2.旅芸人の生き様
翌日、レディは出かける前に私を呼び止め、真正面に立った。
今日の彼女はいかめしい格好をしていない。ルーシィが以前、試作品として作った深い紺色のワンピースを着ている。試作品のつもりだったが、予想外に出来が良かったのでレディが買い取ったのだ。
服装に関する私の感想を聞きたいのだろうと思った。だから、いつも以上にじっくり見た。
布のベルトが腰を絞り、女性らしいシルエットを作り出している。彼女には落ち着きすぎた色に思えるが、普段とは違ったレディを見ているようで、これはこれで良い。こんなふうに全身を見せびらかされては、かわいい、の一言も簡単に引き出されてしまう。
そのはずだったが、私という駄馬は、はにかむ彼女の笑みに見惚れて、感想を言うのを忘れていた。
そのうちに、レディはもう一歩近付いてきて、私の角になにかを素早く巻きつけた。首を傾げると、耳のそばでちゃらちゃらと細やかな音がした。
「これは私からの“勲章”。いつも私のそばにいてくれる功績に……なんて、偉そうなこと言えないけど。ありがとう」
今日は私の誕生日だったりしたか。
予想もしていなかった贈り物に、胸が跳ねる。そもそも私は、自分の生まれた日なんて覚えていないが。
まあ、それならそれで好都合だ。今日を誕生日ということにしてしまえばいい。
「あ、分かってない顔してるね。駄目だなあ、記念日とかは覚えておかないと」
「失礼ですが、レディ、今日は何を祝う日なのですか?」
「あー、うん。まあ、正確には今日じゃないんだけどね」
レディはばつの悪そうな顔をする。
「一週間……ぐらい前かな。私とめーさんが出会った日だったの」
「それは……、そんな大事な日を忘れていたとは。私としたことが」
と愕然としてみるが、実のところ、そんな日を祝ったことはこれまでに一度もない。なぜ今年に限って、とやはり疑問がわき上がる。
なにか縁起でもないことが起こる前触れだったりしないか、と嫌な考えをしてしまう。
「ちなみに、今年で何年目ですか?」
「九年目」
これまた微妙な数字だ。
「来年だったらキリが良かったのに、って思ってるんでしょ。いいよ、記念日だとかそんなのは、ただの口実。それを見た時、めーさんに似合うだろうなって、そう思ったの」
みなまで言わせてしまった。
レディはかすかに頬を染めている。レディが記念日だとか誤魔化して渡そうとしたのに、私の察しが悪いばっかりに、乙女の口にすべて説明させてしまった。
要は、私に贈り物がしたかっただけ。
なんでもない日にされた方が嬉しいことだった。
「というか、私が何を渡したのかも分かってないでしょ、めーさん。ほら、外で見てきてよ」
勲章と言われたが、角に巻きつける勲章なんて聞いたことがない。そんなものがあるのなら、これまでの勲章をすべて、それに変えてほしいぐらいだ。
……いや、せっかくルーシィが奮闘してくれているのに、それを台無しにするような真似はできないか。
レディに言われた通り、外に出て、家の裏手にある湖を覗き込む。洒落た角飾りをつけた自分が見返してきた。
緑青色の角に、金色の細い鎖が巻きついている。所々垂れた鎖の先には透き通った石が連なり、光を反射していた。
石の大きさや形はまばらで宝石のなりそこないみたいだったが、私の武骨な角にはそれぐらいがちょうど良い。いや、それこそが似合っている。レディが選んだものなのだから、間違いない。
水鏡の中の私の隣に、レディの不安げな顔が並ぶ。
「どうかな」
「ありがとうございます。これ以上の“勲章”は他にありません」
この鎖のように、私達が目に見える絆で結ばれていたなら、私はどれほど安心できただろうか。角飾りは、その一端であると考えても良いのだろうか。
