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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【終章 我こそが正義】
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5.人の道を外れてはいけない

 ふた月ほど、足繁く図書館に通った。

 そうして得た収穫は、予知魔法は希少なんて言葉では言い表せないほど珍しい、という事実だった。もしかしたら、唯一無二の属性かもしれない。

 自分が特別な存在なのだと、舞い上がることはできなかった。それは、先駆者がいないことを意味するからだ。

 目を通せた範囲には一つも、私が得たい情報は載っていなかった。ただ、希少な属性を生まれ持って使える人はいるもので、そういう人は己の力で魔法を“発見”しなければならない、とあった。

 つまり、自力で呪文を探れというのだ。振り出しに戻ったも同然だ。

 そもそも、魔法は不明瞭な部分が多い分野で、今明かされているのはほんの表面だけ、なんていう気の遠くなる文章も見つけた。

 呪文には一応の法則性があるようだが、それだって普遍ではない。そして、それを学ぶにも、私の残り時間は少なすぎる。

 魔術書と格闘するのは徒労だと悟ったあたりから、私は大人しく、手記を書き始めた。たまに、修辞の本にも手を出した。結果的に、ヴァージニアには嘘を吐かなかったことになる。

 まだ、人に読ませる気には至っていないが。たぶん、死ぬまでその気は起こらない。

 ヴァージニアの方は、ちゃんとした収穫があったようで、始終ほくほく顔だった。



 *****



 前線にほど近い幕舎で、久しぶりに顔を合わせたピナレスは、再会の喜びもなく、蒼白な顔で膝をついた。


「申し訳ありません! カリム様の身を守れなかったばかりか、預かった兵の大半を失う失態。申し開きのしようがありません。お、おれの命で償えるものなら、今ここで自害を——」

「そういう責任の取り方は嫌いだ」


 短剣を取り出そうとしていた彼は、はたと動きを止める。私の言い方を、見捨てられたように感じたのか、眉根をぎゅっと寄せて泣きそうな顔になった。彼の背後で、同じく血の気の失せた顔をしているダニエルに目で合図し、ピナレスを立ち上がらせる。

 聞きたいのは謝罪の言葉じゃない。彼らを責める口も持ち合わせていない。こちらは事態の把握をしたいだけだ。

 ピナレスの様子が、さすがにいたたまれなかったのか、ヴァージニアがなだめるように言った。


「誰も、未来を予測することなんてできません。予想外の方向から殴られ、うろたえるのは、当然の反応です。……むしろ二人とも、生き残りの兵を連れて、よくここまで立て直せたものだと思いますよ」


 彼女の態度に、ピナレスは落ち着きを取り戻し始めた。

 反対に、私は彼女の物言いにどきりとする。もしかしたら、自分が未来予知すれば、今回の事態は防げたかもしれない。大勢の兵士が死ぬことも、なかったかもしれない。そんな思いが一瞬よぎるが、すぐにそれをかき消す。

 知ったところで、どうにもできなかったに決まっている。これまでそうだったのだから。

 ヴァージニアの言う予想外の方向というのは、ただの奇襲を指しているわけではなかった。地方で獣人の残党と戦っていた彼らを襲ったのは、同族である人間だった。背後から不意をつかれた、なんてものではない。頭上から攻撃が降ってきた、ぐらいの衝撃だ。

 私とヴァージニアは知らせを受けてすぐ、皇都からここまで飛んできた。


「獣人を庇っている、という感じでもなかった。獣人の残党とは、また別の勢力だろう」

「ただの地元の農民、ってこともあり得ない。やつら、兵法をかじった動きをしていたから」

「カリム様のほかにも、人間の指導者がいるのでしょうか……」


 二人の証言に、ヴァージニアは唇に指を沿わせ考え込む。

 その時、見計らったように、幕舎の外から声がかかった。

 入室の許可を求める兵士に、ダニエルがいち早く反応する。返事を口の先まで出しかけて、彼は思い出したようにこちらを向いた。


「僕の部下です」

「急ぎの用なのだろう? 私にいちいち、おうかがいを立てなくてもいい」

「ありがとうございます」


 律儀に頭を下げてから、ダニエルは兵士を呼び入れる。

 幹部がそろい踏みであることを心得ていたのだろう。部下であるという兵士も、中に入るとまず、私たちに向かってパキッとしたお辞儀をした。

 それから、兵士はダニエルに耳打ちする。何事かの報告を受け、彼は目を細めた。悪い知らせではなかったらしい。心なしか、柔らかい声音で兵士をねぎらってから、ダニエルは私たちにも朗報を伝えた。


