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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【6章 蠱惑の導きは傲慢の果てに】
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5.月無き牢では保てない

 よくよく考えれば、『英雄』がもうすぐ死ぬというのなら、これほど好都合なことはないのではないか。サキュバスの誘惑にかからない不能者(それさえ、たちまち元気にしてみせてこそのサキュバスなのだけど。『英雄』はこんなところでも規格外ぶりを見せつけてくれた。……本当に困る!)が、これから先ずっと、戦乱の覇者として君臨するなんて未来はないわけだから。

 あたしの術が効かなかった時は焦ったし、それはもう悔しかったが、日を置いて思考を整理すると、そういうことになる。なにも、今無理をして『英雄』を攻略する必要はなかった。

 時を待てば、『英雄』は自然と脱落する。

 後を継ぐのが誰であろうと、『英雄』以上の逸材ということはないだろう。なんの取り柄もない人間が、お飾りの冠を被るなら、リベンジをはかれる。



 *****



 そして月日は流れ、その時が訪れた。

 『英雄』が消息不明になった、と人間達は騒いでいた。ちょうど一年ほど前、デグラ侯国での戦闘を最後に、忽然と姿を消したらしい。当然のように勝利をもたらした後、もうやるべきことはやり終えたから、と言わんばかりに。

 誰も死ぬところを見ていない。死体も見つかっていない。だから、人間どもは『英雄』が今もどこかで生きていると信じている。

 まるで、死期を悟った猫のよう。己の弱った姿を見せまいと、健気にも自分から姿を隠したのだろう。

 あたしは、彼がすでにこの世にいないことを確信していた。『英雄』が生きる気力に乏しかったのは、すでに自分の死を予見していたからだ。あらがうわけでもなく、かといって絶望するわけでもなく。ただ、漠然と見据えていた。

 その構え方が、あたしがこれまでに味わったことのない生気を作り出したわけだ。

 あまりにも神秘的に行方をくらますものだから、人間のあいだで『英雄』はもはや神様だ。天が遣わしてくれたお方だから、人間が窮地に陥れば、再び姿を現して助けてくれるのだとか。

 たとえ生きていようと、神格化からは逃れようもなかっただろうけど。

 配下にいた人間達は『カリム聖教』なんてものを発足させて、『英雄』を崇め奉りながら、その御身を捜索している。

 彼らの教義や活動理念などはどうでもいい。重要なのは、この新興宗教勢力が、実質的に治世を行っているという点だ。つまり、『カリム聖教』の教皇こそが、堕落させて懐柔すべき相手ってこと。

 それについて、あたしはちょいと不満があった。


「教皇様が女だなんて。あたしの屈辱は、いったいどこで晴らせばいいんだい?」

「トップが女でも、周りで支えている連中には男もいるだろ」


 旦那にとっちゃ腕の見せどころなもんで、気分が高揚していると見える。あたしの抱える欲求不満なんぞ、どうでもよさげだ。

 まだ昼間にもかかわらず、あたし達はバルコニーに集っていた。あたしと旦那はこれから、教皇がおわすという『カリム聖教国』に旅立つところだった。ヒヨスちゃんはお留守番ということで、お見送りに来ている。

 それにしても、ひどい国名だ。当の『英雄』も困惑しそうなラブコール。関係のないあたしも胸焼けを起こしそう。大好きを隠そうともしないんだから。

 もっとも、国という名称ではあるが、そこには宗教団体の本拠地があるだけ。せいぜい、大きめの都市といった程度の規模。世界を牛耳るのに、領地の広さは関係ないというわけだ。支配者に必要なのは影響力、それが人間の出した答え。こいつはなかなか良い。あたし達に近い考え方だ。


 では、その他大勢の人間がどうなったかというと。

 こちらは、同じ頃に建国された『エグリージュ神聖王国』(もともとの土地の名に“神聖”を付けただけの、まだまともな国名だ)が受け皿となっていた。『英雄』の側近の一人だった男が国王となり、父を宰相として招き、国を治めているらしい。

 神聖王国の名が語る通り、国王は『カリム聖教』の一員だ。領地こそ『カリム聖教国』より大きいが、世の支配者ではない。教皇の次くらいには、誘惑してもいい相手かもしれないけど。

 かつてベスティニア皇国であった地域の、約半分。それが『エグリージュ神聖王国』の国土だった。

 残りの半分の地域には、人間の小国が乱立している。なんでも、海に面した東の地域には、『英雄』が介入する前に、自らの手で獣人を打ち倒したのだという矜持があるらしい。彼らは、落ち目のベスティニア皇国で反乱を成功させた元奴隷だった。つまるところ、独立意識が強い。

