4.揺るがぬ信念の衝突
開戦の日の早朝、レディのもとにルーシィが訪ねてきた。
すっかり鎧を着込んだレディを目にしたルーシィは萎縮したようだったが、レディが笑顔を向けると、つられて口元を緩めた。ルーシィは手にたたんで持っていた布を、彼女に差し出す。
「あたしでも、なにかリリィにできることがないかなって考えて、こんなものを作っちゃった」
レディが受け取った布を広げる。
それは、百合のコサージュが縫い付けられた、夕焼け色のマントだった。
レディはしばし、声をなくして見入っていた。やがて、彼女は嬉しさをにじませた声で言う。
「ありがとう。敵にも味方にも、見せびらかしてやるわ」
鎧の上から貰ったばかりのマントを羽織り、レディはスカートをつまむようにマントの裾を持って、一回転してみせた。
それから、自分の身を包むようにマントを引き寄せて、レディは尋ねる。
「ルーシィはこの国を出て行くのよね」
「うん、ソアイさんも一緒。あたしは、機織りしか能がないから。残っても足手まといになっちゃう。……それにね、危険な道中で命綱ぐらいは作れるかもしれない、って思ったの」
街を出て行く一団は、すでに街の外れに集まり、荷物をまとめて出発の時を待っているはずだった。ルーシィが憂鬱そうなのは、その中にヒューの姿がないからかもしれない。
意外にも、デグラ侯国の人間の多くは、街に残ることを決めた。抗戦派の獣人に煽られたわけでもないだろうが、攻めてこようとする人間に背を向けて逃げ出すのは、同じ人間として、なにか責務を果たしていないような気がする、と言っていた。
そして、半分とはいえ人間の血を引くライカンスロープ達も、また。「見せつけてやる」人間の姿のまま獣の耳を生やし、尻尾を露出させたヒューは言った。それが自分達にできることだと。
レディは昨日のうちに、世話になった人への別れを済ませていた。また今度、と強く言う知人達に、彼女は曖昧な笑みで応えるだけだった。
あの夜から、レディの存在がより遠くに感じられるようになった。隣にいるのは確かなのに。気配を感じ取れなくなることが、時々ある。
ルーシィも同様の感覚を持ったのかもしれない。出し抜けに、レディの手を握った。
「絶対に、生きてまた会おうね」
八つの目をうるませ、ルーシィはすがる。
レディはどこかぼんやりした顔で、彼女を見つめていた。握られた手をそっと抜いて、幼い子供をなだめるように、ルーシィを抱きしめ、レディは微笑んだ。
「約束はできないかもしれないけれど」
ルーシィはレディの胸に顔をうずめ、声を上げて泣いた。
その時、私は、見せつけてやる、と言ったヒューの心情を理解した気がした。
外で戦闘の準備をしているであろう『英雄』に、この光景を見せてやりたい。人間の友人を思い、悲痛にむせび泣くアラクネの姿を。
それとも、濁りきった目にはもう、これすら歪んだ光景としか捉えられないか。
*****
幾重もの弦の唸りが、戦闘の開始を告げた。
空には、朝から陰鬱な雲が居座っていた。放たれた矢が頭上を覆い、辺りはますます暗くなる。私達に向かい降ってくるのは、水の恵みではなく、黒い矢の雨だ。
こちらの弓矢隊は動じた様子もなく、弓を構えている。
研ぎ澄まされた彼らの耳は、合図を待っていた。隊列の端で、レディが魔法の詠唱を終えるのを。
彼女の口の動きが止まると、味方の上空に、巨大な光る魔法陣が現れる。降り注いだ矢はことごとく吸い込まれて、一つとしてこちらの陣営に届かない。
一見すると消えてしまったように見えるが、それはレディの大掛かりな空間魔法によって、放った本人達へ送り返されていた。
敵陣の上空にも、こちらとよく似た形と大きさの魔法陣が浮かんでいる。矢は吸い込まれた時の速度のまま、そこから、もとの場所へ帰っていく。
