3.寝台の晩餐
どんなに愛され、慕われていたとしても、山を出て行けば蔑みの対象となる。家族を捨て、先に裏切ったのはルーシィの方なのだから、それが当然。当然だと、わかっていた。
それでも、姉妹たちの手のひらを返すような態度には少なからず、面食らった。
ルーシィに対する評価はまさに地の底まで落ちて、もとから疎まれがちだったわたしでさえ比ではない。どんなに疎ましかろうが、わたしは家族の一員ということらしい。彼女らにとっては、気に食わない妹、気難しい姉、くらいの立ち位置なのだろう。
だから、わたしが落ち込んでいれば、ぎこちないながらも慰めてくる。
例の奴のことは——そう、ルーシィは名前すら出されなくなった——お前が気にすることはない、なんてママと同じことを言ってくる。これが非常に気持ち悪くて、わたしも最初は閉口した。減らず口ばかり叩く、と言われた口も減ってしまう。
まさか気遣われることでこんな居心地の悪い思いをする羽目になるなんて。全身を虫にたかられるようなむず痒さを感じたので、表面上は以前のわたしに戻った。その方が楽だから。
以前のわたしと一つだけ。違うことがあるとすれば、よく食べるようになったことだ。とりわけ人肉を。
「なんだ? 今度は肥え太って、お母様に食されることを目標にし始めたのか?」
食堂で一人、肉をかき込んでいると、通りすがった姉が揶揄してきた。
そこにほのかな安堵を感じてしまうわたしも、大概だ。わたしが憎まれソフィーに戻ったことで、姉妹たちの態度も元通り。めでたしめでたし。
「お生憎、まだまだ生きてお母様を支えるつもりよ。腹の足しになった方がマシなお姉様とは違って」
「たしかに、三人分くらいの量を毎回食べておいて、たかだか一回分の食事になるだけでは割に合わないな。豚にならないように気をつけろよ」
「お姉様、知っています? 頭を使う者は太りにくいって。きっと、気をつけるべきはわたしではないわね」
「……私が頭を使っていないとでも言うつもりか?」
「あら、お姉様にはそのように聞こえてしまいました?」
四対の目がそれぞれ睨み合って、火花が散る。
「フォークぐらい置いたらどうなんだ」
嫌味の応酬に、最年長の姉の呆れ声が割り込んできて、喧嘩ごっこは一時中断となった。
この姉は、普段は山の麓で〈囲い〉の監視役を務めており、休日だけその役目を交代して山まで帰ってくる。この山でママの次くらいに、敬意を払われる存在だ。そして、やはり自身の仕事内容に即しているのか、蜘蛛に似た胴体には、巨大な目玉のボディペイントがされている。
目玉の姉さんに言われて、わたしは食べるために動かしていた口を、いつの間にやら喋るために動かしていたことに気づいた。これはいけない。行儀が悪い。お皿の上にはまだ肉のかけらが残っているのに。
わたしが無言で食事を再開すると、言い争っていた姉はそそくさと去り、目玉の姉さんは自分の分の食事を持って、切り株のテーブルの向かいに座った。木をくりぬいて作った器から、香ばしい匂いがする。
姉さんの昼食はハーブ焼きかな、と見当をつけてみる。
「おいしそうですね」
「食事係の妹が腕を振るってくれたんだ。君の方は、その、あまり食欲をそそられない色をしているな」
「わたしは姉さんと違って人望がないから毒を盛られたとか、失敗作を押し付けられたとか、そういうわけじゃないですよ」
黒ずんだ肉を、フォークで突き刺す。肉汁はあまり出ず、突き刺した際の感触も固い。予想通りに歯ごたえも抜群。ぎゅ、ぎゅ、と肉ではない何かを嚙み潰している感覚に陥る。
「……美味いか、それ」
「いえ、不味いです」
「そうか。味覚音痴になったのかと心配したぞ」
正面から漂ってくる匂いに、食事中だというのに腹が鳴りそうだった。食べ物を腹に入れる作業をしているはずなのに、どうしようもないひもじさを感じる。