 早くも争いの芽が見えている気がする。さすがに、もうしばらくは人間同士で殺し合うこともないだろうけど。……安泰の時期をわざわざぶち壊そうとする、性格の悪い我が同胞が現れない限りは。

 なにより、同族のサキュバスやインキュバスが、一番の懸念だ。

 人々が争い、血を流し合うのを、笑って見ていられる連中よりも先に、教皇と接触しなければならない。平和の維持のために。あたし達の胃袋事情に関わる。


「つまり、旦那がやりやすいよう、あたしは周りの男を惑わせと」

「実にやりがいのある仕事だな」

「旦那は意地が悪いね」


 今回は、前のように寝室に忍び込んだりはしない。人間のふりをして、堂々と正門から入ってやるつもりだった。謁見というやつだ。なんだかんだいって、正式な手順を踏んで対面した方が、人は気が緩む。

 旦那は、屋敷に残ると言ったヒヨスちゃんを振り返り、最後の確認を取っている。


「本当にいいのか? 一緒に来たら、これまでにない面白いことを味わえるぜ」

「興味ない」


 いつも以上につっけんどんな態度に、旦那が眉をひそめる。

 ヒヨスちゃんはもう、前のようなサテュロスの姿をしていなかった。時代に合わせて、人間の女の姿をとるようになった。相変わらず売女のような格好をしているが、それでも、ちゃんと違和感なく人間に溶け込めるようになっている。

 ヒヨスちゃんは唇をとがらせた。


「世界を掌握するとか、どうでもいーし」

「ああ? お前だって、世の中が静かになることを望んでいたじゃねえか」

「もう静かになってんじゃん。戦乱は終わったんだ」

「その静かな時代が続くように、手綱を引いておくんだろうが。放っておいたら、人間はまたいつか争い始めるぜ。自発的にか、俺達みたいなのにそそのかされてかは知らんが」

「ふうん」


 何か言いかけて思い直したように、ヒヨスちゃんは気のない返事をした。

 それから、あたし達を追っ払うように手を振る。


「じゃあ、さっさと行けば」


 旦那はあたしと顔を見合わせ、肩をすくめた。

 二人そろって翼を出し、バルコニーから飛び立つ。しばらくの間、ヒヨスちゃんの見送りの視線を感じていた。




 教皇へのお目通りは、比較的簡単に実現した。許可が下りるまで数日かかることも覚悟していたから、これは嬉しい誤算だった。

 国の中枢にそびえる大聖堂は、建設中だというのにこちらを圧倒する存在感を放っていた。旦那とあたしは、その中へ案内される。

 旅装束をまとった男女の二人組は、どこからどう見ても、『英雄』(……と教皇)の威光に触れるため、はるばる遠地からやって来た人間でしかない。服属を申し入れるために『カリム聖教国』を訪ねる人間も多い。だからだろうが、国に入る時も特に怪しまれなかった。

 ちょっと無用心じゃないか、とも思う。教皇に付け入ろうとする悪い人が紛れていたら大変だ。教皇に助言ができるぐらいの良き友人になれたら、何かしらの対策を吹き込んであげなくては。獲物を横取りされるのは嫌いだから。

 前を歩いていた案内人が、謁見の間の扉を開く。その部屋は一足先に完成していた。一番必要とされたからだろう。旦那とあたしが中に入ると、案内人は背後で扉を閉め、自身は外で待機したようだった。

 清潔感のある大理石の白を前面に押し出した、実にシンプルな空間だ。どこぞの国のように、金ぴかまみれ、宝石まみれ、といったことのない目に優しい仕様。

 ひょっとしてお金の工面ができなかったんじゃないか、と邪推してみたりして。すぐに、その考えを振り払う。

 『英雄』の寝室を思い出せば、それがいかに馬鹿げた考えか分かるというもの。『英雄』からして、豪奢なものをそばに置いていなかった(むしろ、放り出していたと推測できる)のだから、『カリム聖教』の連中はその姿勢を受け継いでいて当然だ。

 一段高い位置にある玉座だけが、部屋の中で唯一色を持っていた。これだけは、過去の数多の王達が座してきたものと変わりない。ありきたりな金の足。赤の絹張り。

 そして、そこに居るのが、『英雄』を失くした人間達を導く女教皇ヴァージニア。

 光沢のある乳白色を基調とした、絹で作られた法衣をまとっている。それが、意外と様になっていた。もとはどこかの田舎娘だろうに。本人は着慣れた様子で、ぞろりと長い布をさばいた。

