5.望む世界は潰えない
レディの思いとは、おそらく反して、私は森から駆け出て、デグラ侯国に戻るための道のりを走り抜けた。ろくに食事も摂らず、寝る間も惜しんで。道行く者を脅しては、方角を聞き出した。
私の帰る場所など、彼女のもと以外にありはしない。
残された魔力を、レディは私のために使った。共に死ぬことを許さず、逃げのびろ、と突き放した。
——彼女が心中に望んだのは、私ではなく『英雄』だった。
最後の最後まで、私は選ばれなかった。そもそも、最初から選択肢にも入っていなかったとしても。これまでずっと隣に在り続けてきたのだ。少しぐらい、期待してしまうではないか。
生まれた時は違えども、死ぬ時は同じだと。
初めて彼女を感じたのは、ほんのりと暖かい体温だった。
脚の一本も動かせず、どこもかしこも痛くてたまらなかった。目もろくに開かず、暗闇の檻に閉じ込められたようで、精神だけが暴れ狂っていた。私をこの状態に追いやった連中に、どう仕返しするか、そればかり考えていた。
それが、首筋をひと撫でされただけで、鎮まった。
傷まみれの私を撫でた、あの手のぬくもりが忘れられない。
命の恩を返そうなんて、そんな高潔な理由じゃなかった。共に傷付いていけば、いつでもこの手に撫でてもらえる。そう、邪に思った。
次第に、それだけでは満足できなくなっていくのだから、業が深い。
人並みに言葉を話せるものだから、対等であれると勘違いするのだ。人並み以上の言葉は操れないというのに。
私がいっそ、ただの馬であったらなら良かった。
轡を咬まされ、手綱を握られるというなら、それでも構わなかった。その方が、目に見える分、彼女との繋がりを確かに感じ取れただろう。道具として使い潰され、生死を共にすることができれば、満足だった。
一個の人格として扱われるのが、こんなにも苦しいなんて。
この感情を表す言葉を、私は知っている。伝える手段も、持っている。——そして、それを抑え込まなければならない理屈も、分かっている。
人の想いまで想像がつく、自身の、中途半端な頭の良さが恨めしい。
同等に扱われるからこそ、私は賢く振る舞わなければならなかった。そんな物分かりの良い者になれるわけがないのに!
何度月が沈み、何度太陽が昇ったかは知らない。ようやく辿り着いたデグラ侯国に、かつての面影はなく、打ち壊された廃墟だけが残っていた。まるで、昔からそうであったように、辺りはしんと静かだった。
かかる分厚い雲は景色を灰色に染め上げる。小雨の降る寂寞とは裏腹に、私の胸中は煮え立っていた。ぬかるんだ土を蹴り上げて、また走り始める。
『英雄』を殺す。
見つけ出して踏み抜く。死んでいたら霊魂を締め上げる。きっと、死んじゃいないが。
……レディは死んでいる。まるで、世界にひとりぼっちになったような、頼りない感覚に襲われる。彼女に会う以前の自分が、どう立っていたかも思い出せない。
たしか、負の感情に突き動かされていたのだったか。
ああ、妬ましい。
彼女が最期に見たものが、この光景と『英雄』だなんて、はらわたがねじ切れそうだ。
死んで償え、なんて思っちゃいない。私が奴を殺したくてたまらないだけだ。レディが望まないだろうことは、百も承知だ。
そうだ。分からず屋がもがいているだけに過ぎない。
そこに、仇討ちなんて高尚な目的など、ありはしない。
*****
亡者のように、廃都と化したデグラ侯国を歩き回ること数日。ついに、その男を見つけた。
なだらかな坂の先。小高い丘の上に、『英雄』はただ一人、ぽつんと背を向け立っていた。
顔を確認せずとも確信できたのは、彼が、以前と変わらない陰鬱とした雰囲気をまとっていたからだ。
激情にまかせ、いななきを上げる。丘を一息に駆けのぼる。数秒もかからない。
振り返る暇さえ、与えない。
影を被せるように後ろ足で立ち上がり、『英雄』の後頭部に向けて、二本の角を振り下ろす。
響きのない、鈍い音が、背筋を駆け抜けた。物理的な接触だけではない、歓喜が我が身を震わす。