こういう時は、喋って気を紛らわすに限る。行儀の問題とか、二の次だ。
「なんでも食べると言われる、わたしたちアラクネですけど、結構選り好みはしますよね」
「酒が入った杯と毒の入った杯があれば、酒を選ぶのと同じだ。我々は毒への耐性を持つが、わざわざ選ぶものでもない」
「お酒も毒の一種みたいなものだと思いますけど」
「ああ、なるほど。確かにそうだな。アラクネにも効く毒とあっては、強力だな」
くすくす笑う目玉の姉さんの頬は、ほんのり色づいている。
ジョッキを置いた時点で水ではない予感はしていたが、さすがに酔いが回るのが早すぎる。もしかして朝から呑んでるのか、この人。
呆れそうになったが、姉さんにとっては今日が休みの日だということを思い出す。きっと仕事が大変なのだろう。ちょっと同情する。
そしてなぜか、姉さんの方もわたしを同情するように見ていた。
「残飯処理でも任されたのか? 嫌なら断っていいんだぞ?」
なんなら代わりに言ってやろうか、なんてお節介が続きそうだ。
皿の上の肉に目を落とすと、まあ、姉さんがそう言いたくなる気持ちもわかる。
青紫だとか、くすんだ緑色だとか。明らかに普通じゃない色なんだもの。見た目はあれだけど食べると意外に美味しいとか、そんなことないから困る。自分を騙すのにも限界がある。
絶対、アラクネ以外の人種が食べれば、腹を壊すやつだ。これ。場合によっては死ぬ。
「だから、そんなんじゃないですって。……これを調理するのは無理、って投げ出されたやつではありますけど」
「そんなものを何故……」
「見聞を広めようと思いまして」
「ゲテモノ肉の味を知ったところで、何かの役に立つとは思えんけどな」
奇妙なものを見るように、姉さんが呟いた。
わたしだって、いかにも不味そうな肉を食べて、うん不味い、と感想を述べたいわけじゃない。知りたいのは味ではなかった。
これは、肉を通して、その人が生前に見聞きした知識を、世界を、知るための儀式だ。太古より存在する、死者の魂をグールにさらわれる前に、己の身の内に招き入れる方法だ。
アラクネは、家族が死ぬとその身を皆で分け合って食べる。そうすることで、死んだ者とともに在れるからだ。たとえ敵であったとしても、敬意を払うべき相手だと思えば家族と同じ弔い方をする。
以前ママが、リザードマンの死体を食う価値もないと一蹴したのには、単純に不味いという理由以外にも、敬意を払う対象ではないという言外の意味も込められていた。
他の人種は時代を経るにつれ、これを禁忌し、今ではその正確な真意を知るのはアラクネしかいないという。——これも、外の者を食べて得た知識だ。
そして、ルーシィが知りたかったのはそういった、外の知識だ。
彼女が憧れたのは外の世界そのものじゃない。外の世界にしか存在しない織物の製法とか、そういうものだ。
わたしがもっと、魔術以外にも目を向けて博識であったなら、彼女は山を飛び出していかなかった。
この後悔が、わたしを暴食へと突き進めた。食べれば食べるほど、知識は蓄えられていく。
内包した膨大な知識が、いつかまたルーシィのような者が現れた時、役に立つと信じていた。
*****
ルーシィが山を去って一月ほど過ぎた頃、ラヌート山に珍客がやってきた。
前日に降り積もった雪が、昼には陽を受けて溶けかけていた。時折、どさりと雪の塊が落ちる音がする。枝から滴る水に濡れながら山頂近くまで登ってきたのは、よその山から来たアラクネの男だった。
内から外へ出て行く者に厳しい身内は、外から内に入り込んだ者に対しても厳しかった。
大人の男と呼ぶには顔に幼さを残した青年は、ただ立っているだけなのに、四方を囲まれて攻撃的な視線をそそがれている。
