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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【1章 暴食の宴は蛛網の円卓にて】
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4.知恵の実は柘榴に似ている

 わたしはお母様にお願いして、青年のひとかけらを貰った。

 たったひとかけらだけど、一つしかなくて、とても大切な部位。心臓を、お母様はわたしにくれた。理由は聞かれなかったけど、お母様にはお見通しだったのだと思う。

 あの八つ目に見つめられると、隠し事はできない気分になってくる。わたしが魔術を習得した時も、お母様は何も言わなかった。何も聞かず、受け入れた。けど、わたしがしでかしたことを、知らないわけではなかった。そう確信している。

 与えられた、まだ生暖かな心臓を、わたしは両手で受け取った。

 彼の死体は見せられなかったけど、手に持ったそれが数分前までは動いていたことを、どうしようもなく感じ取れた。

 閉じた指の間から垂れ落ちる血すらもったいなくて、わたしは自分の指を舐めあげてから、心臓にかぶりついた。

 調理をする時間がもったいなかった。それに、そのまま食せるものなら食すのが、わたしたちの礼儀だ。手を加えるのは死んだ者に対する冒涜だとされている。

 だから、わたしはそのままの彼に唇で触れ、感じ、味わった。

 ほとんど噛みもせず飲み込んで、最後は手に残った血を飲み干して、わたしは『彼』を食べ終えた。魂を身に入れた時の、体の内側から暖かくなっていく感じが、全身に広がる。内臓が炙られるような激しい拒絶の熱さはなく、ほっと息をつく。

 初め、彼の魂は自分のものではない体に戸惑う。少し考えて、そこが次の居場所だと悟ると、これからは、この体の主人であるわたしとともに、世界を感じていこうとする。彼のゆるやかな決心が伝わってくる。


 これからよろしくね。


 心の中で呟くと、おおむね好意的な反応が返ってくる。まだ細かな彼の感じ方はわからないけれど、それも長く時間を過ごすことで知れるようになっていくだろう。

 なにせ心臓は、濃い魂を多く含む部位だ。魂の本体が宿る場所、その人そのものと言ってもいい。

 心臓を食べれば、記憶や知識だけでなく、その人の感情まで取り込める。しかしだからこそ、よほど親しい間柄でなければ、心臓は避けて食べるのが通例だった。無理に食べて相性が合わないと、人格に影響を及ぼして、それを期に人が変わってしまうことが多くあった。

 〈乗っ取り〉と呼ばれる現象だ。

 わたしたちは魂をさらっていく者として、死体を食べる精霊グールを嫌っているけど、心臓だけは彼らに捧げる。特に、敵対した相手の心臓は。どんなに敬意を払うべき相手でも、そこだけは食べない。

 それゆえに、わたしが今回、お母様にした“おねだり”は常識はずれだった。

 このことが姉妹たちに知れれば、またあることないこと囁かれるに違いない。お母様が話すとは思えないけど、噂というのはどこからともなく立ち上るものだ。

 わたしがアラクネで唯一の魔術師である時点で、はずれ者扱いは今さらだけど。

 もっと言うなら生まれた時から、糸を出せない欠陥のせいで、はみ出し者だったわけだし。

 皆から勝手に貼られるふだが一つ増えることぐらい、どうってことない。




 冬が終わり、地の下で眠っていた獣や虫が、土を掘り起こして地上に顔を出す頃には、ナナシもわたしの体に大分落ち着いていた。

 ナナシというのは、便宜上わたしが彼につけた名前だ。なんのひねりもなく、由来そのまま素材そのままという名前なのだが、彼は不満らしかった。そういう感情も、最近は自分のことのようにわかるようになった。

 体の内にわずかな反発を感じた時、それならば、と代案としてゴンベエを提案してみたのだが、そちらも不評だった。

 結果的に、比較して反発の小さかったナナシに落ち着いたわけだけど、わたしとしてはこれ以上に似合う名前はないと思っている。ゴンベエなんかよりは断然いい。究極を言えば、実際に口に出すことはないのだから、なんだっていい。