「敵方の人間を捕らえました」


 最初に、ピナレスが驚いた顔をした。


「え、いつの間に……?」

「ここに陣を構えてすぐ、僕が部下に命じた。元狩人の鼻をなめないでほしい」

「転んでもただでは起きないその心意気、素敵です」


 ヴァージニアが感心してつぶやく。

 狩人の仕事は人間を追い詰めることではなかった気がするが、この際細かいことは置いておこう。


「なら、そいつに直接話を聞けばいいのか」


 そう言うと、兵士は微妙そうな顔つきになった。


「なんだ。なにか問題があるのか?」

「その……まともな話を聞けるかどうか、怪しくて。妙なことばかり、口走るのです」

「妙なこと?」

「ええ、天使がどうとか」


 できる先輩の仕事ぶりに落ち込んでいたピナレスが、兵士の言葉に顔を上げた。


「天使……?」


 確かめる響きには、嫌悪とも敬慕ともとれる、複雑な感情が渦巻いている。

 ヴァージニアとダニエルが、不審そうに彼を見る。それに気付くと、彼はばつが悪そうに目をそらした。


「狂人の戯れ言だろうと、今は話を聞いておくべきですよ。判断材料がなにもないよりはマシです」


 ただ、私への進言はしっかりとした口調で行った。




 陣営の端、布一枚で外界と遮断された幕舎が、簡易な捕虜の収容所となっていた。

 一目で、相手が平和的な対話など望んでいないことは、見て取れた。ダニエルの口ぶりからして、力尽くで捕らえたのだろうから、敵意は仕方ないにしても。必要以上の拒絶を感じた。

