前にちょーっとだけ慣らしておこうかなあ、なんて」
「これ、もともと獣人が使ってたものですよね? なら、こいつらが使われる側にまわってみるのも、いい経験なんじゃないですかねぇ。その方が、身に染みるっしょ」
これみよがしに、剣の先で、転がされたままの獣人をつつく。
猿ぐつわを噛まされた獣人は、唸ることすらせず、怯えた目で兵士たちを見上げている。体は切り傷だらけで、片方の耳は千切れかかっていた。荒い息で上下する胸板は、軍人階級とは思えないほど薄い。
荒れた毛並みも、この私刑染みた行為のせいというよりは、日々の暮らしの貧しさからくるものに思えた。くわを持ったことはあっても、剣を持ったことはない。そんな、どこにでもいる獣人の平民としか映らなかった。
ダニエルもそう判断したらしく、眉をひそめ、兵士たちを睨みつけた。
「この獣人が剣を使っていたとは思えない。その主張はお門違いだ」
「獣人は獣人ですよ。こいつが使ってなくても、お仲間は使っていたんだ。一緒じゃないですか」
「どこで区別をつけるかはどうでもいい。問題は、おまえたちが規律を犯していることだ」
鋭い眼光ですごまれて、一人を除いた兵士たちが目を伏せた。ただ一人、ダニエルと真正面から向き合った兵士は、怒りでまぶたが痙攣している。
「はあ? なんだよ、あんたら、獣人の味方しようっての?」
「獣人を殺すな、とは言っていない。敵を嬲るような、無意味な行為はやめろと言っているだけだ」
「はっ、はは……お優しいこった。俺達は散々、嬲られてきたってのによお。いざやり返せる、って時に我慢しろっていうのかよ!? 納得できねえ!」
「やられたからやり返すのか? 自分が蔑んでいる獣人と同程度に堕ちてまで?」
「なんだよ、説教かよ。もしかして、あんた、敵だろうと味方だろうと、傷付いてる方を庇っちゃうタイプ? 残念だけど、あんたみたいな聖人じゃねえんだよ、こっちは!」
激昂する兵士の怒声は、ごぽり、という不穏な音により不自然に途切れた。
ダニエルが剣を抜いていた。剣筋は、食ってかかる兵士の喉元に向かって迷いなく振るわれ、返す刀で獣人の喉を引き裂く。
何をされたのか、兵士は死に際で理解する。責めるように目を剥いて、掴みかかろうと伸ばした手は宙をかき、そのまま前のめりに地面に倒れ伏した。
獣人の方は、首付近に血だまりが広がりつつあるのと、呼吸音が聞こえなくなったほかは、最初見た姿勢と変わらなかった。
中庭が、しんとした静けさに包まれる。
彼と一緒に獣人を嬲っていた兵士たちは、青い顔で目を見開き、腰が引けている。中には、完全に腰を抜かしてしまった者もいた。遠巻きに、大木の下で行われることを見物していた連中も、固まったように動かない。
恐れのこもった視線を一身に受け、ダニエルは動じない。あくまで冷静に、血のついた剣を払って、鞘に収めていた。
「聖人? 馬鹿言え」
ぼそりと、聞き取りにくい低音でダニエルがつぶやく。彼のすぐ後ろにいた私にしか、聞き取れないぐらいの小さな声だった。
それから、ダニエルは息を吸い込んで、中庭全体に聞こえるほどの声量を出す。
「我々は現在、『魔族』と敵対している! 悪いものにそそのかされ、人道に反した行いをする者と、我々は今日まで戦ってきた。抵抗できない者を無意味に痛めつけるような行為は、魔族がするものだ。我らがもっとも憎悪すべき所業だ。たとえ人間であろうと、魔族に身を堕とした者は、我々の仲間とは認めない。それは、同じ姿をしていようと、我らの敵だ」
ダニエルは早々と、対淫魔を見据えていた。
そして、気付く。もし、人間の中に淫魔と交わった者が現れてしまったら、彼は躊躇なく、その者を斬り捨てる。流行り病と同じだ。初期の段階で手を打たないと、またたく間に、その悪性は蔓延する。
だから、迷ってなどいられない。ダニエルは己が血を吐いても、すべきことをする男だ。
神妙な顔つきで、兵士たちはうつむいた。
死んだ兵士とつるんでいた男たちは、どんな処罰が下されるのかと、戦々恐々としていた。ダニエルは目の前の彼らに、感情を感じさせない声で言い捨てる。
「規律を守れない者は去れ」
自分たちの目の届かないところで、好きなだけ鬱憤を晴らせばいい。ただし、その場面に遭遇した時、味方面でいられると思うな。
規律破りの兵士たちだけでなく、聞いている者全員に、そう告げる。
方針が気に入らないのならば、ここから出て行け、と。
私たちはもう、最初の頃のような“人間の寄せ集め”ではなくなっていた。そして、人間も、英雄という存在にすがるばかりではなくなった。人間の代表、という顔をしてきたつもりはないが、それが気にくわないと反発する者が、よそからも、内からも、出始めている。