 と、うっかり考えたら、彼にすごく恨みがましい感情を当てられた。

 無防備に考え事もできない。

 普通なら不便に思うところだけど、わたしは居心地が良かった。常に一人ではなく、彼がそばにいる。そのことに安心を覚えた。


 お母様に呼び出しを受けたのは、春の陽気がさわやかな、なにか良いことを予感させる日だった。

 いつもお母様がいる頂上付近は、居住区のような鬱陶しい木の生え方をしていない。居住区に生えた木々は、冬の間の枯れ方が嘘のように、春にはこんもりと葉を繁らせる。冬に雪よけとして張った糸の天井を取り払っても、薄暗さは相変わらずだった。

 透けた日差しが、地面に影の葉を散らばせている。風に遊ぶ影が、歩くわたしの身にも降りそそぐ。

 ナナシが姉妹たちに囲まれていた広場に辿りつくと、中央に見慣れない台座があった。やわらかな葉をベッドに、銀色に輝く球体がその上に安置されている。

 勝手に足が止まり、それを見つめる目は見開く。二人分の鼓動を鳴らそうとする心臓がいそがしい。


「フォッグス山の、新生マザーの卵ですよ」


 台座を見つめていると、大木の裏手からお母様が姿を現した。

 目が合うと、お母様はわずかに微笑む。


「もう、移動させてもよい頃合いになりました」

「移動?」

「普通、マザーは孵った山の主になるものですから、この子をフォッグス山のマザーに据えたいのなら、卵をフォッグス山に移す、ということになりますね」


 お母様から視線を外して、もう一度『マザー』の卵を見る。

 特別に輝いて見えるのは、お母様が吐き出した糸に包まれているからだろうか。わたしたちは卵の時代から、同年齢の姉妹がいるのに対して、マザーとなる者はすでにただ一人、孤高にいるからだろうか。

 明らかに、普通のアラクネの卵とは違った。

 しかしそれ以上に、神聖なものを目にする感情以上に、内側から湧き上がってくるものがある。『マザー』の卵だから、じゃない。そういう意味の、特別、じゃない。


「……ソフィー、オマエにはこの子のお守り役になってほしいのです。共にフォッグス山に行き、この子を支えてやってくれませんか」


 お母様の目は真剣だった。

 重要な役目を与えられた喜びと、それが当然だという思いが混在する。だってわたしは、お母様に重宝されている娘で、ナナシはこの子の父親だから。

 父親だから、なんて前までは理由にならなかったけど、彼を知り尽くした今は違う。彼を通して、アラクネの男というものを知った今は、お母様だけでなく父親も、一番近くでわたしを見守っていたのかもしれない、と思えるようになった。

 今のわたしとナナシのように。

 アラクネの男女に、他人種のような夫婦の愛はないけれど、子を通した絆はある。

 わたしはそう結論を出した。


「謹んでお受けいたします」


 胸に手を当てると、お母様は満足そうに頷いた。


「現在の山がどのようになっているかも分かりません。敵対勢力の潜伏や、周辺地域の平定にそなえて、護衛を三十名ほど付けましょう。彼女らを好きに使って構いませんが、彼女らの面倒を見るのも自分だということを、忘れないように」


 一気に言ってから、ああもう一つ、とお母様は付け加える。


「余裕があれば、ここのように〈囲い〉を作るのも良いかもしれませんね」

「新生マザーが安全に君臨できる環境を整えるのが、わたしの役目というわけですね」


 近くに人間の集落があるといいのだけど、とぼんやり思う。

 安定的に肉が手に入る〈囲い〉を作るには、彼らのような大人しい人種が一番適している。ラヌート山の麓にも、〈囲い〉と呼ばれる人間の集落がある。他の人種が牛や羊を飼うように、わたしたちは人の里を丸ごと囲う。