 縛り上げられた人間の男は、怯えることなく、私たちを睨む。その鋭い目つきは、これまで敵対してきたサテュロスや獣人と、なんら変わりない。


「はは、わざわざ大将がお出ましとは。なんだ? 俺を懐柔しようってのか?」

「あなたにその価値があるとでも?」


 こちらが名乗った途端に、男は小馬鹿にした調子で挑発してくる。たやすく機嫌を損ねたヴァージニアの嫌味にも、肩をすくめるだけだ。

 これまで私たちが助けてきた、ただ怯えるだけの人間とは違う。


「きみには話を聞きたいだけだ」

「へえ。それで、話をした後は解放してくれるっての?」

「それは、きみの交渉次第じゃないか」

「カリム様、甘いですよ。こいつは、こっちの陣地の場所を知ったんですから、簡単に釈放するわけにはいきません」

「ああ、そうか。悪い、さっきのはなかったことにしてくれ」


 やり取りに、男は目を細める。


「馬鹿にしてんのか」


 もともと悪かった印象が、さらに悪く上書きされてしまったようだ。馬鹿にする意図はなかったのだが。私に、そんな器用な真似はできない。

 導入にも失敗してしまったし、さっそく本題に入ることにする。これ以上余計なことを喋っても、空気が悪くなるだけな気がした。


「きみたちの指導者を教えてほしいんだ。人間同士、争う必要もないだろう。こちらは、対話で和平を結ぶのが最善だと考えている」

「損害被ってるくせに、ずいぶんと下手に出るんだな」


 相手は四人分の威圧を受けているはずなのに、ちっとも怯まない。それどころか、せせら笑いで応じる。

 ダニエルが剣の柄をぐっと握りしめた。


「吐かせますか」

「だ、ダニエルさん、落ち着いて。暴力は嫌いだって、言ってたじゃないっすか」

「必要のない暴力は嫌いだ。だけど、必要のある暴力なら嫌でもやる」


 実際に兵士を失っている二人からしたら、男の態度は許せるものではない。

 ダニエルの気迫に、一度は制止を口にしたピナレスも、流されるように同意しかけた。ひとまず私は、ダニエルの拳に手を重ね、思いとどまらせる。

 男はなにがおかしいのか、ニヤニヤしたままだ。


「負けるはずがねぇんだ。俺達には天使様がついてるんだからよお」

「天使?」

「こんな頼りなさそうな奴が『英雄』様だぁ? 笑わせるぜ。お前に従う人間は、よっぽど見る目がないんだろうな」

「こ、の——っ!」


 いきり立ったヴァージニアが、手を振り上げる。


「ヴァージニア、ダニエル、我慢ができないなら外で待っていろ」

「…………!」


 ヴァージニアの平手は空中で制止した。今まさに、剣を引き抜こうとしていたダニエルの動きも、同時に止まる。

 ピナレスだけが、腕を組んで耐えていた。唇を噛みしめる彼は、私に対する侮辱よりも、男が口にした天使という単語の方が、ずっと気にかかるようだ。

 納得のいかない顔で腕を下ろしたヴァージニアは、少し躊躇した後、足早に幕舎を出て行く。ダニエルも男を一睨みしてから、彼女のあとを追った。

 男は心底不思議そうに、首を傾げている。


「私をそんなにボロクソに言うとは、きみたちの指導者は、さぞかし立派な方なのだろうな。ぜひとも、会ってみたいものだ」

「なんだ、自分では否定しねぇのか」

「私自身、今の立場には戸惑っているからね」

「カリム様……」


 横に控えるピナレスが、非難がましく私の名を呼ぶ。

 私にはプライドがない。己がどんな言葉で罵倒されようが、反論はわいてこない。相手にはそのように見えているのか、と納得するだけだった。

 だが、反論しないのと、傷付かないのは別問題だ。仮にその通りだと受け入れても、もろい精神は傷付いている。だから、あまり本当のことばかり言うのも、やめてほしい。


「もしかして、きみたちの指導者は人間ではないのか? 天使、と言ったね」

「……指導者じゃねえ。俺達の支援者で、同志だ。俺達で、世の中を平和にしてやんだよぉ。そうすれば、この世界の王様にしてやるって、あいつら、約束してくれたんだ」


 ピナレスが胡散臭そうに、鼻にしわを寄せた。


「だってのによぉ、面倒なことにしやがって。目障りなんだよ、お前ら。世界の王になるのは俺達だ。お前らじゃねえ。天使様に選ばれたのは俺達なんだ!」

「天使に選ばれた? きみたちを王にするため、天使が手助けしている? 意味がよく分からないな……」


 兵士が、まともな話を聞けそうにない、と言った意味が分かった気がした。恍惚の表情を浮かべる男は、自分の妄想の話をしているように見えた。

 どうしたものか戸惑っていると、ピナレスが思案顔で言う。


「こいつが言ってる『天使』って、たぶん有翼人のことっすよ」

「有翼人? 有翼人がなんで、人間の支援なんかを……」

「有翼人は数が少ないですからね。この戦乱で一旗上げようってんなら、使える手駒がいる。こいつら、体良く言いくるめられてんすよ、きっと」


 ピナレスの考察に、男が吠えた。


「違う! 天使様が約束を違えるはずねぇだろうが! 天使様は俺達に世界をくれるんだ。そんで、俺達が天使様に平和をやるんだ。そういう約束なんだ」

「あーあ、詳しく聞こうとすればするほど、意味分かんないすよ。これ以上、こいつから聞き出せることは、ないんじゃないですか」


 狂人の戯れ言に付き合うのが面倒になったのか、ピナレスは投げ出してしまった。


「一つ分かったことは、話し合い、なんてとんでもないってことですよ。話にならない。しかも、こいつの口ぶりからして、話をするとしたら有翼人とだ。あり得ないでしょ」

「ずいぶんと有翼人を嫌うんだな」

「ヴァージニアさんで言うアラクネ、ダニエルさんで言うサテュロス、みたいなもんですかね。あ、いや、あそこまで酷くはないんですけど……。要は個人的な恨み。でも、大丈夫ですよ。おれは、カリム様の方針に従いますから」


 話し合いで折り合いをつけるというなら、それでも構わない。彼はそう言いたいようだ。

 各地を流浪し、特定の地に居着くことはない浮遊の民。私が知識として持っている有翼人の情報はこの程度のもので、到底判断の手助けになりそうにない。

 街や人里で見かけることすらまれだ。有翼人は有翼人同士で団結し、他者に対する警戒心も強い。そんな彼らと知り合い、ましてや交流を深めるというのは、なかなか困難に思える。

 それこそ、向こうから接触をはかってこない限り。

 有翼人が、なにかしらの意図を持って、人間に接近した。そう考えると、ピナレスの予想は、あながち間違っているとも言えない。


「人間をそそのかして、同士討ちでも狙ったのか……?」

「あり得ますよ。自分とこの兵を失わずして、敵を減らす良い策だ。有翼人の再興は、奴らの悲願。この戦乱は、有翼人にとっても絶好の機会でしょう」


 ピナレスの口調は、確信に満ちていた。

 恨んでいる相手だと言っていたし、いくらか色眼鏡で見ているかもしれない。それでも、彼の考察には説得力があった。

 今回、こちらを攻撃してきた人間が、有翼人に使われているだけだとしたら。どうにかして、背後の有翼人だけを叩きたいものだ。『天使』の思い通りに、同族で潰し合う必要はない。