水鏡から顔を上げて振り返ると、レディは晴れた顔をしていた。
「今日はそのまま出かけようよ。めーさんのおめかし姿、皆に見せよう」
「……集まった人は、私ではなく旅芸人を見ると思いますがね」
「いいから」
手綱があるわけでもないのに、彼女が歩き出すと私はそれについて行く。今日も、レディは私の背に乗らない。
昨日まで何もなかった広場に、簡易なステージが作られていた。馬車と同じ派手な色合いの垂れ幕がいくつも下げられ、現実と夢の境界となっている。道化師のメイクを施し、美丈夫をすっかり隠してしまったジョクラトルが、軽快な調子で呼び込みをしている。
「ああ、どうも。お二人さん」
私達に気付くと、道化師はお辞儀した。
レディが、彼に二人分の見物料を払う。それを見ながら、私は一人として扱われるのか、とぼんやり考えた。
道化師はそんな私の考えを見透かすように、描いた口角で笑った。
垂れ幕の向こうは、すでに見物客でいっぱいだった。昨日の子供達が、親にせがんで連れてきてもらったのだろう。子連れが多い。いや、逆か。子供達が大人を引っ張ってきたのだ。どちらにせよ、おかげさまで客足は上々らしい。
しばらくして、歌姫フィロメナの美声でショーは開幕した。
鼓膜を震わせる魔法の歌声は、たちまちのうちに観客を彼女の虜とする。歌詞に魅了の魔法の詠唱を含んでいるのは卑怯な気もするが、夢を見せるという謳い文句に偽りはないか。
もし、このショーを夫婦やカップルで観に来ている者がいたら、ご愁傷様だ。後でちょっとした修羅場になる。ここから見える範囲だけでも、大人の男はだいたい鼻の下を伸ばしているから。
私は邪念なく、冷静に、フィロメナの歌を評価できている。間違いなく。……この自信を保つために、ちらちらレディを見る必要があったが。
「すっごくきれいな歌声だね」
「彼女がセイレーンであるという点を考慮しても、非常に芸術性が高いですね」
感嘆が思わず漏れた、といった様子のレディに、私は頷きを返す。
術者が女であるから、女性は魅了魔法にかかっていない。だから、女達はただ純粋に、フィロメナの歌に聞き入っていた。
一曲歌い終わる頃、舞姫のイェッタが入れ替わるようにして登場した。主役の座こそイェッタに譲ったものの、フィロメナも姿を消すわけではなかった。ステージの脇で歌い続けている。
一息ついて続けた二曲目は、イェッタを引き立てることに徹していた。
イェッタはその音楽に合わせて、舞い始める。
昨日見せたのは、ほんの序盤ですらなかった。軽くステップを踏んだのち、イェッタは両翼を羽ばたかせた。彼女の踊りは、空中で行われるものだ。設置された空中ブランコ、綱渡り用のロープも駆使する大胆な舞いは、曲芸のようでもあった。
フィロメナの息継ぎに合わせて羽ばたき、彼女の歌声の邪魔をしないようにしている。昨日のいがみ合いが嘘のように、息がぴったりと合っていた。
最初は一人で扇情的に踊っていたが、三曲目に入ると、ジョクラトルがイェッタの相手役となる。そうすると、ますます曲芸じみてくる。
玉乗り逆立ちは当たり前のこと、宙返りだってなんなくこなす。ジョクラトルの蹄がステージに触れるたび、軽快な音が鳴る。それは、一風変わったタップダンスのように聞こえた。
終盤は、畳みかけるように奇術まで取り入れられた。あっちで姿が消えたかと思ったら、こっちに現れる。色のついた煙玉まで使って視覚効果も充分だ。
彼らの演出が手品だろうと本物の魔法だろうと、観客にとっては同じこと。魅せ方さえ考えられていれば、どちらであっても手を叩く。
地面から吹き出した炎が鳥の形を取り、イェッタと共に演舞する。
観客の中にも、魔法で炎を出せる者は何人もいる。だがこの中に、魔法の芸術性をここまで極めた者はいない。だから、自身も魔法を使えるくせに、まるで魔法みたいだ! と、ちょっとアホっぽい称賛をする。