 罠にかかる獲物を待つだけの生活は不安定で、大家族と化したアラクネを養えない。だから、大きな一族は大抵〈囲い〉を一つは持っていた。


「……よろしく頼みましたよ」


 頼まれたのはきっと、わたしだけではない。

 芽生えたのが母性か父性か、姉妹愛か、わからないけど、この子を守り通すという確固たる思いに変わりはない。

 それさえわかっていれば、芽生えた感情に名付ける意味はなかった。



 *****



 長い間、人の立ち入りがなかったのだろう。十六年ぶりに、新しくマザーを頂くことになったフォッグス山は、道などあってないようなもので、そのほとんどが獣道と化していた。

 大事な大事なマザーの卵を抱くわたしの前には、お母様に預けられた、武装した妹たちの姿がある。

 彼女たちは、道に飛び出した枝を剣で振り払っていた。道を切り開いてくれるのは結構なのだが、周りを気にかけず振り飛ばしているものだから、枝切れがこちらまで飛んでくる。

 ほら、また。

 飛んできたそれを、腕を伸ばして、卵に当たる前につかむ。小さなクモが巣を張っていたのだろう。枝には、ふわりとまとわりつくクモの巣の残骸と、住み処を壊され慌てふためくクモがくっついていた。

 こんなちっぽけな奴でも、一丁前に尻から枝に糸を繋げていることに、多少の腹立たしさを覚える。

 この山に入ってから、これ以上に立派な糸は見ていなかった。アラクネが住んでいた証など、とっくの昔に朽ちてしまったらしい。

 クモは枝からぶら下がり、安全に地面に降りる機会をうかがっていた。枝との細い繋がりを、指でつまんで切ってやろうか、なんてどうしようもない意地悪が頭に浮かぶ。しかし直後に、たかがクモに劣等感を抱く自分がくだらなく思えた。

 虫をいじめて喜ぶほど、わたしは陰気じゃないし。やめよう。可哀想だし。

 どうでもよくなって、クモをくっつけたままの枝切れを道端に放る。

 相変わらず、前を行く妹たちは派手に剣を振り回していたので、少し距離を開けた。


「この程度の面倒で済んでよかったと考えるべきかしらね」


 わたしのぼやきに、妹がちらりと振り返った。


「はん、あたし達は暴れたくてたまらなかったんだけどね! 枝相手の格闘なんて、ツマラナさすぎる」

「それはまた、別の機会があるわ。ここに来るまでに人間の集落があったのを見たでしょう?」


 運が良いことに、わたしの希望通り、フォッグス山の付近には小さな人間の集落があった。山をある程度住める状態にして、落ち着いたら、制圧に向かわなければならない。その時には、彼女たちの出番だ。


「あたしは今すぐの話をしてんだよ! あーあ、クマでも出てこないかなー」

「やめなさい。マザーの卵に何かあったらどうするの」

「何もないように、あたし達がついてんだろうが。だいじょーぶ! マザー様には傷一つつかないように、あたしが守ってやるよ。ついでにソフィー姉さんもな」


 妹は歯を見せて凶暴に笑う。

 さすがは交差する剣のペイントを施した武闘派だ。彼女たちの血気盛んな様子は、面倒くさいやら、頼もしいやら、おかしな言葉遣いも相まって、ため息が出てくる。

 わたしを軽んじた言動はまだいい。

 マザー様、なんて。陛下にさらに様をつけて「陛下様」と呼ぶのと同じくらい、へんてこな敬称だ。

 しかし、いちいち指摘してやっても明日には忘れていることは、これまでの経験上わかっている。なので、深く追及しないことにした。一応、敬ってはいるようだし。


「ところで、その人間ってのは強いのか?」


 彼女の問いかけに、頭を抱えたくなる。そんなことをしたら、マザーの卵を取り落とすから絶対にできないけど。


「わたしたちの食卓に、時々並ぶ肉があったでしょう。〈囲い〉から調達してきた——あれが人間よ」

「ああ、あれが! ……じゃあ、弱っちいな」


 妹は顔をしかめた。

 できれば、気づいてほしくなかったところだ。役不足の彼女たちの不満をどう発散させるか、変な方向に頭を悩ませなくてはいけなくなる。

 しかも、お馬鹿さんたちは自分が普段何を食べていたかも知らないときた。

 皿に載せたドブネズミの肉を豪華に飾り付けて、彼女たちの前に出したら、高価な肉と勘違いして喜んで食べるに違いない。そして食べ終わった後も、勘違いしたまま。気づかないまま、幸福な気分に浸れる。めでたい頭だ。羨ましいぐらい。