結束が崩れてしまわないよう、より強固な集団となるよう、ふるい落としの時期が来たのかも、しれなかった。
*****
曇り空は、夜になっても晴れなかった。一日中、雨が降りそうで降らない、重苦しく中途半端な天気のまま過ぎていった。
少しは気分転換になるかと思って、外の空気を吸いに来たが、これでは余計に気が滅入る。一人で城を抜け出る途中、ダニエルに見つかったのは幸いだったかもしれない。隣に彼がいてくれるだけで、心が休まる思いがした。
廊下で鉢合わせした彼が、またピナレスを泣かせる気ですか、と呆れた顔をしたのは面白かった。思い出したことで口元が緩んだらしく、暗がりでも分かるほど、ダニエルが怪訝な顔をした。
「いや、ダニエルは意外と人のことを見ているな、って思ったんだ」
「なんですか、突然」
ますますダニエルは顔をしかめる。
「一人で物思いにふけりたかったという苦情は、受け付けませんよ。昔とは違うんです。ご自分の立場をわきまえてくださらないと」
「そうか、そうだな」
昔とは違う。彼が口にしたその言葉に、苦笑した。
ダニエルと出会って、もうすぐ五年になる。ヴァージニアとは、もうすぐ六年だ。決して、彼らとの付き合いが短いとは思わないが、昔というほど昔でもない。たったこれだけの期間で、私は人間をここまで連れてきてしまった。
自分の中身は何一つ変わっていないのに、いつの間にやら、大層な称号がついて回るようになった。
自分から『英雄』として振る舞おうとした時期もあったが、今はそれができない。『英雄』が何を指しているのか、よく分からなくなってしまった。
きっと、それらしく振る舞う必要も、もうないのだろう。
何もしなくても、人々が——敵さえも、私を『英雄』と呼び、祭り上げる。
一晩中、見張りを続ける兵士に、門扉の開け閉めをさせなかったのは、彼らの仕事を増やさないためじゃない。見つかったら、一人でいられなくなることを、嫌というほど分かっていたから、こっそりと、使用人が出入りする裏口を使おうとした。
結局、裏口はダニエルとくぐることになったが。
「人間も、昔とは違うのか? あんなふうに、笑いながら人を傷付ける姿を見るようになるなんて、思いもしなかった」
「…………」
肌寒い季節の夜気が、私たちを包んでいた。
丘に立つと、どこにでもある田園風景を見渡せる。暗闇に沈む家々は、主人をなくして灯りをともさない。もしかしたら、隠れ潜む獣人はまだ何人かいるかもしれないが、それもいずれ、昼間見た悪意の餌食になるだろう。
ダニエルの宣告を聞いて、ある者は去り、ある者は二度とこのようなことはしないと誓い、残った。
去った者たちがどうなっていくかは、想像しても仕方のないことだった。
「またきみに、嫌な役割を押し付けてしまった」
「またもなにも、それが僕の存在価値だと思っていました。憎まれるのも、恐れられるのも、カリム様であってはいけません」
「損な役回りだな。『英雄』は常に光の中にいて、暗部は部下に押し付けろって?」
「どちらであっても、損な役回りです」
まるで、心を見透かされているかのようだ。
ダニエルはそれ以上何も言わず、隣に寄り添い続ける。一人になりたいと思ったのは、私が人に甘えてしまうからだ。誰かが傍らにいたら、胸の内を吐き出してしまいそうだった。
そして、彼は分かっていて、私についてきた。
もう、どうでもいいか。そんな捨て鉢な気持ちがわいて、自分の感情を、好きにさせる。
「昼間、あの光景を見た時、彼らに今まで戦ってきた者たちの姿が重なった。結局、姿がどんなに違っても、人は同類なんだって思わされた。強くなれば気持ちも大きくなって、他者を平気で見下すようになる。人間だって、今までの奴らのようになる可能性があるんだ、って見せつけられた」
「そうですね。だから、けじめをつけた」
「でも、それだって本当は嫌に決まっている! 彼らをここまで連れてきたのは、俺だ。言ってしまえば、彼らが変貌したのだって、俺のせいだ。人間同士が対立するのも……! ……淫魔のせいじゃない。悪意も火種も、彼らが植え付けていくわけじゃなくて、人がもとから持っているものなんだ。でも、俺たちはこれから、都合の悪いものを淫魔の仕業ということにして、切り捨てていくんだ。本当は、違うのに」
「すべて、ご自分のせいだと思っているのですか?」
「そうだよ。俺があの時、妙に張り切ったから、こんなことになってんだよ。これから先、人間に刃を向けることも増えるかもしれないって、想像するだけで胸が潰れそうだ」
俺は、ダニエルのようには割り切れなかった。