矢の雨にさらされて、敵の隊列が乱れた。相手の悲鳴を敏感に聞き取った獣人が、仲間と目配せする。相手が混乱しているうちに、こちらの弓矢隊も攻撃を開始した。
最初の勢いとは大事なものだ。
レディが作った流れに、味方は大いに湧いていた。私も、彼女に声をかけられるまでは、興奮していた。
「めーさん、『英雄』を倒しにいこう」
喧騒にまぎれて、耳元近くでそう囁かれるまでは。
さあっと、胸が冷えていく。振り向き見た彼女は、真剣な目をしていて、敵の意表を突いたぐらいでは、まったく満足していなかった。
私が何も言えずにいると、彼女はじれったそうに声を押し殺した。
「ここで凌いだって、ジリ貧になるだけ。親玉を叩かないと、数で劣る私達に勝ち目はない」
「こ、この戦いは、時間稼ぎのためのものではなかったのですか?」
勝つことなんて度外視。中にははっきりと、討ち死にを覚悟している者までいる。もちろん、隙を見て逃げ出せるのなら、それもよし。私はある程度の時が経ったら、レディをここから連れ出すつもりでいた。
レディは自分が言ったことも忘れていたような顔をした。
「そうだったね……。そう思っていたんだけど、やっぱり、それじゃ駄目だよ。『英雄』を倒さないと、みんな壊されてしまう……! せっかく育ててきた芽が、潰されちゃう!」
焦燥感に駆られる様子に、圧迫される。
周りの騒がしさに耳を跳ねさせながら、ほんの少しだけ考えて、私は決めた。彼女が乗りやすいよう、体の向きを変える。
「レディが望むのなら」
「ありがとう」
久しぶりに、背中にこの重みを感じた。彼女が手綱代わりに、私の角をつかむのが分かる。
こんな状況なのに、私は意気揚々としていた。思いっきり走りたくてたまらない。目の前に、真っ平らな草原が広がっている。走り抜けるには、黒アリのような人だかりが邪魔だ。
——魔法をぶっ放して、道を空けてやる!
いまだ混乱の中にある敵軍を、さらなる混乱に放り込む。突進しながら唱えた魔法は爆炎となり、前方の人間達を吹き飛ばした。
地面そのものがはじけ飛んで、黒焦げた土が上から降ってくる。どさり、どさり、と落ちる大きな塊は、ちぎれた四肢だった。
焼けた肉の匂いに、唾がわく。
最初に弓を射った人間の兵士は散り散りになって逃げ出したが、その後ろにはまだ余力のある人間がずらりと残っている。レディが言った通り、相手はこちらの何倍もの兵力を持っている。
普通に考えたら、勝てるわけがない勝負であることは、分かりきっていた。
私は、その勝負に、レディが連れ出してくれたことに、高揚していた。
陣地に向かってまっすぐ走りくるバイコーンの姿は、新たな恐怖をかき立てたらしい。被害の及んでいなかった隊列も、じりじりと後退し始める。
「弓と魔法は気にしなくていいよ。私が守るから」
「では、レディ、振り落とされないようにお願いしますよ。それと、舌を噛まないように」
ますます速度を上げて、敵陣に突っ込む。
周りから、矢やら魔法攻撃やらが飛んでくる。だが、どれ一つとして、私の体に届くものはない。
レディが私達を囲うように、空間魔法の魔法陣を展開していた。攻撃はすべて魔法陣に吸い込まれて、百八十度向きを変えた後、再度飛び出していく。攻撃すればするほど、自分達が傷付いていく理不尽さに、攻撃の手が迷いを見せ始める。
単騎で襲ったというのに、まるで騎兵の軍団にでも襲われたような叫喚具合だ。
次第に、私達に道を譲るように、敵兵が左右に引き始める。命令された陣形変えではなかったようで、腰の引けた兵士達を叱咤する、指揮官の吠え声が聞こえた。
本音を言えば、雑魚はどうでもいい。