料理をするのにちょうど良い火加減。人を焼き殺すのに充分な火力。人はそういうものしか追求してこなかった。人だけではない、私だってそうだ。私は、あたり一面が焦土と化すような魔法を使える。逆に言えば、それしかできない。
魔法を披露したところで、地獄しか見せられない。夢は見せられない。
心を奪われるとは、このことか。これまで、旅芸人を斜に構えた見方をしてきたが、認識を改める必要がありそうだ。
ジョクラトルが、刃に炎が乗った三本の剣でジャグリングをしている。剣も炎も、人をいとも簡単に傷付ける代物だ。それを、彼の器用な手先はからかうようにもてあそんでいた。
三本の剣が天高くに放り投げられる。三本とも、落ちてくる頃には花束に姿を変えていた。フィロメナ、イェッタ、ジョクラトルがそれぞれ一つずつ花束を胸に抱えたところで、ショーは閉幕となった。
観客総出の割れんばかりの拍手が起こる。三人は笑顔を浮かべ、大げさなお辞儀を披露した。
拍手の群れに参加できないのが悔やまれる。私の分は、レディにお願いしておいた。
帰りがけ、レディが旅芸人の馬車を訪ねるというので、私もついて行く。
旅芸人への印象が変わり、彼らを酒盛りに誘いたいぐらいの気分になっていた。もちろん、こちらの奢りで。葡萄酒を水のように飲むサテュロスがいても、私流の称賛だと思えば安いものだ。
馬車の周りは、小さな垂れ幕に囲まれた私的な空間となっていた。中でごそごそと作業をしているらしい物音がする。
レディが遠慮がちに垂れ幕をめくる。私も首を伸ばして中を覗く。舞台裏らしく、ショーで使うための道具や衣装が、あまり整理されずに置かれていた。
せかせかと動き回る鳥足の人影が、それらを片付けている。
「フィロメナ?」
レディが呼びかけると、フィロメナは肩を跳ねさせ、持っていた箱を取り落とした。わあわあ言いながらフィロメナは膝をつき、ぶちまけた中身を回収しようとする。
レディは慌てて中に入り、彼女の手伝いに向かう。
私はレディに置いていかれ、入りそびれた。
「あれ、昨日の?」
「——!」
中から聞こえるはずの声が、後ろから聞こえ、私は先ほどのフィロメナのように身を跳ねさせた。体を反転させ声の主を確認したら、ますます混乱した。
フィロメナがいる。
反射的に首を低くし、角を突き出す威嚇のポーズをやってしまう。フィロメナは呆気にとられた顔をしていた。
奇術の続きを見ている気分だ。
「どうなさったの?」
「貴女は、今、この中にいたはずでは……」
「あっ。そういうこと」
要領の得ない説明で、私の醜態の理由を解したらしいフィロメナは、頷く。
そんなやり取りをしているうちに、イェッタとジョクラトルも戻ってきた。
「おや、出待ちですか、めーさん」
「貴方、その呼び方……」
「リリィさんにそのように紹介されました」
にこ、とジョクラトルが笑う。それから、きょろきょろと辺りに目を向ける。
「リリィさんは一緒じゃないんですか?」
「彼女は中に」
もう一人のフィロメナと一緒にいる。
思い出したとたん、焦りも戻ってくる。ここにいるのが本物のフィロメナなら、レディが声をかけたのは、いったい誰だ。
フィロメナはくすくす笑いながら、垂れ幕を持ち上げる。
「驚かせてしまったみたいよ」
中に入っていくフィロメナに続いて、私はジョクラトルとイェッタと共に垂れ幕をくぐった。
中にいた二人は、散らばった道具を箱に詰め直したところだった。レディは外から入ってきたフィロメナを見上げ、不思議そうな声を上げる。
「フィロメナが二人いる!」
「この様子だと、驚かせたのはお互い様、かしら?」