決まりを破ったから、はい、明日からきみは敵です、なんてできなかった。道を踏み外した者が、相手だと分かっていても。
だって、彼らがその間違いに至るまでの、過程があるはずだ。それを無視して、結果だけで判断してしまっては、解決にならない。でも、それを言ったら、今まで戦ってきた相手だってそうなる。
どうあがいても、時間が足りないのだった。
理解しようにも、諭そうにも、激動の波に呑まれて流されてしまう。だからこれは、自分の心持ちの問題なのだ。己を納得させてしまうのが、何よりの近道だから。
それをダニエルに頼る自分は、ひどく他力本願で、情けなかった。
「ラヌート里からついてきた人間も、今や片手で数えられるほどしか残っていない。俺は、彼らを助けたかったんだ! なのになんで、死なせてるんだ! わざわざ死なせるためじゃない……、なんのために、俺は……彼らを救ったんだ。こんなこと、させるためじゃない……」
「カリム様——」
「頼むから! 今だけでもいい、その呼び方をやめてくれ。英雄として、扱わないで……。まるで、自分じゃない、別人を呼ばれているような感覚になるんだ。頼むよ……」
ダニエルの顔をまともに見れなかった。
失望されても仕方のない言動をしている。分かっていても、いざ本気で軽蔑されたら、立ち直れない気がした。
「……そういえば言っていましたね、初対面の時も」
一瞬、何のことを言われたか分からなかった。
思わず顔を上げれば、ダニエルは戸惑ったように視線を泳がせている。その眉のひそめ方に、覚えがあった。
初めて会った時、同じようなことを言って、彼を困惑させた。今ほど、切羽詰まった言い方ではなかったはずだけど。
逡巡の後、ダニエルはこちらに視線を定めた。
「なら、二人きりの時だけ。敬語をやめて、カリムと呼ぶことにする」
彼の精一杯の答えに、やっとのことで頷きを返した。
ダニエルはあきらかに、ほっとした様子を見せる。それから彼は、不器用な優しさを感じさせる声で、厳しく言った。
「なんでもかんでも、自分一人で背負い込むな。彼らは命令されてついてきたわけではない。己の意志で、ここまで来た。あなたがそれを否定してはいけない。……そもそも、戦いたくない人はとっくに、それぞれの場所で暮らしている」
獣人から奪い取った領地は、その周辺で暮らす人間たちに分け与えた。常に移動し続ける私たちには、手に入れた領地を統治する余力まではない。要所要所には守備隊を配置しているものの、それがその地の統治に口出しすることはなかった。
ダニエルが言ったのは、そういった村や街に身を置いた者のことだった。
「救われた人だっている。今はまだ、救いを待っている人も。その人たちのことを、見えないふりはするな。ヴァージニアも、ピナレスも、あなたに救われた。僕だって、そうだ。それだけは、変えようのない事実だ」
「嬉しいこと言ってくれるけど……、きみを救った覚えが……ないな」
自分が出した声は、驚くほど細く、震えていた。こみ上げてくる想いを、我慢できそうにない。あと一押しあれば、年甲斐もなく彼にすがってしまいそうだった。
ダニエルは少し不機嫌そうになった。
「そうやってとぼけるのは、あなたの悪い癖だ」
「何のことか、本当に分からない」
真意を確かめるように俺を見た後、ダニエルはため息をついた。
「死にに行く僕を止めたのは、カリムだ。僕に、生きる意味を与えてくれた。仇を討って、何もかもどうでもよくなっていた僕を、必要だと言ってくれた」
ちょうど、今日みたいな夜だった。
そう言われて、そんなこともあったな、と思い出す。『バフォメット』を討伐した日のことだ。ふらっといなくなろうとした彼を、引き止めた。
「あんなことで……」
「まるで、僕がちょろいみたいな言い方だ」
「ごめん」
「でも、カリムの言う“あんなこと”で救われた人間は、案外いると思う」
ダニエルは怒っていなかった。ただ、呆れられた気はする。
「過去の自分に感謝しないと。ダニエルを引き止めてくれたおかげで、今の自分が救われてる」
「……あの時の恩を、やっと返せた」
「きみの方が自覚なしだよ。むしろ、こっちが貰いすぎてるんだ。おつりが出るくらいだ」
一人で背負い込むなと言われた。でも、一人で背負わなくてはならない運命もある。
デュラハンに血を浴びせられる未来のことを、彼らに教えるつもりはなかった。反応は予想できたし、どうにもならないことに時間を割く気にはなれない。
そんなことよりも、今動くことでどうにかなる先を、見たかった。
何もかもを放り出すのは、それこそ死んだ後にでもやればいいのだ。人生を反省するのも、後悔するのも、今じゃない。私はまだ生きている。
生気が薄かろうと、今はまだ。