それでも執拗に蹴散らすのは、そうすることで『英雄』を誘い出せるかもしれないと思ったからだ。
「さあ、出てこい! 英雄を名乗る不遜な男よ! 正々堂々、一騎打ちといこうではないか!」
さもなくば、大事な部下達が死ぬぞ。言外にそう脅す。
興奮のままに魔法を詠唱すれば、また地面がはじけ飛ぶ。上に乗っていた人間と一緒に。
…………なかなか出てこない。じれったい。『英雄』の名に引っ張られて、思い違いをしていたか。高潔な心など、持ち合わせていなかったか。
周囲に目を配り、上等な武具に身を包んだ一団に狙いをつける。一人の兵士の、兜で隠しきれていない表情が、引きつった。彼の注意は私達ではなく、己の背後——一団の中に向いていた。
騒ぎが起こる。ぎょっとした兵士達の内側から、自身を守る壁をなぎ倒すようにして、馬に乗った男が飛び出してくる。
その中の一人が、追いかけようと馬の背によじ登りながら、叫んだ。
「カリム様! なりません! ——おい、誰かあの方を止めろ!」
怒鳴られて、兵士達はたじろぐ。
こんな、鬼のような形相で馬を疾駆させる男の前に出るなんて、自殺行為だ。
——間違いない。あの男こそが『英雄』だ。
蹂躙される兵士達を見過ごせず、実に英雄的な登場をしてくれた!
レディに合図を出され、走り出す。馬上試合よろしく、レディと『英雄』は走り抜けざまに、剣を交差させた。鮮やかな立ち回りに、周りの兵士が息を飲む。
どちらも落ちなかったから、もう一度——
そんなふうに、私達が向き合った時だった。
追い付いた若い男が、馬上から二又槍を投げようと身を乗り出した。『英雄』がハッと目を見開く。
「やめろ! 投げるな!」
グッと、今まさに手放そうとしていた柄をつかみ直して、若い男は固まった。
私達の周りには、特異な魔法陣が浮かんでいる。槍を投げたが最後、己の体を貫くことになる。
そのことを思い出したのだろう。顔面に獣に引っかかれたかのような傷痕がある彼は、悔しそうに、その傷痕を歪めて、槍の穂先を下ろした。
「ピナレス、指揮はきみに任せる。兵を連れて、街の攻略に戻れ」
男は動揺したように『英雄』を見た。
顔を引きつらせ、あえぐように言う。
「決闘なんて馬鹿な真似、やめてくださいよ。そんな、自身の命を危険にさらすようなこと、貴方がするわけありませんよね?」
「私がここで死ぬものか! きみらが周りにいる方が迷惑だと言っているんだ! 邪魔なんだよ! 簡単に死ぬくせに、私の心配なんかするな!」
言われた本人でなくとも、面食らうほどの剣幕だった。
『英雄』は光のない暗い目を、私が作ってきた死屍累々に向けていた。瞳に、ただ鏡のように光景を映している。
彼もまた、じりじりとした焦燥に駆られているようだった。
仲間の死を嘆き、怒るのなら、私を睨むべきだ。不甲斐ない兵士を叱咤するならば、もっと鼓舞するような言葉をかけてやるべきだ。
そのどちらもせず、彼の苛立ちは虚空に向けられている。
私達を含め、周りが呆気に取られていることに気付き、『英雄』は声色を改める。
「私以外に、だれがこれを討つことができる? 援護は無用だ。そもそも意味がないことぐらい、これまでの惨状で分かるだろう。残っていられたら、余計な被害がでる」
「……分かりました。ダニエルさんと合流することにします」
男は軽く頭を下げ、辺りの兵士を引き連れ、その場から去っていく。去り際に、私達を鋭く睨んでいった彼は、心の底では全然納得していない様子だった。
余計な外野は消えた。今度こそちゃんと、『英雄』はレディと向き合う。
レディはその瞬間、ずっと詰めていた息を、吐息のように漏らした。
「カリム……?」
たったの三文字。