膝をついたままのもう一人のフィロメナは、きょどきょどと目を泳がせていた。こうして冷静になって見ると、挙動が自信に満ちあふれたフィロメナとかけ離れている。
レディは首を傾げる。
「双子?」
「ち、違います」
答えたのは、暫定偽物の方のフィロメナだった。
喋り方はともかくとして、声は寸分も違わない。私は自分の耳が信じられなくなり、落ち着きなく、両耳をくるくる回した。それで聞こえが変わるわけではない。
彼女が立ち上がると、彼女の背中のあたりの空気が歪んだ。そして、その空間に、コウモリのような飛膜の大きな翼が現れた。さらに、内股になった足の間にはさまれた、先の尖った細い尻尾まで見えるようになる。
奇妙な翼と尻尾を生やしたフィロメナは言う。
「わ、わたし、サキュバスです」
うつむき加減の姿勢と、か細い声。どれだけ姿がフィロメナに似ていようと、もう彼女には見えなかった。
「サキュバス?」
私が不審げな声を出すと、そのサキュバスは体をびくりと震わせた。ついでに顔を隠すように、前髪が鼻先のあたりまで一気に伸びる。こうなると、もはや完全にフィロメナではない。ただの怪しさ満点の女だ。
「こ、こんな姿をしていたのも、あ、悪意が、あったわけではないんです。堂々と歌われているフィロメナさんを見ていたら、わ、わたし、憧れちゃって……。自分でも無意識のうちに、す、姿が変わっていることがあって——」
気弱そうな性格も、どもりも、私はすんなり信じることができなかった。
だってサキュバスといえば、旅芸人も顔負けの、生まれながらの役者ではないか。これを演技ではないと断ずるには、私の淫魔についての知識がなさすぎる。知らないものは警戒して当然だ。この国にいても、その性は治らない。
サキュバスは助けを求めるように、一座の者に顔を向けた。視線は前髪によって遮断されていたが、その必死さが伝わったのだろう。
ジョクラトルが苦笑して助け船を出した。
「彼女はうちの一座の正式なメンバーだ。奇術師のロベリア。極度の恥ずかしがり屋なもんで、舞台こそ上がらないが裏で色々と演出してくれている。彼女も、ボクらと同じく、人の目を楽しませるのが好きなんだ」
「……あ! 終盤の奇術は、彼女がやっていたんだね!」
レディが感心したようにロベリアを見る。
ロベリアは頷きと呼ぶには深すぎるほど頭を下げた。
「私はてっきり、フィロメナ様が魔法の詠唱を歌われているものと、思っていました」
「あたくしは彼女のように華のある魔法は使えませんわ」
私の言葉に、フィロメナは笑みを浮かべて首を振る。
イェッタはロベリアに歩み寄り、肘で小突くように翼で彼女の腹を撫でた。上目遣いが恨めしそうに不満を訴えている。
「なんで今日はアタシじゃないの?」
「い、イェッタさんのす、姿にも、なっていましたよぉ」
「で、最終的にフィロメナの姿になっているのは、総合すると今日はフィロメナの方が出来が良かったなあ、っていうキミの感想?」
「ち、違いますっ。お二人とも、わたしなんかが評価するのもおこがましいぐらい、完璧でした! だ、だから、どっちが優れてるとか劣ってるとか、そんな……そんな醜い争い、しないでください……!」
言ってしまった後で、ロベリアは失言を恥じるように両手で口をふさいだ。
彼女を見ていると、まるで小動物の観察でもしている気分になる。必要以上におどおどしているのも、演技ではない気がしてきた。
フィロメナとイェッタは顔を見合わせて気まずそうにした後、ロベリアをなだめた。
「あたくし達のこれは、じゃれあいみたいなものだから、真剣に悩む必要はないのよ」
「そうそう。女の友情は、愚直な男どもとは違うんだよ」
「わ、わたしにとっては、お二人とも、あ、憧れの人なんです。わ、わたしなんかが、この一座にい、いてもいいのかって思うぐらい。フィロメナさんはお綺麗だし、イェッタさんは可愛いし、座長もお美しいし」