きっと彼が相対するのが、わたしたちのお母様だからだ。
「母上はなぜ、このような者の立ち入りをお許しになったのだ」
「お母様が直接お話になるような輩ではないでしょうに」
「男の匂いをかいでいるだけでも立ち眩みを起こしそうだわ。穢らわしい」
年嵩の姉たちはひっきりなしに囁き合い、幼い妹たちは不安そうに足をこすり合わせていた。
“穢らわしい”と称された青年だが、そんな匂いが気になるほど汚れた出で立ちはしていない。むしろ、長旅をしてきたわりには小綺麗な印象を受ける。日焼けのしていない娘たちからすると、青年の浅黒い肌が気に入らないのかもしれないけど。
わたし的には、“みすぼらしい”と表現する方がしっくりきた。
開けた広場に詰めかけたアラクネの娘たち、その中央に引き出された青年は、周囲の喧騒をものともせず平然としていた。用があるのはお母様ただ一人で、それ以外には興味もない。そんな潔さを感じる。
「それで、ワタクシに頼みたいこととは何ですか」
お母様が声を発すると、あたりの音がすっとなくなった。娘たちは、わたしも含めて、息を詰めて青年の返答を待った。
「自分との間に子供を作ってほしい」
爆弾発言だ。
破裂したように場が騒がしさを取り戻した。騒ぎなんて生易しいものじゃない、姉たちは青年を指差して糾弾した。
罵倒の言葉が飛び交う。
一方のお母様は面白そうにしているものだから、こちらとしてはたまらない。
アラクネの男は女よりも小柄であるから、余計に幼く見えるのかもしれないけど、それでもわたしとそう変わらない歳だろう。少年に毛が生えた程度の体格が、わたしたちよりもさらに一回り大きいお母様と並ぶと、余計に小さく見える。
そんな矮小な彼が、お母様と対等でありたいと願い出たのだ。息子になりたいの間違いではないかと、鼻で笑いたくなる。
「それ以外にないでしょうね。そちらからわざわざ出向いてきたのですから」
「承諾してくれるか」
「まあ、お待ちなさい。そう事を急かないで。オマエは、自分が何を申し出ているか理解していますか? 情緒というものが足りませんよ」
姉が“穢らわしい”と口にした意味がわかった気がする。
見た目とかそういう問題ではなく、存在そのものの話だったのだ。男が女の園に入り込んできた時点で、異物ではなく汚物なのだ。
特に、男のアラクネが姿を見せるのなんて、子作りの時だけなのだし。
「まず、話をしましょう。お互いのことを知るために。ワタクシがオマエを受け入れるかどうか決めるのは、そのあとです」
「自分にはそんな時間ないっ……!」
青年はくわっと目を見開いて、こちらが怯むほどの焦りようを見せた。
お母様もこれには多少驚いたようで、首をかしげる。
「本当に急いているのね。でも、こちらはオマエの名前も知らないのですよ。名前と出身ぐらいは教えてもらいます」
「……名前はない。出身はフォッグス山だ」
ぶっきらぼうな受け答えに、姉妹たちがそろって不愉快そうに目を細める。
どうにも躾がなっていない。彼の母親は、求愛の仕方はともかく、礼儀の一つも教えなかったのだろうか。
——なんて思っていると、お母様は合点がいったように頷いた。
「なるほど、理解しました。ならば、オマエは十六年も待ったのでしょう? あともう少しだけ、ワタクシの問いに答えるだけの時間を割いてちょうだい」
お母様が言うと、年長の姉たちが何かに気づいたように囁き合い始めた。
わたしの中にも引っかかるものがあるが、それがなんなのか思い出せない。
「オマエの身の上話、聞かせてください」
「…………。自分が生まれたフォッグス山は、自分が卵の殻を破る前に、リザードマンによって滅ぼされた。マザーと姉達はその時に死んだ。自分は——自分たち息子は、一族が滅びる直前、マザーが一縷の望みをかけて産んだ卵から、生まれた。再興への架け橋となるために。……これでいいか?」