『英雄』は糸が切れた人形のようにくずおれた。ずるずると、向かい合っていた石碑らしき物に背を預け、なかば閉じかけた目で、こちらを見上げてくる。
一撃で死ななかったとは難儀なことだ。心臓を踏み抜くつもりで前足の一方を上げた時、『英雄』の背後の石碑を目に入れてしまった。
百合の花が刻まれた石碑。
名前も文言もないが、それだけの図柄で、彼が何を思い、この石碑を建てたのか、分かってしまった。レディが最期、『カリム』と再会できたらしいことも。
彫られた花びらの一枚が、カリムの頭から垂れ流れた血により、赤く染まる。汚してしまったという罪悪感が、先ほどまでの歓喜を吹き飛ばす。
殺意は急激にしぼんで、前足も力なく地面に着く。
「なぜ、避けなかった。わざわざ、いななきを上げてやったというのに」
言いながら、泣きたくなってくる。
私は、こいつを殺しに来たのではなかった。
カリムは朦朧とした様子で、唇を震わせる。
「俺が、ここで死ぬ運命だからじゃないか」
その運命を交換してくれ、と言いたかった。
私は、こいつに殺されに来たのだ。
死ぬつもりで、死に物狂いで走ったのだ。それなのに、こんな呆気ない結果なんて。
死にかけているというのに、カリムの瞳には以前見た時と違い、ぼんやりとだが、光があった。私を見上げ、不思議そうにする顔には、敵意も憎悪もない。
「なぜ、応戦しなかった。なんで、私を殺してくれなかった……!」
「それは、おまえがここで死ぬ運命じゃないからだろう」
物分かりの悪い者を諭すように、カリムは苦笑する。
次第に、やっと灯った瞳の光も鈍くなっていく。呟くように、カリムは掠れた声を出す。
「おまえには、生きて、まだやるべきことがあるんじゃないか」
それっきり、彼はうんともすんとも言わなくなった。石碑にもたれた姿勢のまま、うつむくように落ちた頭。流れた血が、髪をぬらしていく。
かたわらには、甘い香りを漂わせる花——レディの好きだった、甘い蜜の吸える花が、散らばっている。
おそらく、この石碑に供えるためにカリムが摘んできたものだ。それらを鼻で押して集めながら、考える。私がここに戻ってきたわけを。これからの生きる理由を。
デグラ侯国の自宅に戻り、嘆息する。
屋根と壁がない。抜け落ちた床と、わずかばかりの家具だけが残っている。奇跡的に無事だった棚に近付き、今度は安堵のため息をつく。
私がレディと共に在った証である、山のような勲章と、それを身に付けるため、ルーシィに作ってもらったネックコルセット。それから、レディから贈られた角飾り。私の全財産が、特に大きな傷もなく残されていた。
これだけあれば、私は生きていける。片割れを失って腑抜けた賢獣のように、ならずに済む。
道すがら、考え続けた。カリムにできなくて、私にできること。それでいて、レディに褒められる行為といったら、一つしかない。
彼女が望んだ世界を、いつか現世に。
焦る必要はないのだと、レディは言った。
草木が種を飛ばすように、ゆるやかに。世界に広まっていけばいいのだ、と。人種の隔たりなど軽々と乗り越えて、いずれ花は咲く。彼女はそう信じていた。
だが、種子を運ぶより早く、風は火の手を回した。火種はぱっと燃え移るから。
それでも、まだ希望は潰えちゃいない。
放たれた火が大地をならしても、溢れた川の水がすべてを流しても。残された種があるのなら。その地に再び、草木が萌ゆる日は来る。
亡国となったデグラ侯国に残された種は、皮肉にも、『英雄』と呼ばれた男が建てた、百合の石碑なのだろう。
育つ土壌がないのなら、私が作る。レディのように根気よく、世話をしてみせる。たとえ、この目で見ることが叶わなくとも、未来に託して芽吹かせるのだ。
私はこれから、長い長い水やりを始めよう。
*****
未来を見据えたから、息子が生まれ、今では孫もいる。バイコーンの翁に懐く仔馬には、生えかけの二本の角がある。
毎日のように丘の上に連れ立って、仔馬は昔話をせがんだ。けれど、翁は多くを語らない。
いずれ立派に成長した仔馬が、この場にある少女を連れてくるのは、まだ先の話。