 教皇は愁いを帯びた表情で、膝をついたあたし達を見下ろした。


「そなたら、『英雄』らしき男を見たと言ったそうだな」


 旦那が謁見のために、そういう方便を使ったのだ。ここの連中なら必ず食いつくと言って。

 教皇の立ち振る舞いや顔の表情は、もう何年もそれを使いこなしてきたかのような威厳があった。けどさすがに、口調まではそういかなかった。使い始めたばかり、といった厳格な言葉遣いが微笑ましい。

 ただ、そんなぎこちない口調でも、不信感をありありと抱いているのが伝わってくる。フードを被ったまま顔を伏せるあたし達を怪しむのは、ごく当然の反応だ。


「……はい。わたくしの見間違いということもありえますが……」

「いや、今はどんな情報であろうとありがたい。聞かせてみよ」

「あれは、わたくし共が郷を出て間もない頃でした——」


 旦那が淀みなく、嘘とも本当ともつかない、絶妙な筋道の話を組み立てていく。話している間に、旦那は教皇ヴァージニアの心を覗いているに違いなかった。女教皇が好く相手を暴いて、自分がそれに成り代わるために。

 あたしは、部屋にもう一人いる人間——おそらく教皇の護衛だと思うが、そちらに意識を向けた。この中で唯一、帯剣している男。あたしは、こいつを誘惑する準備をしておいて、いざという時のために備える。

 旦那とあたしと、教皇と護衛。たったの四人。今この部屋にいるのは、それだけだった。

 どこまで無用心なんだ、と思うと同時に、胸の奥で警鐘が鳴る。気付いてしまえば無視のできない、とてつもない違和感。広い部屋に、旦那の声だけが空しく響いていた。

 そのうちに、旦那は伏せた顔で笑みを浮かべた。教皇ヴァージニアの愛しい人を捉えたらしい。


「随分と遠回りをしてしまいましたが、その人が今、どこにいるかお教えしましょう」

「ふむ? 正確な居場所まで知っているとな?」

「ええ、ここに」


 旦那がフードを外すと、想像した通りの似姿が現れる。誰もが予想できる、あくびが出そうな解答。仮に賭けの対象にしていたら、賭けが成立していないぐらいの。

 教皇ヴァージニアをまっすぐ見据える旦那の顔は、前に見た『英雄』そのものだった。答えた声も、特徴的な抑揚のない喋りに変わっている。

 ヴァージニアは目を見開いて、自らが作り出した幻覚である『英雄』を、穴が空くほど熱心に見つめた。わきに控えていた男も、旦那がフードを取った瞬間に身じろぎした。

 “感動の再会”に、あたしだけが場違いだった。仕方ないから、顔を伏せたままやり過ごすことに決める。

 場を支配する沈黙を破ったのは、教皇だった。


「……話には聞いていたが、実際に目の当たりにすると驚くな」


 思っていた第一声とは違った。隣から旦那の動揺が伝わってくる。けど、あたしは顔を上げることができなかった。自分で決めたことは最後までやり通す信念があるから——んなわけない。

 あの時と、同じ感覚を味わう。二度目なだけに、体はとっくに危険を予知して及び腰だ。冷や汗が背筋を流れていく。

 今になって、この部屋に窓の一つもないことに気付く。出入り口は一つだけ。急に、ここが、あたし達を捕らえるために作られた、巨大なネズミ捕りに思えてくる。餌は、教皇自身だ。