「いや、ボクは……」
「座長はお美しいんです! あのデルフィニウムさんがそう言っていたぐらいだから、誰の目から見ても美人なんです! ……と、とにかく、わたし、自分が、こ、この一座の汚点なんじゃないかって。や、やっぱり、サキュバスなんかが思い上がっちゃだめだったんですよ……!」
わっ、とロベリアは顔全体を手で覆ってしまう。前髪があちこちに跳ねて、邪魔そうだ。
サキュバスとデルフィニウムなる人に美人だと太鼓判を押されたジョクラトルは、居心地が悪そうにしている。
彼はフィロメナに、拭くものある? と尋ねて、くたびれたタオルを手渡されていた。そして、道化師の滑稽なメイクを落とすのに、しばらく時間をかけていた。
「ロベリアは一番新米なんです。ボクらの興行を見て、旅芸人に憧れたらしくて、自分を売り込みに来たっていうのに、なんだろうね。この自己評価の低さは」
さっぱりとした顔に戻ったジョクラトルは、困ったように眉尻を下げる。
「正直、彼女がいなければ、ボクらはこの国に辿り着くことさえできなかったかもしれない。どこもかしこもピリピリしていてね。人攫いやら、盗賊やら、時には正規の軍人にも襲われたよ」
「そんなに、外の情勢は悪いのですか?」
旅芸人がそうも頻繁に襲われるという話は、にわかには信じがたかった。特に、軍人に襲撃されたという話は。
軍隊なんて、兵士の慰安として旅芸人を雇い入れる立場ではないか。通常なら。
ジョクラトルは顔をくもらせた。
「治安は最悪だね。同族以外は身ぐるみ剥いで、命まで奪い取るのが当たり前、なんて有り様だ。おかしいね。ボクらは一応、中立を表明している人種なのだけど」
「だからこそ、という面もあるのでしょう。金を握らせたら、間者の真似事だってする。そう思われてるのですわ」
フィロメナが冷めた面持ちで肩をすくめる。
旅芸人なら、大抵の国境を越えることができる。少なくとも、これまではそうだった。
なるほど、そう考えると、旅芸人ほど密偵におあつらえ向きな人種は他にいまい。
貴族に雇われ、屋敷に入る機会もある。街角にふらりといても怪しまれない。なにより、大抵の者は彼らを見下している。話を聞かれたところで、犬猫がたまたまそばにいた程度にしか思わない。身分が高ければ高いほど、それは顕著になる。
使う側にとっても同じことだ。いつでも捨てられる駒として、彼らは魅力的だ。旅芸人の命は、なぜだか、一般的な人の命よりも軽いと思われている。
実際に彼らを密偵として使う者がいたかどうかは定かでないが、そうした事情から、これまで見逃されてきた人種も、流動が許されなくなってきたのだろう。
「ロベリアが襲撃者の目を欺いたり、追っ手を撒くのに一役買ってくれてね……いや、大活躍してくれたよ。ボクらは何度も命拾いした」
「そ、そんな、わたしは——」
「おかげで、ボクらも襲撃者の命を奪わずに済んだ」
「わ、わたしは、血を見るのが嫌なだけです。自分が気絶してしまいます」
そろそろと顔から手を下ろしたロベリアは、想像だけで真っ青になっている。
「血を見たくないんです。い、痛そうなのも嫌です。旅芸人になって、ひ、人に夢を見せられるようになったら、そ、そういう光景もなくせるんじゃないかって。……賭けにも勝てるんじゃないかって。そ、そう思ったんです」
不器用そうに、ロベリアは口元に笑みを作った。
「目を醒まさせることができないのなら、まどろみの中で一生を終わらせた方が、平穏を作れるんじゃないですか?」
なぜだろう、サキュバスとしての片鱗を見た気になるのは。
私の浅学ゆえの偏見だろうか。彼女の願いが切実であることは伝わってくるのだが。