 もしかしたら今も、そこに道っぽいものがあるから、ひたすら進んでいるだけじゃなかろうか。そんなことを思いついて、今度は自分の迂闊さを呪った。先導を彼女たちに任せっきりにするわけにはいかない。


「拠点を決めないとね。以前の『マザー』が使っていた古巣があるはずだわ」

「じゃ、それを探せばいいか?」

「そうね。……いえ、探す必要はないわ。わかるから。——こっちよ」


 自分の記憶にない光景が一瞬、脳裏をかすめる。そして、そこへ至るまでの正確な道筋が脳内で展開される。

 必要とされるまで沈黙を守っていたらしいナナシの意識が、急激に浮上してきた。道案内役にこれ以上の適任はいない。

 ただ、すぐにわかったことだが、その記憶は随分と古いものだった。

 彼の記憶の中では、こんなに木が覆い茂っていないし。道のど真ん中に落石はないし。

 信頼性に難あり。そんなふうにちょっと冗談めかして心中で呟いただけなのに、ナナシがむきになって反論してくる。


 ——些細な齟齬など、迂回すれば済む話だ。


 まあ、その通りなのだけど。

 わたしが笑むと、妹の一人が不審そうに振り返った。


「……? ねーちゃん、誰かと話してるのか?」

「……いいえ。そんなふうに見えた?」

「いや、なんか今、気配が——ま、いいや。この道、まっすぐ行けばいいのか」

「そう。もう少し行ったら、左に曲がってね」


 妹は頷いて、言われた通りに道を進んでいく。

 彼の存在は、彼女たちに話していなかった。隠す必要もないだろうに、とナナシは言ったが、男を毛嫌いする妹たちの気持ちは、わたしにもわかる。ちょっと前まで、自分がそうだったから。それも、ただの男じゃない。お母様と一晩を過ごした男なんて、蛇蝎以外の何ものでもない。

 そんな男の魂がわたしの身にあると知られた日には、体をえぐられかねない。穢れを取り除こうとする彼女たちの善意によって。


 ——男の魂なんて今さらだろう。これまで散々、男の肉を喰らってきたんだから。

 肉を食べても、魂の核が収まった心臓まで食べたことはないのよ、妹たちは。わたしだって、あなたが初めてだった。


 内側から話しかけてくる存在にも、もう不自然さを感じなくなった。それが当たり前だったように、わたしとナナシはやり取りする。


 これほど色濃く現れるものなのね。一つの体を二人で共有しているみたいで、とても気持ちがいいわ。これから一生、孤独と無縁だと思うと嬉しくてたまらない。

 ——そうか? 自分は少し居心地が悪いぞ……。

 あら、慎み深い男子ですこと。仮にも女性の体にいるのだから、それぐらい控えめでないとね。


 わたしがふざけて返すと、ナナシの照れ笑いが聞こえた。気がした。




 無事に拠点が見つかり、以前のマザー——ナナシのお母様が、ねぐらとして使っていたであろう洞穴の奥に、抱いてきた卵を安置する。

 妹に命じて即席で作らせた台座だが、しばらくはこれで我慢していただこう。ラヌート山の台座と比べると見栄えは劣るけど、やわらかな葉はこんもり盛ったし、寝心地はそんなに悪くないはずだ。

 山の主が不在の間に、野生動物が勝手に洞穴を使っていてもよさそうなものだが、不思議とその痕跡は見当たらなかった。わたしたちにはわからないけど、獣の嫌がるアラクネの匂いが、岩壁や床に染み込んでいるのかもしれない。

 洞穴の中は暑すぎず涼しすぎず、ちょうどいい気温に保たれている。天井にまばらに空いた天然の通気孔が、内の空気がこもる前に、外の清涼な空気と入れ替えていく。通気孔からは風だけでなく、幾本もの細い光が差し込み、薄闇の中でマザーの卵を白く浮かび上がらせていた。