その名を愛でるように呼んだ彼女の声に、私は気が狂いそうになった。私はそんな、一文字一文字を確かめるように呼んでもらったことはない。
背の上で軽く体を浮かせる彼女の気持ちが、痛いほど伝わってきて、私は悟ってしまう。長年の彼女の想い人が、目の前にいるのだと。
彼女が知っているのは『カリム』という名の男であって、『英雄』ではないのだろうが。
訝しげに目を細めた『英雄』に、再会の喜びはなかった。
それでも、嬉しそうにはずむ彼女の声は続く。
「よかった……。生きているうちに、また、貴方に会えた」
「ま、た……」
対照的な、軋むような声に、レディの歓喜もしぼんでいく。細められた目は、ほとんど睨むようになっていた。
「おまえはだれだ?」
攻撃的な響きにショックを受けたのか、レディはしばし言葉を詰まらせた。
「私よ、リリィよ。分からないの?」
「何度、同じ手を使う気だ? 悪魔め……」
「ま、待ってよ。何を言っているの?」
「何度も何度も。もうたくさんだ……! 本物の彼女が生きているわけない!!」
張り裂けそうな叫びに、レディは絶句する。
これ以上交わす言葉はない。いや、一刻も早くレディを黙らせたい。と言わんばかりに『英雄』は馬を操り、斬りかかってくる。
レディは放心し、動く気配がなかったので、私がそれを避ける。剣筋そのものは大きく逸れたが、身をよぎった風圧に身震いする。
まったくの無防備でいたのだろう。私が体を動かし、首を振った瞬間、レディの体ががくんと揺れた。
慌てたのもつかの間、すぐに角を握る手に力が入り、彼女はキッとした声を出した。
「勝手に殺さないで。私はちゃんと、ここにいる!」
「黙れ! おまえ達の手は分かっているんだ! そうやって人の心を揺さぶって、弱みを突いて……人の思い出を穢すな!」
何があったか知らないが、『英雄』はレディを偽物と決めてかかっているようだ。
意思のなさそうな虚ろな目からは想像もできないほど、斬撃に怒りが込められている。つまり、彼が“本物”のレディには並々ならぬ想いを抱いているからこその、苛烈な攻撃。相思相愛。疑う余地なし。
なんと、なんと、私の出る幕がないではないか。当て馬にすらなれそうにない。
目から緑色の炎が吹き出そうだ。
言葉の応酬は、想いのぶつけ合い。刃のぶつけ合い。
レディが剣で『英雄』と渡り合うたび、どす黒い感情が溢れそうになる。二人のやり取りに、割って入りたくなる。
「私は貴方のことを嫌いになりたくない! やめてよ、こんなこと。私が生きてきた国を壊さないで! 思い出を壊さないで!」
「きみが単騎でここまで乗り込んできたのは、私を殺すためじゃないのか? 私を殺さなければ、我が軍を止めることはできないと思ったのだろう? なぜ、いまさら言葉を交わす必要があるんだ?」
「『英雄』が貴方だったからよ! 今なら、まだ——」
「分かり合える? まさか。あいにくと、魔族の言葉に傾ける耳は持っていない」
レディが絡めるように到達させようとした剣の切っ先を、『英雄』は籠手ではじく。脇に向けて振り上げられた剣を、レディは馬上で上半身をそらして避ける。
「私達はただ、平穏に暮らしたかっただけ。放っておいてくれれば、それでよかったのに」
「それでは、私達に真の平和は訪れない。そこに魔族がいると分かっている巣窟を、そのままにしておくなんて、愚かな選択はできない」
「さっきから魔族魔族って……貴方は、私の友人や恩人を、人だとも思っていないの!?」
「あれを人と思えと? 虫唾が走る。今頃、街では人間が盾にされているんじゃないか? 同族なら、こちらの攻撃も弱まるだろうという魂胆で」
「なんてことを! あの人達は、私達を——人間を、庇おうとしてくれたのに! 私が戦うのは、あの人達を守るためだわ!」