ああ、思い出した。フォッグス山は十六年前、ちょうどわたしが生まれた頃に滅んだアラクネの土地だ。あの時になにか手を打っておけば、とリザードマンとの最初の交戦で死んだ姉の死体を前に、お母様が悔しげに口にしていた。
リザードマンの宗国と獣人の皇国の国境沿いに位置する山だから、彼らの争いにいち早く巻き込まれたのだ。
「この世に生まれ出でた時には、すでに母は死んでいた。だから名前がない、と。オマエ以外の息子はどうしました?」
「子を作られる歳まで育つことができたのは、自分を含めて五人。残りの兄弟は死んだ。自分以外の四人も、旅の途中で死んだ」
「そう……、『マザー』のもとまで辿り着けたのは、オマエだけということですか。母の庇護もなく、よくぞここまで……大変でしたね」
ねぎらいの言葉とともに、お母様は青年の頭をなでた。彼の身の上話を聞いてなお、彼を一方的になじるような姉は、さすがにいなかった。
それなのに、当の本人。青年がキッと目を吊り上げて、お母様の腕を振り払った。ほとんど平手を叩きつけるようで、鋭く乾いた音が鳴った。
お母様の腕が、わずかに赤くなっている。わたしたちの目から隠すように、お母様は反対の手で腕をさすった。
それを見た途端、我を忘れて飛びかかりそうになった。無礼者の息の根を止めることこそ、今できる最善の行動だ。間違いない。そう思ったのに、お母様に牽制の視線を向けられて、その場でぐっと足を踏み止めなければならなかった。
わたし以外にも、青年に手をかけようとした者が大勢いたらしい。お母様はそのすべてに、ぐるりと視線を向けると、最後に青年に視線を戻した。
瞳に怒りの色はなく、それどころか感心の色さえ浮かべていて、わたしたちは戸惑う。
「己の母はただ一人。貴様が母の代わりになることはない。自分は、貴様をただ一人の女として見る」
青年の宣言に、お母様は嘆息した。
「それ自体に新鮮味はありません。ワタクシは以前にも男性と夜を共にしていますからね。でなければ、こんなに子沢山なわけがないですし。……その時は、相手を巣に縛り付けて無理やり事に及んだのでしたっけね」
その時の男が、わたしの父親かもしれないのか。うん、すごくどうでもいい。感慨もないし。生まれてこの方、父親というものを意識したことは一度もなかった。今回が初めてかもしれない。男なんて子種以外に価値はないし、それも当然だ。
他の人種は子を作るまでに愛だの恋だの、面倒な過程を経るらしいけど、まったくもって無駄な時間だ。
わたしたちの両親は、そんな甘ったるい時間を一秒だって過ごしていないに違いない。
「でも、そうですね。ワタクシも求められる側になるのは初めてです。……名もなき息子よ。オマエが求めうる血脈に、ワタクシ以上の適任はいないでしょう。因縁を考えれば、ここに辿り着いたのは当然のこと」
青年を見据え、お母様は妖しく笑う。
彼の故郷はリザードマンに滅ぼされた。そのリザードマンは、わたしたちを率いたマザー・ヴェールピナスに滅ぼされた。
フォッグス山再興の礎となる次代のマザーに、細脚一本でリザードマンを転がすような女傑を据えたいのなら、お母様の血を引く以上にふさわしい者はいないに違いない。
青年はどこかでラヌート山のアラクネがリザードマンを攻め滅ぼしたと聞いて、ここに来ることを選んだのだろう。他山のアラクネの勢力圏に入るのは危険な行為だ。慎重に選択を見極めなければ、無駄死にしかねない。ほかの四人の息子は、そういった過程で命を落としたのかもしれなかった。
お母様は集まった娘たちを見渡し、意見を求めた。
「オマエ達の意見はどう? この母が、新たな子を成すことに異論のある者は?」
読み取れた雰囲気からして、異論のある者が大半のようだ。