 そんなふうに思考を始めた私を阻害したのは、外の騒ぎだった。

 それだけで胸はざわつき、甘い思考がぼろぼろ崩れていく。予感が警笛を鳴らす。

 外で待機していたダニエルが、強張った顔持ちで幕舎に飛び込んでくる。彼が口にした内容は、すでにしてぼろぼろだった思考を、完全に吹き飛ばした。


「偵察に向かわせていた小隊が、例の人間たちに襲撃されました。襲撃してきた人間は、そのままこちらに向かっているようです。……どうしますか」

「ゆっくり考える時間も与えられない、か」


 ダニエルとピナレスが、じっとこちらの判断を待っている。私が抗戦せずに逃げると言ったら、不本意でも彼らは従う。

 鈍痛さえ感じる沈黙の中、捕虜の男がけたけたと笑い始める。その笑い声で、私の決意は固まった。相手方の人間がこの男と同じように話が通じない、聞く耳を持たない、というのならすることは一つ。

 甘さを捨てることだ。


「同族である人間との衝突は不本意だ。不本意、だが避けられないのなら仕方ない」


 私の決断に、ダニエルとピナレスは顔を引き締めた。

 とっくの昔に、二人は覚悟を決めていた。私は、彼らの後を追うばかりだ。


「一切の容赦をせず、返り討ちにする。背後にいる有翼人もろとも、一掃する!」


 胸を締め付けた痛みには、気付かないふりをした。



 *****



 所詮は、片田舎で虚勢を張っていた勢力ということか。

 自信だけは満ちあふれていて、積極的に攻勢を仕掛けていた人間勢力は、こちらが反撃に転じた途端、またたく間に総崩れとなった。敗走する獣人を横から狩るのとは、わけが違う。不意打ちすら投げ捨て、まともにぶつかり合うのは、初めてだったのかもしれない。

 そう、拍子抜けするほどだ。筋違いだと分かっていても、罪悪感を抱くほどだった。

 彼らは弱かった。私たちは、あっさり彼らを打ち負かしてしまった。

 敵陣の幕舎を引き倒して、踏み荒らして、死体を転がして。そうして、見るからに敗戦したと分かる地で、私たちは死体にまぎれて地面に転がった。

 戦っている間、狙いの敵は現れなかった。だから、お粗末な待ち伏せをほどこした。天高くから、私たちを見下ろすであろう『天使』は、敵と味方の区別もつかないに違いない。そして、倒れた人間が生きているか死んでいるかも。

 命からがら逃げ延びた人間は、有翼人に泣きつく。それが、わざと見逃された命だとも、気付かずに。いや、気付いていたとしても、彼らは同志だという有翼人に助けを求めるほかなかった。彼らが向かう先に、有翼人の拠点があるはずだった。

 思いのほか早く、舞い降りてきた有翼人はごく少数で、おそらくは様子見の先鋒だった。罠が張られた地で呆然としていた彼らと、少し言葉を交わした後、私たちは奇襲を仕掛けた。死体だと思っていた人間たちが起き上がり、弓を構えるのだから、さぞ驚いただろう。

 しかし、彼らの反応は早く、大半は空へと逃げてしまった。一人の有翼人が体を張って、仲間を庇ったからだ。

 ピナレスはその一人残った手負いの有翼人と、決闘まがいのことをして、見事に打ち勝った。勝利の余韻に浸る間もなく、私は彼と、逃げた有翼人を追跡する仲間のあとを追った。

 とはいえ、空を飛ぶ相手を地上から追いかけるのには、無理があった。一夜明けて、ようやく突き止めた有翼人の拠点は、すでにもぬけの殻となっていた。

 足跡が残るわけでもなく、どこへ隠れたかも分からない敵を見つけ出すのは、それこそ雲をつかむような話だ。ひとまず、目下の敵を追い払えたことをよしとし、私たちは早々に、有翼人勢力の行方を捜すのを諦めた。

 命を投げ打って仲間を逃がした有翼人は、それが狙いだったのかもしれない。私たちを食い止めるというよりは、自らの命をもって味方に危機を知らせたように思えた。




 私たちは、有翼人と入れ替わるようにして、片田舎の城を一時的な拠点とした。もとは獣人領主の居城だったようで、名をカーチェフ城という。廊下の壁を飾る獣のレリーフが、残り香となって視線を寄越していた。