後のことなんて考えていない。今この時しか存在しない。そう主張するように、『英雄』は一つの攻撃に、全身全霊をかけていた。
それをいなしているのはレディだというのに、私にも伝わってくる衝撃に、ひるみそうになる。激しい打ち合いに、耳をそらしたくなる。
「そうか。私は、私を信じる人々のために、立ち止まるわけにはいかないんだ」
「……そう。残念よ、こんな再会になって。私は、私の守るべきもののために、貴方を殺す」
『英雄』は皮肉げに笑んだ。
「殺せるものなら、殺してみるがいい」
挑発のような発言だったが、その声には疲れがにじみ出ていて、覇気がない。
レディはそこに何か嗅ぎ取ったようだったが、口にはせず、積極的な攻撃へと転じた。本気で、殺す気で。
戦闘はますます熾烈になり、付き合わされている『英雄』の馬は目を剥き、鼻息を荒くした。言葉を喋らない獣に敬意はなく、『英雄』は道具を使うように手綱を引く。必死に乗り手の意思に応えようとする馬の姿に、場違いにも、憐憫の情を覚えた。
同時に、羨ましくもあった。
草食動物らしい優しそうな黒目と目が合う。私は中途半端だから、馬の気持ちなんぞ分からない。
草も食べるが、肉だって好んで食べる。だから、馬の面をしているくせに、牙が生えている。
背に乗せる人物は選り好みする。私が嫌だと言ったら絶対だ。
自分のことを馬だ馬だと自虐するように言ってきたが、私は馬の姿をした何かであって、決して馬ではない。
似た姿をした、言葉を喋らない者どもは、私に畏怖を抱くことはあれど、憧憬の目を向けてくることはない。
ほら、今だって。私の双眸に何を見たのか、相手の馬は怯えたように顔をそらす。一瞬、『英雄』の意図した動きとずれ、足取りが乱れた。
「消し炭になれ」
意識せず、剣呑な思いがこぼれ出る。
声に出して、初めて気が付く。そうか、私は『英雄』を炭にしたいのか。妙案だ。
思いを具現化するべく、詠唱を始める。持ち直した『英雄』が、私を睨む。突き出された剣は、私の首を狙っていた。
ぐいっと、角が後ろに引っ張られ、首が持ちあがる。私が詠唱を詰まらせる横から、レディが腕を伸ばし、『英雄』の攻撃を阻む。
直後、ガキン、と固い物が折れた音を聞く。
同時に、先ほどよりも強く、両角を彼女に引き寄せられて、私はたまらず立ち上がった。蹄が土くれをまき散らす。持ちあがった前足の下を、薙ぎ払うように『英雄』の剣が通っていく。
カン、カン、と二度、金属質の物が落ちる音がした。目を向けると、折れた剣の刃と柄がそれぞれ転がっていた。
『英雄』との激しい打ち合いで、レディの剣が折れたのだ。
両手で私の角をつかめたのは、そういうわけだった。
「ごめん、めーさん。こうするしか避けられそうになかったから」
「いいえ。私が迂闊でした」
『英雄』と距離を取るため走りながら、やり取りする。私がただの馬であれば、無用な気遣いだ。
後ろから追ってくる蹄の音がする。レディが息を整えたのを感じ取って、ぐっと足に力を込める。追われるのは性に合わない。体の向きを変えると、こちらからぶつかっていくように、全力疾走する。
『英雄』は面食らったようだ。武器を破壊したことで余裕が見えていた表情に、警戒の色が浮かぶ。
レディの手には武器がない。だが、“今”ないからといって、なんだというのだ。
相手の脇を駆け抜ける直前、降って湧いたように、レディの手に剣が現れる。ほんの一秒前には見えなかった剣の軌道に、『英雄』の対処が遅れる。しかし、致命傷には至らない。
頬に薄く、血が盛り上がる。三日もすれば治ってしまうような傷だ。
顔を歪めるような痛みでもないだろうに、『英雄』はなぜか、苦しそうにした。レディの使う空間魔法を目にして、挙動がぎこちなくなる。