 妹たちは山の中で、今晩の食事を探しているはずだから、 わたしはやっと一人で人心地がつける。


「あ、違うわね。ごめんなさい、一人じゃないわ」


 自分の内にいるナナシに向かってか、目の前に鎮座するマザーの卵に向かってか、どちらに対してともなく謝る。


「……早く生まれておいで」


 無事に生まれてきてほしい。

 沈黙する卵を見ていると、そんな思いが湧き上がってくる。

 十六年前は、わたしもこの中に入っていた。今とはまったく違う世界を見ていた、はずだ。

 殻の向こうにいるはずの子は、すでに自我が芽生えているのか。それとも、まだ何者にもなっておらず、混沌に身を置いているのか。想像してもわからない。さすがに、こんな頃の記憶はわたしにはなかった。

 けれど、記憶があったとしたら。それはひどく恐ろしい思い出だったことだろう。

 独り、暗闇でじっと時間が過ぎるのを待ち続けるなんて。耐えられない。

 ああ、でも。今なら、たとえ卵の殻に覆われたとしても寂しくない。わたしはもう孤独じゃないから。


「あなたが生まれてきたら、盛大にお祝いしましょうね。お姉ちゃんが思いっきり、甘やかしてあげるから」


 言ってから、不敬にあたる発言だろうか、と苦笑する。

 同じ母の血を受け継いだ姉妹でありながら、この子は生まれながらの『母』となる。ただの妹と同じ扱いをしていいわけがない。


「なにが違うんだろう、なんて言わないわよ。だって、どう見たって違うんだもの」


 輝く銀糸が告げいている。特別な子は、生まれる前から特別なのだと。

 きっと、あの子も卵の時代から輝いていた。マザーの卵ほどではないにせよ、真っ白な絹のような糸にくるまれていたに違いない。

 今日になって初めて袖を通した服の、布地に触れる。

 ルーシィから渡された服を、あのまま捨てることはできなかった。しかしだからといって、ラヌート山では姉妹の目が多すぎて、堂々と着ることもできなかった。どっちつかずのまま隠し、持ち続けて、フォッグス山に足を踏み入れる今日、勝負服のつもりで思い切って着てみた。

 あの子が作ったという服は、わたしの肌に馴染みすぎた。わたしに抱きついてきたあの子のぬくもりを思い出して、涙が出そうになるほどだった。

 ルーシィほど悪意と無縁だった子はいない。どれだけ邪険に扱おうと、あの子は気にせずにこにこと話しかけてきた。わたしの毒気にあてられて、少しはすれてよさそうなものを、そんな気配を微塵もみせなかった。

 反対に、わたしの方が彼女にほだされてしまった。


「でも、どこかで僻んでいたのかもね。周りから、ちやほやされるあの子を」


 才能なんて仰々しい言葉は使わない。けれど、素質がなければ話にもならない。

 糸を出せない欠陥の体は、アラクネの社会では生き辛すぎた。生活をするにも、戦闘をするにも、遊びをするにも、まず糸ありきの日常。それがアラクネとしての当たり前だった。

 糸のない生活など、姉妹たちには想像すらできないだろう。わたしだって、意味がわからないのだから。


「今なら言えるわよ。たかだか一つできないことがあるぐらいで腐るな、って。やれることを探せばいいんだから」


 周りに妹がいないのをいいことに、わたしは相槌も打たない聞き手に語る。

 仕事を割り振られる十二歳までになんとかしよう、と焦っていた。糸を吐き出せなくても、己の価値を、存在理由を見つけようと、必死になっていた。今思い返しても、あれほど死に物狂いという形容がぴったりくる様もないだろう。