先鋒として、わたしの同輩が口を開いた。
「ありえません! そのような不潔な男を、お母様が受け入れるなんて! 考えるだけでゾッとします!」
感情的にひたすら拒否するだけの、幼稚な意見だったが、同意の声はそれなりに上がった。
それを皮切りに、反対意見がどっと湧き上がる。最初は、男がお母様と夜を共にするなんてどれだけ背徳的な行為か、と娘としての心情に訴えかける内容が多かった。
たしかに、男とお母様が寝る図なんて、想像するだけで鳥肌が立つ。
けど、わたしたちが存在する時点で、それはいつかあった光景だ。姉妹の数から逆算して最低五回。彼女たちのことだから、自分の父親だけは特別、なんてことはないと思う。そのあたりの意見を聞きたかったが、そんな空気じゃない。
まあ、自分が生まれる前のことと、これから起きようとすることは別、なのかもしれない。知ってしまった以上、看過できないってやつだ。
最終的に議論——と呼ぶにはかなり一方的だったけど、便宜上の議論は、青年をいかに解体するかという話題に移り変わっていた。
どのように部位を切り取っていくか、事細かに話されても、青年の顔色は変わらなかった。
相変わらず、目線はお母様だけに向いている。
まさか、この短時間でお母様に惚れたとか。いや、最初からこうだったし、一目惚れかも。
なんて内心で茶化してみるのは、彼の真剣な眼差しの意味を、いまいち計れないからだ。アラクネの娘はマザー以上に、惚れた腫れたといった機微に疎いし、それが好意の類だったとしても、わたしには理解できない。
いやそもそも、アラクネの息子だって愛を抱く必要性はない。…………。
「わたしは、悪いことではないと思います」
わたしが一石投じると、実りのない議論はぴたりとやんだ。
ああ、またこの視線だ。嫌われソフィーに、いつもの戯れ以上の敵意が突き刺さる。
けど、お母様の目がきらりと輝いた、ように見えた。それまで身じろぎ一つしなかった青年も、ちょっと振り返ってわたしを見た。
「お母様と血の繋がった『マザー』がいることで、フォッグス山を間接的に支配下に置けますから。平地への進出をお考えならば、この手は打っておいても良いとわたしは考えます」
お母様が満足そうにちょっとだけ、口角を上げる。
そのことに気づかない姉が、食ってかかってきた。
「貴様……このことを勢力拡大の手段などと、軽く考えているのではあるまいな?」
「軽く考えていません。重く考えています」
「どこの馬の骨とも知れぬ男が、我らの母と寝るのだぞ!」
「お姉様は、ほんの少し前の会話も覚えていられないのですか? かの者の素性は知れているじゃありませんか」
唾を飛ばして叫んでいた姉は、ぐっと口を閉ざした。
ほかに反論する者はいないか、姉妹たちの顔を一通り見つめる。すると、おどおどと妹の一人が口を開いた。
「も、もし、お母様の身になにかあったら、私たちは——」
攻め方を変えてきた。
もちろん、さっきの姉も、彼女も、本気でお母様の身を案じているのは確かだろう。心の底からくる不安であり、心配には違いない。
「危害を加えられる可能性を恐れているのね。おまえはお母様思いのいい子だわ。けど、それは無用な心配よ。こんな貧相な体つきの男に、お母様が劣るはずないもの。攻撃すら許さないでしょうよ。たとえそれが、無防備な寝台の上だとしてもね」
姉妹同士がどれだけ言い合っても、最終的な判断を下すのはお母様だ。言うべきことは言ったし、あとはお母様にまかせて引き下がるとする。
「もちろん、わたしはお母様の決定に従います。その男が気にくわないのなら、姉たちが言ったように八つ裂きにするのも一つの選択肢だと思います」
お母様ではなく、青年と目を合わせて言う。すると彼は、感情の読み取りづらい目のまま、ふいと顔をそむけた。