ロベリアは続ける。
「この国はわたしの理想です。いろんな人種の観客がいて、皆が同じ舞台を見ているなんて。こ、こんな光景が、大陸中に広がるといいなって、そう思ってます」
ロベリアははにかみながら、さっきより自然な笑みを浮かべた。
祈るように組まれていた彼女の手を、レディが突如、上から包み込むようにつかんだ。ロベリアの翼が一瞬、飛びのくように広がった。
レディは彼女の言葉に感激していた。
「最近、この国に来る人が増えているの! 貴女みたいに思う人が、ほかにもいるんだよ!」
「そ、そうでしょうか」
「うん。一緒にこの光景を世界に広めよう! いっそ、私も旅芸人になろうかな」
やり取りを聞きながら、ジョクラトルとフィロメナが顔を見合わせる。二人は一瞬不安げな視線を交差させた後、すぐに作り慣れた笑顔となった。
「リリィさんは何か芸ができるのですか?」
「“手品”ぐらいだったら、私にもできるよ」
ジョクラトルの問いかけに、レディの瞳が悪戯っぽく輝く。魔法の詠唱を囁く声ははずんでいる。
レディが包み込んだままだったロベリアの手を離すと、緊張しきった彼女の手には一輪の花が握られていた。ロベリアは目を丸め、鮮やかなピンク色の花びらを見つめる。
影も形もなかった花が、まさしく手品のように、出現していた。
結果を披露するように、レディは両腕を広げた。
「じゃじゃーん、どう? 通用するかな?」
「え、あ、えぇ? ど、どうやったんですか? 全然、感覚がなかった……気が付いたら、花を持っていました」
花びらを触って、鼻に近付けて匂いを嗅いで、ロベリアは本物かどうか確かめている。
一座の奇術師が首をひねる様子を、レディは誇らしげに眺めていた。
「私、空間魔法が使えるんだ。物体を別の場所から場所へ、瞬間移動させることができるの」
「へえ、そいつは珍しい魔法が使えるものだね。すぐにでも手品師になれるじゃないか」
「わ、わたしは、幻術で人の目を誤魔化しているだけなのに……。あ、あわわ、じ、自分からネタばらしをしてしまいました!」
ロベリアが慌てふためくのを、一座の者は笑って見守る。
レディは調子に乗って、周囲に様々なものを降らせていた。丘に咲いている、甘い蜜の吸えるお気に入りの花——ロベリアに握らせたのと同じものだ。色とりどりの包み紙にくるまれた飴玉。それから、小鳥の形を模した砂糖菓子。
子供の夢のような光景が、目の前で展開される。だが、ここは現実だから。そろそろ止めにしないと蟻が行列をなし、旅芸人達に迷惑をかけることになる。
それに、丘の花をすべてむしってしまうわけにもいかない。
空間魔法は、術者が転移させる物の場所を把握しておく必要がある。ステーキが食べたいなあ、とだけ思って魔法を唱えても、どこかの貴族の屋敷から直送されてくる、なんてことは起こらない。夕食の時間と献立を知っている知り合いの貴族がいるなら別だが、それなら晩餐にお呼ばれする方がリスクが少ないと思う。
レディが出現させた菓子類は、すべて自宅にあったものだ。悪い心を持つ者なら、この魔法を窃盗に使うのかもしれない。だが、世界の摂理というやつは、案外そのあたりには厳しい。そういう人には、こういった能力を与えない。
「レディ、お腹を空かせていますね」
「あ、ばれた?」
ばれるも何も、こうもあからさまに甘い物ばかり出されたら、よほどの鈍感でない限り察するだろう。つまり、シャイヤあたりは怪しいということだ。
「少し早い時間ですが、夕食に行きましょうか。どうです、皆さん? ご一緒に。私が奢りますよ」
私が言うと、旅芸人達は調子の良いおだてを口々に、ぜひと答えた。
*****
日が暮れると食堂は酒場と化す。一日の仕事を終えた人々が、仲間と連れ立って息をつきに来る。