 なにを思って罠場に向かったのか、覚えていない。ただそこで、ルーシィが新しい世界に触れたように、十一歳のわたしは新しい世界の扉を開けた。

 罠にかかった獲物が、白金色の毛並みをした狐の獣人だったことは覚えている。獲物はすでに絶命していて、そばには何が書かれているかもわからない分厚い書物が落ちていた。

 その頃のわたしは、役立たずはご飯も食べちゃいけない、という強迫観念に囚われていて、ほとんどまともに食事をとっていなかった。そんな状態で遭遇した、手付かずの獲物に、育ち盛りの子供が我慢できるはずもなかった。

 小指一本だけなら、と申し訳程度に遠慮した最初のつまみ食い。それがわたしの見る世界を変えた。

 小指を飲み下すと、読めもしない書物が唐突に、魔術書であるとわかった。気づいたというより、知っていることを思い出した、そんな感じだった。

 にわかに興奮して、己のひらめきのままに、今度は獲物の腕一本を食した。

 すると、文字を習ったこともないわたしが、魔術書の題字を読めるようになった。その時には、獲物の獣人が魔術師であることもわかっていた。

 文字を読めるようになっても、内容の理解には及ばなかった。だから、魔術師の肉の、食べられるところはすべて食べた。お母様にも姉にも内緒で、初めての盗み食いを完食するという、浅ましさを発揮した。——例によって、心臓だけはグールに捧げたけれど。

 震える手で魔術書を開いた時には、もうその魔術書を読む必要がないぐらい、知識が詰め込まれていた。書かれた呪文を目で追って、口に出して、己の手に炎が宿る光景を思い浮かべて。


 ——そうして実際に、頭に思い描いたものが現れた時の感激と言ったら。


 息を吹き返したようだった。おまえは生きていいのだ、と天命を授かった気分だった。

 魔法を使うのだって、素質がなければできない。生まれながらに魔力の器を持たない者は、何をやっても魔法を使えるようにはならない。そして世の中には、自分に魔力の器があると知らず一生を終えていく者もいる。

 わたしは、一歩踏み出したおかげで——踏み外したとも言うけど、自分の素質を発掘した。

 燃える炎こそが、わたしの新たな命。

 魔術師の知識によれば、魔力の器がある者なら大抵使える、平凡な属性の魔法だけど。贅沢は望まない。

 魔法はそれこそ、生まれながらの優劣がはっきりと表れる分野だ。器があっても魔力が小さければ大したことはできず、扱える属性は生まれつき決まっている。

 膨大な魔力を持ち、世界に一人レベルの超希少な属性を扱う者を、この分野で天才と呼ぶのだろう。

 でも——


「才能を言い訳に、努力しないクズは嫌い。わたしでさえできたのに、おまえたちにできないわけがない。そう思ってしまうから」


 与えられたものに文句を言い、己の“才能”を嘆く姉妹たちが嫌いだった。それがどれだけ恵まれたものか知りもしないで、愚痴る厚かましさにうんざりした。

 けれど、そこでもルーシィは特別であり続けた。


「皆はあの子の技術を才能だと思っていたようだけど、違うわ。あれは努力のたまものよ。最後は文句を言っていたけど、熱心に仕事と向き合ってきたからこそ、手に入れたもの。……ただ、探求心が溢れすぎちゃって、山からも飛び出して行ってしまったけど」


 今頃、あの子は何をしているだろうか。そう考えて、頭を振る。

 生きているはずがない。アラクネの娘が、たった一人で生きていけるはずがないのだ。


「……うん、とにかくね。わたしはわたしに与えられたものを最大限に使って、お母様の役に立ってやると決めたのよ。今度こそ……守ってあげるから」


 マザーの卵は沈黙を貫いている。たとえ今、わたしの言葉を聞いていたとしても、卵の殻を破って世界に出てきた時には、忘れてしまっているだろう。


 いつか、ナナシが聞いたことがあった。

 なぜあの時、マザーに口添えしたのか、と。多くの娘が拒絶する中で、どうして自分の味方をしたのか、と。

 わたしはこう答えた。


 ——さあ。ただ、己の役目を果たせないまま死ぬのは、さぞ無念だろうな、って思っただけよ。


 それが自分だったら、と想像するだけでも、ぞっとしたから。

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