 旦那の声が耳に入ってきて、どうにか、焦りがパニックに変わるのを食い止めることができた。


「まさか、この短期間で私の顔を忘れたとは言うまい」

「なんとも不可思議よな。『英雄』と同じ顔をした男が現れるとは」

「……きみは、私を偽物だと思っているのか」

「喋り方までそっくりとは。いったいどうやっているのか、知りたいぐらいだ」

「何も言わずに姿を消したことを怒っているのか? それについては謝ろう。だが、私にもやるべきことがあったのだ」

「ふん?」


 恐る恐る、目線だけを上げる。教皇は面白そうに話を聞いていた。

 聞いてはいる、が、旦那の術にかかっている様子はまったくない。まるで、こちらを試すかのような態度。

 その不遜な態度に、むしろ腹が据わった。自尊心がむくむくと頭をもたげ、こちらも意地になる。

 人間なんぞに舐められてたまるかってんだ。

 旦那の焦りをひしひしと感じながら、あたしは男の方に集中する。武力を手に入れさえすれば、最悪逃げることはできる。

 男の心を覗いて、あたしはまたも怯んだ。炎の中に手を突っ込んで、燃える木炭を拾ってこい。そう命令された気分。この男の心を得ようとするのは、それぐらい無謀だ。

 あたしに当てられたのは、性愛に対するこの上ない嫌悪だった。ここで、あたしが素っ裸になって誘ったところで、逆上させる結果にしかならなさそうな。いや、ここではなく、ベッドの上だったとしても。この男は、無情にも女をベッドから突き落とす。その光景が見える。

 あたしがあがけばあがくほど、より悪い状況に陥る。泥沼の深みに嵌まっていくように。


「ヴァージニア、私のことを信用できないのか」

「信用……信用ね。く、ふ、くふふ、あは、あはははは」


 ついに我慢できなくなった、とばかりに教皇が大口を開けて笑い出す。

 旦那は呆気にとられている。教皇は指を旦那に差し向け、口角の上がった口のまま、言った。


「ダニエル、その者らを捕らえよ」

「なっ——! 私を詐欺師扱いするつもりか!」


 ダニエルと呼ばれた男が、無言で近付いてきて、抜いた剣を旦那の首筋に置いた。あたしに向けられた刃先はないが、とても逃げ出せるものではなかった。

 旦那から目を離した教皇が、あたしの方を見て言ったのだ。


「私とて、人を燃やすぐらいのことはできる。灰になりたくなければ、その場から動かないことだな」


 帯剣していないからといって油断した。教皇は魔術師だった。


「どこぞの狂人が、自分を『英雄』だと思い込んでいるだけなら、どれほど良かったか。詐欺師でも可愛らしいぐらいだ。そなたら、人間ですらないではないか」

「…………!」

「今一度、歓迎申し上げる。『カリム聖教国』へようこそ、淫魔殿」


 喋り慣れていない硬い口調が、余計に神経にさわった。

 旦那は教皇を睨み、体を小刻みに震わせた。


「俺を嵌めやがったのか……?」

「ハメようとしたのは、あなたの方ではなくて?」

「ヴァージニア」


 教皇が品のない返しをすると、男が名前を呼んでたしなめた。

 教皇の名を呼び捨てにできるほどだ。この男も、ただの護衛ではない。さらに言うなら、二人の間に遠慮のない親しみを感じるくらいには、長い付き合いをしている。

 嘲笑されて、旦那は顔を赤くした。


「こんな、……こんな恥辱は初めてだ」


 今にも歯ぎしりが聞こえてきそう。横からぶつけられる睨みも、痛いほど感じる。

 旦那が何を言いたいかは分かっている。なぜ、この男をさっさと誘惑しないんだ。お前は何のためにそこにいる。そうなじっているのだ。

 できたら、とっくにやっている。言われるまでもなく。でも、できないんだよ。

 伝わらないのを承知の上で、心中で弁解する。そんな素振りを、あたしが少しでも見せようものなら、殺されちまう。机の上を這う蟻を叩き潰すのと、同じくらい容易く。


「たった二人でそなたらに会ったことを、不審には思わなかったか? 淫魔の術に抵抗できる人間が、まだ私達ぐらいしかいないからだ」


 あたしを責めるのは筋違いというもの。教皇自らが、そう説明してくれる。

 旦那が訝しげに呟いた。


「まだ? これから増えるとでも?」

「その通り。私達が、人間をそのように教育する。人間に紛れて生きる淫魔を炙りだし、撲滅するために。民を煽動する淫魔はもちろん、そそのかされた『異端』の人間も、まとめて処刑台に送ってやる」

「あ、あんた達は、同じ人間を平気で殺すっていうのかい」


 思わず口をはさんで、後悔した。答えなんて、聞くまでもない。

 教皇は据わった目で答えた。


「それが救いとなるならば。——淫魔に手を付けられた者は、まともな思考ができなくなるのだろう? 人をやめ、家畜になり果てるしかないと聞き及んだぞ」

「どこで、それを……」

「ふ、ふふ、淫魔は随分と恨みを買っているようだな? 有翼人が、自分を殺す相手に向かって、懇願したのだ。命乞いに使うべき時間を、地獄への道連れを増やすことに費やしたのだ」


 ピンで刺された蝶のように、城壁に磔になっていた有翼人を思い出す。あの時、多少憐れに思ってやった自分が恨めしい。まったく無駄な感傷だった。あたしから引き出していった憐憫を、返せるものなら返してほしい。