「そこまで……」
と『英雄』は呟いた。
レディも相手の様子に気付いたようだったが、彼女はもう迷わなかった。斬って捨てると決めたら、そうする。それがたとえ、どんなに懐かしい記憶の中の相手だろうと。
騎馬の速度で襲いくる剣撃に、『英雄』も立ち止まったままではいられなくなる。並んで走ったかと思えば、衝突を繰り返し、一方が相手の背を追う。
私が魔法を詠唱する隙もなかった。走るだけで精一杯だ。
レディの剣は何度も折られた。
彼女は、私の爆炎によって吹き飛ばされた兵士達の遺品を召喚しているようだった。だから通常より多少、折れやすい状態にあったかもしれない。
だが、それにしても。『英雄』だって、似たようなもののはずなのに。剣は過酷な使い方をされ、ぼろぼろと欠けているというのに、今にも折れそうで、折れない。
『英雄』自身も、放っておけば馬から落ちそうなぐらいの危うさがあるのに、あと一歩のところで、踏みとどまっている。
使い物にならなくなった柄は、『英雄』に向けて投げ、幾ばくかの時間稼ぎに使う。レディは空間から新たな剣を取り出すたび、魔力を消耗し、呼吸をするのも苦しそうになっていく。
互いに、命を削るような攻撃もいとわないものだから、肉ではなく、霊的なものが消し飛んでいるかのような幻覚を見る。どちらも、もう一撃でも交わせば、倒れてしまいそうだった。
だが、こちらは、もう二撃、できる。
私はただの乗り物ではない。障害物があれば、一面を焼け野原にしてでも走ってみせる、傍迷惑な暴れ者だ。
私が再び試みた詠唱に、『英雄』が億劫そうに動いた。
その時、遠くから歓声がとどろいた。『英雄』の意識が一瞬そちらに移り、レディにいたっては顔さえも完全にそちらへ向けてしまう。
デグラ侯国が、崩壊の時を迎えていた。
自分が育ち、暮らしてきた街が、崩れ去っていく。その光景に、ふらりと彼女の体が傾く。街と共に崩れ落ちるように、レディは私の背から滑り落ちた。
好機とばかりに、『英雄』が馬を駆る。私は練り上げた魔法を、『英雄』に叩き込むことを先決した。燃え盛る炎の弾は、弓から放たれた矢に似た速度で、彼を襲う。
だが、実際に火が直撃したのは、『英雄』の乗る馬の方だった。
火を怖がる臆病な生き物は、狂ったように立ち上がり、背に乗った人間を振り落とす。地面でうめく『英雄』を、蹴り殺しそうになりながら、火だるまになりつつある馬はどこかへと走り去っていった。
よろよろと立ち上がった『英雄』は、諦めずに剣を握っている。
私が彼に近付いて行こうとすると、レディの詠唱が聞こえてきた。それが、いつもと順序の違うものだと気付くのに、数秒を要した。
その意味まで考えが至った時、首を折りそうな勢いで、背後を振り返った。
彼女は申し訳なさそうに微笑んでいた。
「ごめんなさい。貴方を死なせたくないの」
詠唱を終えた口で、レディはそう言った。
周りの空間が歪む。引き寄せるためのものではなくて、突き放すためのもの。
逃れようと足を動かすが、水を掻くように空気が重い。なんとかレディに近付こうとするが、もがけばもがくほど、彼女の姿が遠のいていく。
ついには、目の前の彼女の姿さえも消えて、辺りの景色は一変する。
焼け焦げた匂いを嗅いできた鼻は、風が運ぶ緑の匂いに困惑する。さわさわと葉っぱ同士がこすれ合うさざめきに、耳は怒号と鉄の喧騒を探してあちこちに向きを変える。草木が育ちやすそうな柔らかな土壌に、遠慮した蹄が一つ浮いた。
森の中だ。今この時、別の場所で、紛争が起こっているなんて知りもせずに、小鳥が呑気に鳴いている。
私は、見知らぬ地に放り出され、途方に暮れた。