お母様は何事かを思案するように、顎に手を当てている。
「要はワタクシの娘らは、オマエを信用していないということですね。ふむ。ここは一つ、オマエの覚悟を見せていただきましょうか」
「覚悟?」
「何か見返りに、ワタクシに差し出すものはありませんか?」
「先ほど……そこの娘が、新生『マザー』に与える影響力について話していたが……」
「それは、ワタクシが子を産めば、という話です。オマエから与えられるものではないでしょう?」
青年は絶句した。
相当な無理難題を押し付けられたように感じているらしい。苦渋の表情で、地面を睨みつけている。
なにせ彼は、その身一つでやってきて、手土産すら用意していない非礼ぶりだ。元来、そういうことには頭がまわらない性質なのだろう。
しかし、ここで引くわけにはいかないという強い思いが、彼にはあるはずだ。
「自分は……、何も、持っていない」
「それでは、オマエの頼みは聞いてやれませんね。娘らが納得しません」
「た、頼みは聞いてくれないと困るっ!」
「叫べばいいというものではありません。ワタクシが見せろと言っているのは、単純な覚悟です。単純だけれど、簡単ではない」
お母様のなぞかけのような物言いに、青年は目に見えて頭を悩ませ始める。
この時点で、察しのいい姉妹たちはお母様が彼に何をさせようとしているのか、気づいたようだった。もちろんわたしは、察しがいい側だ。
「差し出せるもの……しかし、自分は、本当に、何も持っていない……。この身以外に、何も——」
そこまで言って、青年はハッと顔を上げた。
お母様の顔を窺い見る目には、先ほどまでと違って恐れと怯えが混在している。正解をわかりやすく伝えるために、お母様はわざとらしく舌舐めずりをした。
本能が鳴らす警笛に従って、青年は一歩、二歩、と後ずさる。
このまま逃げてしまえば、彼がお母様と子を成すことはない。逃げ出したとして、姉妹たちの様子からして身の安全は保障できないけど。万が一、ってこともある。確率は低いけど、命が助かる可能性だってあるだろう。
ここに残れば確実に死ぬのだし。
それでも、わたしには彼が後者を選ぶ予感があった。
姉妹たちの願いは届かず、青年の三歩目の後ずさりはなかった。二歩半まで、中途半端に上げた足を、彼はゆっくりともとの位置まで戻した。
「それで母上の本懐を成し遂げられるのなら、望むところだ」
「オマエの母君は果報者ね、こんな孝行息子を持って」
お母様が優しく笑む。
青年の八つの目は、決意を秘めて力強く輝いていた。その横顔は、男前に見えないこともなかった。
お母様は何も意地悪を言ったわけではない。子を産むのにはひどく体力がいるから、滋養をつけるために多く食べるのは、よくあることだ。そして、子の父親がその最初の食事となるのも、いわば恒例のことだった。
他の者が、彼のように自分の意志で向かったかは、微妙なところだけど。
子を作る時期にしか現れない、男のアラクネ。
子を残すことしか能がない——身も蓋もない言い方をすれば、種にしか価値はない連中。そう思っていた。
わたしたちのように一族の中で仕事を担うわけでもなく、その時期が来るまでは怠けだらけている。そう考えていた。
違うのだ。
彼らにとっては子を残すこと、それ自体が重要な役割で、大事な仕事だった。命をかけて挑まなければならないほどの。
ふと、興味がわく。
彼が辿ってきた道はどのようなものだったか。アラクネの息子は、『母』をどう思っているのか。わたしたち娘のように、彼もまた、母のために生きる子であったのか。
母親の寵愛を受ける時間を与えられなかった息子。庇護なきアラクネの男。その彼が、お母様の胸に迎え入れられる。
わたしの中に、じわりじわりと、一つの望みが染みわたる。
——彼のことを知りたい。