 煩わしいだけだった羽虫が、とんでもない毒を残していってくれたもんだ。


「たしかに、『英雄』は何も言わずに去っていった。けれど、私達にやるべきことを残していってくれた。私達はカリム様の信頼にお応えするため、淫魔を倒してみせる」


 ぞわぞわとした違和感の正体が、ようやく分かった気がした。

 教皇ヴァージニアには、歴史に名を連ねる幾多の王者のような驕りが、存在しないのだ。己の力で掴み取った座ではないから、なんて理由にならない。二世、三世といった世襲の王はいくらでもいる。

 人の上に立つうちに、贅肉のように付いてくる慢心。それが、ゼロどころかマイナスに振れている。

 『カリム聖教』の最高位にいながら、彼女の上にはさらなる高位の存在がいた。生きていようが死んでいようが関係ない。神格化された『英雄』がいる。

 強い光をたたえた目は、主体的な輝きではなかった。狂信の色だ。


「そのための機関、異端審問局だって設立した。ダニエルは——そこの男のことだが、異端審問局の初代局長だ」

「初代とは笑わせるな」

「一代で淫魔を滅ぼすのは難しい、と判断したのだ。おまえ達のこと、それなりに高く買っているのだぞ?」


 まったくもって嬉しくない。

 こんな警戒をされては、今後、サキュバスとインキュバスは身動きが取れなくなっちまう。じわじわと生殺しになって、滅びの道を辿ることになる。

 あたし達は、舐められているぐらいがちょうど良かったんだ。能ある鷹が爪を隠すように、低俗なフリをして。他の人種には、淫売人種と見下されて。それでも、出くわすことをちょっと期待されているような。そういう立ち位置で良かった。

 醜悪な真実は、いつだって甘い蜜の噂で塗りつぶしてきた。

 それを、それを——

 たった一人の有翼人がバラしやがっただけで。悪辣な本性が、露呈するなんて。有翼人どもは、これまで大事に大事に、淫魔の秘密を抱えてきたくせに。強欲に、奪われまいと、独り占めしてきたくせに。

 ここにきて、方向転換とは。

 くたばりぞこないの有翼人を放置したのは、歴代の淫魔の失態だ。きっちり、一匹残らず、食い尽くす必要があったんだ。『妖妃』が果たせなかった約束を、誰かが果たしてやればよかったんだ。

 後悔しても、遅いけど。

 今さらどうしようもない過去を恨むあたしをよそに、教皇は吐き捨てる。


「家畜扱いされるのはもう、まっぴらごめんだ。どいつもこいつも、人間を食い物だと勘違いしているようだがな」

「……僕も、慰み者になる人間を見るのは嫌だ」


 教皇に続いて、男も静かに告げる。

 旦那は歯を剥いてうなった。


「それで? 俺達を処刑しようってのか? いいぜ、俺はこの姿のまま死んでやる。お前らは自分達の手で、愛しい『英雄』を殺すんだ」

「偽物だと分かっても、その姿が解けないのは忌々しいことだな」

「手を下すのは僕だ。命令してくれて構わない」


 男は鉄のように硬い声で言った後、握っている剣に力を込めた。

 旦那も強がってはいるが、息が荒くなっている。こうもまともに刃物を向けられたのは、生まれて初めてに違いない。向けられるはずの悪意をそらすのが、あたし達の処世術だから。

 男の申し出に、教皇は首を振った。


「どう始末をつけるか、前から考えていた」


 教皇は『英雄』の姿をした旦那から目を離さない。


「おまえ達は飢えを知らない。人の不幸と幸福を糧とし、いつの時代もふくよかに生きてきた。……だから、おまえ達にふさわしい処刑方法は『餓死』だろう」


 拍子抜け——とは違う。どう返すのが正解か、旦那もあたしも分からなかった。

 その言葉を聞いても、実感としてわいてこない。教皇も言っている通り、それぐらい、あたし達には縁遠い感覚だった。


「私達は、おまえ達の死体を見ない。地下牢に幽閉するだけだ」

「……ついこの間まで、地べたに這いつくばっていたような連中が、偉ぶりやがって——ッ!」


 我慢の限界だとばかりに、旦那が叫ぶ。

 跳ね起きて、教皇の唇を奪おうとしたのだろうか。翼を出した勢いのまま、玉座まで迫りそうだった。けど、その勢いがガクンと止まる。まるで、見えているかのように、男が旦那の透明化した尻尾を踏みつけた。