 攻城戦こそなかったものの、この城は決して楽に手に入ったわけではない。

 有翼人が犠牲を一人にとどめたのに対し、こちらは一部隊を丸々失っている。有翼人が直接襲ってきたわけではないとはいえ、彼らは間違いなく、今回の戦闘での犠牲だった。

 相手方の人間の部隊を壊滅させたからといって、有翼人に痛手を与えたわけでもなかった。彼らからすれば、使い捨ての駒を散らされたようなもの。痛くもかゆくもない。また駒を集めるのに、時間と手間がかかって面倒だ、ぐらいは思うかもしれないが。

 さらに、こちらは精神的な面で傷付く者が多かった。

 ほかに選択肢がなかったとはいえ、同族の人間を攻撃せざる得なかった事実は、軍内にささくれ立った空気が蔓延するきっかけとなった。

 ピナレスは、討ち取った有翼人の死体を、城壁にはりつけにすると言って聞かなかった。有翼人に対する警告になればと思って、許可を出したのだが、これも空気が悪くなる一因になったかもしれない。

 頭上で重ねた両手と、まっすぐ伸ばしてまとめられた両足。それぞれに杭を打ち、左右に広げた翼は何十本もの矢でつなぎ止めてある。『天使』と呼ばれていただけあって、一見するとひどく神々しい十字のはりつけだった。

 それは、兵士たちにとって、いい“的”だったらしい。

 最初は翼に打たれていただけであった矢が、今や、全身の至るところに突き刺さっている。憎悪の発散と訓練、二つを同時に行える。兵士たちは、己の怒りを隠そうともしなかった。

 死体を嬲るようで、気分が良くない。

 できるだけ視界に入れまいとする私とは反対に、ピナレスはよく“的”を眺めていた。その時の彼は、いつもの明るい彼とは違う。表情を消してじっと見つめる姿は、他の誰が見せる恨み辛みよりもぞっとした。

 加えて、ダニエルが持ってきた報告は、こちらの気分をさらに陰鬱とさせた。


「どうやら、兵士たちが獣人を生け捕りにしたようで。訓練の名目で、拘束した獣人をいたぶっているようです」

「訓練? 何の訓練だ? 弓の的なら、もうあるじゃないか。反応を返さない的では満足できなくなった、とでも言うのか?」

「獣人に怯えないようにするための訓練……だそうです」


 己の髪をつかんで、頭を抱える。

 開けた窓からは、兵士たちのかけ声が聞こえてくる。様子を見るため、執務室の窓から顔をのぞくのも恐ろしかった。

 私の代わりというわけでもないだろうが、窓のそばに立ったダニエルは、渋面で中庭を見下ろす。普段は狂犬染みた行動を取ることの多い彼だが、今回は、私と同じ感覚を抱いてくれているらしい。

 ピナレスが所用で席を外している今、室内は彼と二人きりだ。そのことに、何よりも安堵を覚えた。


「この辺りに、昔から住んでいた獣人なのだろうな。戦闘に参加できない女子供を捕らえて、いたぶって、喜んでいるなんて、あいつらと何が違うんだか」

「喜んでいる……?」

「抵抗できない相手を傷付けて、楽しそうだ」


 兵士たちのかけ声の中に、笑い声が混じり、めまいがする思いをした。

 本当に、たわいもない冗談で笑い合っているだけだとしても、今の自分には吐き気がするほど気持ち悪い。

 ダニエルの言う通りだ。これでは、やられる側がやる側になっただけで、何も変わらない。


「すぐに、止めさせてこい。それから、私たちにはそろそろ軍律というか……そういう規律が必要だ。わざわざ明文化しなくても伝わる、なんて規模ではなくなったようだし。ここらでけじめをつけよう」

「了解しました。敵を必要以上に生かし、嬲る行為は禁止する。と、このような感じで注意すればよろしいですか?」

「とりあえずは、それでいい」


 ダニエルは窓のそばを離れ、言われたことをこなすために部屋を出て行く。

 胸のむかつきが止まらない。いっそ吐いてしまえば楽になる気がしたが、その前に、手記を引き寄せてペンを取る。

 ラインハルトも、この手のどうしようもない感情を、文字にして吐き出していたに違いない。誰にも見せることなく、己の内だけで処理するために。

 こうであれとは望まない。だが、しては駄目だという明確なものはある。それをしたら、人として堕ちてしまうような行為。

 私たちが相対してきた相手は、それを犯したから外道と呼ばれるのだ。私たちは、そのようなものになってはいけない。彼らを、そのようなものにするわけには、いかない。

 手記を一ページ埋めたペンでそのまま、規律を明文化していく。思いつく限り増えていく箇条書きは、すべて、「それを禁ずる」という文言がついて回った。

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