夕食は大分前に食べ終えて、私はジョクラトルと共にカウンター席で酒を舐めていた。杯に注がれた葡萄酒を片手にしてから三時間、ジョクラトルの顔色は変わらない。
椅子に座らない私は、彼の隣で立ったまま、大鉢の底を眺める。五分前までは、これに酒が満たされていた。追加の酒を注文するかしないか。ふわっとし始めた頭で考える。酒の失敗談を増やすかどうかの瀬戸際だ。
うん、やめた。これ以上呑むと自力で帰れなくなる。酔った暴れ馬を御するのは、たとえレディでも難しい。
というか、彼女にそんな迷惑を二度とかけるわけにはいかない。
レディは、イェッタやロベリアと一緒にテーブル席にいる。フィロメナは酔っ払い達にせがまれ、歌を披露していた。一曲ごとに酒を奢らせながら。
食堂までついてきたものの、ロベリアは物を食べることができないとかで、代わりに、レディが大量に出現させた花に口付けていた。なんでも、花の生気を吸うことが食事になるのだそうだ。
人の生気は今は食べていません、らしい。今は、と言うあたり、正直ではある。聞いた時、背筋が寒くなった。
そんなロベリアは、酒の匂いだけで酔っ払ってしまったらしく、テーブルに突っ伏している。
「今さら言うのもなんですが、貴方は成人しているのですよね?」
蹄足をぷらぷらさせながら、所在なげにしているジョクラトルに問いかける。というのも、彼の顎は一ミリだって毛が生えていないほど、きれいだからだ。
私の視線に気付いたジョクラトルは、にやりと笑って、顎をさすった。
「未成年に酒を飲ませたかもしれない、って不安になった?」
「いえ、遠回しな聞き方をしてしまいました。貴方が未成年であると疑っているわけではありません。どう見てもおっさんですので、そこはご安心ください」
それに、サテュロスは子供の頃から水代わりに葡萄酒を飲むような人種だ。
ジョクラトルが渋い顔を作る。
「最初は馬鹿丁寧なバイコーンだなって思ったけど、今は慇懃無礼だなコイツって思ってるよ」
「無礼な者が無礼な言葉遣いをしていたら、そこらのチンピラになってしまいますのでね。……なぜ、顎髭を生やさないのです?」
成人したサテュロスの男は、その証として顎髭を生やす。大人の男が髭を生やさないのは、サテュロス達の間では恥ずかしいこととされていた。
ジョクラトルは左耳のピアスを引っ張りながら、答えた。
「そうだね……、世間からの逸脱を示すためかな。普通じゃないって一目で分かるように。ボクのような者はアナタ達のお仲間じゃありませんよ、っていう安心を与えてやってるのさ」
「安心?」
「そう。ボクが獣人だったら全身を丸刈りにしたし、有翼人だったら髪を刈り上げたろうよ」
「有翼人だったら羽根をむしる、ではないのですね」
「そんなことしたら、飛べなくなっちゃうじゃないか。生きるうえでなんの支障もないのに、欠けていると何故か馬鹿にされる。そういう部位で笑われるために、ボクはこうしている。ほら、ボク、これでも道化師だから」
旅芸人としての生き様ということか。
だが、髭のないこざっぱりとした顔は若々しく、同族受けはともかく、その他には逆に好かれそうな雰囲気もする。そういった皮肉めいたものを含めて、道化の有り様なのかもしれない。
「サテュロスであってサテュロスじゃないんだ、ボクは」
「そう言うわりには、葡萄酒はお好きなようですね」
すました顔で杯に口を付けていた彼は、相好を崩す。
「ああ、こればっかりは! サテュロスの血は葡萄酒でできている! これを絶ったら生きていけない!」
酒飲みのサテュロスがよく使う方便だ。
ふと、こちらに目を向けたジョクラトルは首を傾げる。それから、おもむろに右隣の席から立ち上がると、左隣の空いた席に回ってきた。足取りはしっかりしていて、酔った素振りは少しもない。