「がッ——」


 痛みに、踏まれた尻尾が露出する。男は、悶絶する旦那の後頭部を剣の柄で殴りつけ、床に倒した。


「デルフィ!」


 受け身も取れず、旦那が顔面からまともに床にぶち当たる。それを目にして、あたしの中で何かがはじけたようだった。近くで剣を持った人間が牽制しているというのに、そのわきをすり抜けて、倒れた旦那のもとまで飛び出した。

 普通に突破されてしまい、男が面食らった顔をしている。だけど、その隙を突こうという気にもなれなかった。

 気絶した旦那をかき抱く。すると、教皇が馬鹿にしたような笑い声を上げた。


「淫魔の愛を見せつけられてしまったぞ、ダニエル。人の愛を利用するくせに、自分達も一丁前にそういう感情を持っているようだ」

「誰とでも寝る恋人を持つというのは、どういう気分なんだろうな」


 追従する男の声も、苛立たしかった。どうせ、己の感覚の内側でしか生きられない人間に、理解はされまい。愛が存在しないどころか、嫌悪する人種がいるとは、思いもしない連中だ。

 だったら、こっちだって馬鹿にし返すしかないだろう。

 鏡写しのように教皇の姿を真似て、『英雄』の姿をした旦那を抱くだけで、強烈な皮肉になる。しかも、出血大サービスで翼と尻尾のオプション付き。


「愛だって? 馬鹿にしないでおくれよ。デルフィの旦那とあたしの関係は、そんな言葉じゃ表せない。愛なんざ、あたし達の術で簡単に騙される脆い感情じゃないか。そんなものを、あたし達の関係に当てはめようとするなんて、この上ない侮辱だよ」


 愛だの恋だの、反吐が出る。吐けるものがないっていうんなら、空気でも出してやる。ただのため息になっちまうけど。

 世の中には、永遠の愛を誓った次の日に、サキュバスに乗っかっている男がいる。永遠の愛。誰に誓ったか知らないが、やっすい言葉じゃないか。それともなんだ、愛っていうやつは、そんなにもぐねぐねと変形しちまうものなのかい。

 だとしたら尚更。そんな信用のできないものを、旦那とあたしの間に置くことはできなかった。


「あんただって、そう思ったから、愛を崇拝に昇華しちまったんじゃないかい。——ああ、違うか。『英雄』が自分の方を向いてくれないから、自分の手には届かない存在だと思い込むようにして、逃げたのか」

「不愉快だ。……と私が感じている時点で、おまえの手のひらの上なのだろうな」


 本当に、あたし達のことをよく理解していらっしゃる。煽りにかかったことも、あっさり見破られてしまった。ただの意趣返しだから、成功も失敗もないけど。

 自分と同じ姿をしたサキュバスを見下ろして、教皇は告げる。


「おまえ達は同じ牢に入れてやろう。私からの気持ちだ、受け取るがいい」

「はっ、粋なはからいだね」

「ああ、そうだろう。サキュバスとインキュバスが共食いするのか、非常に興味深い」


 教皇の発言に、ぞっとした。陰惨な笑みに、初めて支配者としての面影を見た。



 *****



 やるとなったら、人間は徹底していた。地下は窓もないから、太陽も月も見えなくて、いったいあれから何日経ったかも分からない。当然ながら、食事の差し入れもないから、腹時計に頼ることもできなかった。

 とっくに、限界がきている。経験のない事態に、体が内側から悲鳴を上げている。

 あれだけ煽ってやったんだから、誰か一人ぐらい、あたし達を見下しに来ればいいものを。惨めなサキュバスとインキュバスを笑いに来たつもりが、間抜けだからそのまま手先になってしまうような奴。

 でも、来ない。だから、徹底している。淫魔というものを、理解し尽くしている。

 もしかしたら、地下牢の入り口を埋めてしまったのかもしれない。物理的に人が入れないようにして、教皇の本気度を示すいい機会だ。これなら、好奇心に殺される猫も出ない。

 動かせる見張りがいないのは残念だが、旦那と気兼ねなく話せるという点では、悪くない空間だった。暗い場所でも、あたし達はある程度目が利くし、光がないからといってたいして不便でもなかった。


「案外、月の光はあたし達に活力を与えていたのかもしれないねえ。月を見なくなってから、体が衰弱してきた気がするよ」


 地べたに座って身を寄せる。旦那はちらりとあたしを見て、答えなかった。無駄口を叩く体力さえ惜しいというわけだ。

 あたし達は、屋敷にいた頃の姿に戻っていた。旦那は美丈夫の有翼人に、あたしは赤髪のセイレーンに。見慣れた姿だった。けど、それは本当に、あたし達の姿だったか。

 ああ、頭が痛い。

 きっと、腹が空き過ぎて頭がおかしくなっている。普段なら気にもしないことを、変に感じている。

 ほら、この姿を維持するのだって魔力を使うんだからさ。言ってしまえ。と、妙にはっきりとした論理的な思考が、あたしのイカれたとしか思えない頼みの後押しをした。


「旦那の、本当の姿が見たい」

「……!」


 動揺したのか、旦那はあたしから身を離そうとした。それをあえて追うことはしない。

 それぐらい、あたしが口にしたことは非常識だった。

 他の人種の感覚でたとえるのは難しいが、あたしは、服を脱いで裸を見せろと言っているわけじゃなかった。肌を剥いて内臓を見せろ、と言っているも同然なのだ。サキュバスとインキュバスの身を覆う幻覚は、それだけ大事な鎧だった。


「微量とはいえ、姿を維持するには魔力が——あたし達にとって生気に直結する力が、必要なんだ。誰も見ていないんだし、取っ払っちまってもいいだろ。一人じゃ恥ずかしいっていうんなら、あたしが先にやってやるよ」


 からかうように言うと、旦那はむっとした。十年以上の付き合いだ。扱い方は心得ている。自尊心をくすぐれば、すぐに乗ってくる。

 あたしと旦那が変身を解くのは、同時だった。

 どこにも似ている者などいない、唯一の姿。それが現れる。

 借り物の姿で意地を張っていた時とは違い、全身の肉が削げ、あばら骨が浮く。さすがに、もともとはこんな無様な姿じゃない。飢えているせいだ。そりゃ、他の人種に比べれば貧相な体型であることも事実だけど。


「ああ、美しいねえ」

「……冗談だろ?」


 惚れ惚れと言うと、旦那は信じがたいものを見るように、掠れた声で言った。


「旦那は以前言ったね。あたし達はこの世で一番美しい人種だって。あたしもそれに異論はないよ。ただねえ、理由はちょいと違うのさ」


 旦那は黙って耳を傾けている。


「誰かさんから借りた美しさなんて、どうでもいい。誰にも見せることのない本当の姿こそが、美麗そのものだと、本気で思っているんだよ、あたしは。神様はあたし達の本質を隠すために、こんな能力を与えたのさ」

「多くの人は、醜いと……そう言う」

「見る人の主観じゃないか、そんなの。あたしは、これまでのどんな姿よりも、今の旦那が一番美しく思えるよ」

「サルビア、目がかすんでいないか。焦点が合ってないぞ」


 たしかに、目に霞がかかっているようになっているけど、そんなことは問題じゃない。薄暗さだって問題じゃないんだから。あたしのものの見方を、体の不調で捨て置こうなんざ、失礼じゃないか。

 そう抗議しようと思ったけど、わずかに残る生気を、そんなことに使うのは無駄でしかない。せっかくなんだから、あたしはこれを、もっと有益で楽しいことに使うんだ。


「旦那、賭けをしよう」

「はあ? 何を言っているんだ、こんな時に」

「いいから」


 強引にそう言って、得意だった前口上を述べる。前より、キレは悪いかもしれないけど。


「さあさ、賭けをしようじゃないの。この真っ暗闇が、欲望でギラついちまうような最高の駆け引きを。おや、賭け金をお持ちでない? 心配はご無用。輝く金に興味はございません。サキュバスの淑女も、インキュバスの紳士も、皆欲しがるのは楽しい一時だけ。我らのは敵は、死に等しい退屈だけなのですから。ないものは賭けられない、あるものは血の一滴まで賭ける。なら、今回の賭け金は互いの生気といきましょうや。食うか食われるか、一世一代の大勝負。観客がいないのは盛り上がらないが、乗らない手はないだろう?」

「本当に、何を言っているんだ……。そんなこと、できるわけ——」

「おや、勝負からお逃げになるとは。イカサマをしてでも勝ちを得る、けど絶対に尻尾を掴ませない、賭博師のデルフィニウム様とは思えないねえ。最初から負ける心づもりじゃあ、勝てる勝負にも勝てないよ。ましてや、勝負に乗りもしない賭博師は、臆病者のレッテルを貼られちまう」