「いや、失敬失敬。あまりに自然で気付かなかったものだから、気が利かなかった」
「なんのことです?」
「アナタ、右目が見えていないでしょう。洒落た髪型をしているなあ、馬もおしゃれをする時代かあ、と深く考えなかったもので」
私の左目を覗き込んで、ジョクラトルはにやにや笑う。
「気遣いなら、さっきまでの方ができてましたよ。しっかり見てしまうと、頭突きしたくなる顔をしていらっしゃる、貴方は」
「ははっ」
ジョクラトルは気分を害した様子もなく、肩をすくめ、カウンターに向き直る。
酒の力は偉大だ。ほんの数時間で、ここまで打ち解けたのだから。
後方では、女性陣の盛り上がる声がする。軽やかな笑い声に反応するように、ジョクラトルの尻尾が揺れていた。
「これまで、笑われると同時に、ボクの方からも世界を笑い飛ばしてきた。皮肉って、真正面から馬鹿にしてやった。たかが縄張り争いの喧嘩に巻き込まれたぐらいで、絶望なんかしてやらないって。……でも、いざ激戦となると、ボクらはやはり逃げることしかできない。自身のちっぽけさを突きつけられた気分だ」
ジョクラトルは暗い目を杯に落とす。中身が空っぽになったことを悲しんでいるわけではない、と思う。
「あのベスティニア皇国が人間に攻め滅ぼされる日が来るとは、世の中、分からないものだ」
「ベスティニア皇国が滅んだ……?」
私の驚いた様子に、ジョクラトルは驚いたようだった。
「いや、まだ滅んじゃいない。けど、時間の問題だね。『英雄』は皇都攻略の真っ最中だから」
「その『英雄』というのは、誰のことです?」
ジョクラトルの目が丸くなる。
「人間の『英雄』も、この国では無名か」
「あいにくと、外の情勢には疎いんですよ」
「ふむ……。自分達に関係がないと思ったら、そんなものか」
振り子のように揺れていた尻尾が、ぴたりと止まる。
「終わりの見えない戦乱の世。我こそは、と名乗りを上げる猛者共と、消えゆく幾千万の塵芥。混沌の舞台に降り立つは、人間達の希望の星。人喰いから生贄を救い出し、悪魔退治をもやってのけた。奴隷は鎖から放たれ、内なる刃を研ぎ始めた。彼らは叫ぶ。彼こそが『英雄』! 星ゆえに、遠目には輝かしい。星だからこそ、触れるほどに近付けば燃え死ぬばかり——」
まるで、役者の紹介でもするようだった。
ジョクラトルの通りの良い声を、ぴんと張った耳で受け止める。この前口上から演劇が始まるのなら、演目は『英雄』が主人公の快進撃に違いない。知らぬ間に、外の情勢は目まぐるしく変わっているらしい。
ジョクラトルは目を伏せ、空っぽの杯に息をこぼす。
「ここは良い場所だ。人によっては、都合が良い場所だ。この国に人が増えることを、喜んでばかりもいられないかもしれないね」
来る者拒まずの姿勢を貫いてきた小さな国は今、急激に人口を増やしている。
戦火に焼かれた諸国から、逃げ出した人々が流入してきているのだ。ただの亡命者ならいい。デグラ侯国の人達は優しいから、彼らの痛みに寄り添い、お人好しらしく手を差し伸べるだろう。
戦乱の世に、荒野に咲く花の如き美談だ。すばらしい。
そう手放しに称賛したい。だが現実は。隠しきれない不穏な空気が、どうしようもなく漂っている。
落ち延びてきた者の大半は、戦意の失せていないギラギラとした目をしている。伸ばされた手を、あろうことか品定めするように見た後、しっかりと握り込む。利用してやろう、という魂胆を隠そうともしない。
私はそれが、泥に沈むためのおもりに思えてならない。
もしも、『英雄』とやらが残党狩りにでも乗り出したら、どうなるか。この国も、無関係ではいられなくなる。
かの刃が、こちらへ向けられる日が来るかもしれない。