 自分の舌が、まだこれだけ回るのがありがたい。

 感覚を頼りに喋っているから、自分が何を言っているのか、はっきりいって理解していない。ただ、旦那を勝負に乗らせようと躍起になっていた。

 教皇に言われたことを、ずっと考えていた。あの時、旦那は気絶していたから、覚えちゃいないだろうけど。

 サキュバスとインキュバスの共食い。

 きっと教皇は、飢えに我を忘れて、どちらかが一方を食すようなものを想定していたのだろう。あたしが相手を想って、生気を受け渡す——食われてやろうとする、なんて考えもしなかったはずだ。

 旦那に生気を与えてやれたら、脱出の機会を狙えるかもしれない。ただ、死を先延ばしにするだけかもしれない。たとえ、あたしの自己満足だとしても。旦那には、少しでも長く生きて欲しかった。

 共食いをしたサキュバスの話は、聞いたことがある。

 今のあたし達のルーツと言っても過言ではない、有翼人を貶めたサキュバス――セルベラ・オドラム。有翼人に『妖妃』と称される彼女は、淫魔の間では『共喰い』と揶揄されていた。

 あたし達にとっては、一国を滅ぼすこと以上に、そちらの方が衝撃的でタブーだったからだ。

 セルベラには協力者がいた。『邪神官』として伝わる、マンチニールという名のインキュバス。

 彼が物語の途中でフェードアウトするのは、仲間であったセルベラに喰われたからだという。

 彼女は退屈していたのだ。皇帝を意のままに操ったのも、マンチニールを食したのも、浮遊大陸を落としたのも。すべては遊びの一環。退屈を紛らわせるための、一時の玩具。

 有翼人だけでなく、あたし達の目から見ても、悪女は紛うことなき悪女だった。

 それでも、悪役にはふさわしい最期ってものがあるもんだ。

 好き勝手に生きたセルベラは、結局、鬱憤が溜まった数人のインキュバスに食い散らかされた。有翼人が復讐に燃えなくても、彼女はそれ相応の最期を迎えている。

 悪役は報いを受けるものだ。今のあたし達も同じかもしれない。あるいは、磔にされていた有翼人だって。

 だけど、限りのある足掻きで、有終の美を飾ろうとしたっていいじゃないか。同じ共食いでも、かの悪女よりかは崇高なことをしているという自負がある。


「勝負の、方法は」


 乗った。睨みがちに、旦那が低く言う。


「よしきた。方法はキスにしよう。より多く生気を取った方が勝ち。いたってシンプルだろ?」


 体を重ねるような体力は、どちらにもない。口付けぐらいが現実的だった。

 旦那は無言で近付いてきて、あたしの肩を掴む。顔まで寄せておきながら、逡巡する一瞬。一拍置いて、互いの唇が重なった。

 触れるだけの、とても健全な行為だった。

 瞬間、旦那が目を見開いて、飛び退く。でも、すぐに慌てて戻ってくる。崩れ落ちようとするあたしを受け止めるために。

 それだけの動きができるなら、あたしの生気を、旦那がしっかりと受け取った証拠だろう。知らず、笑みがこぼれる。


「旦那の勝ち、だね」

「こんな、の、試合に勝って勝負に負けたみたいなものだろうが」


 声が震えている。旦那は分かっていた、分かっていてやった。あたしの気持ちを受け止めてくれた。最期の一滴まで搾り取れずに、怖気付くようなへたれだけど。

 あたしは、自分の生気が奪われる感覚を、初めて知った。悪くない気分だった。


「生涯で一度の味わいだねえ」

「最初から負ける心づもりだったのは、お前の方じゃないか」


 もう、目は見えない。でも、声は聞こえるし、感覚もある。肌を打った雫が、どこから落ちてきたものかなんて、見るまでもない。

 インキュバスを泣かせるなんて、あたしの腕もたいしたもんだ。

 慰めの一つでも言ってやりたいが、もう声も出せない。腕も上げられないから、涙を拭ってやることもできやしない。

 まったく、キスで殺されるなんてロマンチックなお伽話じゃないか。

 旦那は王子様じゃないし、あたしはお姫様じゃないから、これが永遠の別れになるだけの話さ。



 *****



 平穏が好きだった。争いは嫌いだった。でも、もう好き嫌いを言える子供のままではいられない。

 平和が自分達に牙を剥くのなら、喧騒を隠れ蓑にしよう。もう一度、小さな戦乱を起こそう。拾った落とし種となら、それができるから。

 一人残されたサキュバスは決意する。

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